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本編(つづき)
data80:こころのなか (結)
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────,80
もう一度ここに戻ってこられるなんて思わなかった。
またみんなの顔が見られるなんて思わなかった。
そして、復活した直後からソーヤに小一時間泣きながら説教される羽目になろうとは、これまた全くこれっぽっちも思ってはいなかった、ヒナトであった。
しかも忙しいことに、叱られている間もみんなが放っておいてくれない。
横から誰ともわからない手が伸びてきて、タオルでわしわし撫でくり回されるように髪を拭かれたり、熱いココアを飲まされたりと、休む暇がない。
ココアに関しては寒かったし美味しかったのでとてもすごく非常にありがたいけれども。
「……っとにおめーは、大事なことに限って俺に説明も相談もしやがらねえ……ッ」
「ごッ、ぇん、なさ、……けふっ」
「滑舌が戻らないな」
「呼吸したときに保存液を飲んだんでしょ。あれかなり粘度が高いから」
「それじゃあ、うがい代わりにココアおかわりする? ヒナちゃん」
「お白湯のほうがいいんじゃないかしら。甘いものは余計にねばついちゃうし」
「じゃ俺やかん取ってくるわ! 他に要るもんある? 腹とか減ってね?」
「……プリンをやってもいいぞ」
とまあ、こんな調子でみんながヒナトとソーヤを取り囲んでやんやと騒いでいた。
こんなに賑やかなGHなんて見たことがない。少なくともヒナトがいなくなる前までは、こんな光景は見られなかった。
みんなの意識が自分に向けられているのがわかって、なんだかこそばゆい。
相変わらず仏頂面のサイネとユウラ。でも今日はちょっとだけ嬉しそうにしている気がする。
美しいタニラと、爽やかなエイワ。二通りの笑顔が温かい。
アツキもいつもどおり優しいし、どういうわけかニノリもプリンを分けてくれるという太っ腹だ。
そして、彼らの背後から、ちょっと遠慮がちに顔を覗かせた懐かしいふたり。
ワタリとミチルは、それぞれ手に何か持っている。
「みんなそれくらいにして、一旦離れてもらっていいかな。そろそろ医務部からベッドがくるから」
「あと服着せるから男は出てって」
その言葉にみんながぞろぞろと離れていく中、ヒナトはようやく己の恰好に気づいた。
毛布一枚、その下は全裸だ。水槽の中にいたのだから当たり前だが。
つまり胸から尻から何から何まで、ソーヤおよび全ソアに見られたということだろう。
「ぎ……ゃ……――ッ!?」
まともに声が出せないままだったので、ヒナトの悲鳴は悲しいほどに掠れていた。
ともかくそのあと、締め付けのないゆったりとした服を着せられたヒナトは、到着したキャスターつきのベッドで医務部へと運ばれた。
そこであれこれ検査をした。
ほんとうに問題なく復活したのか、どこかに異常や不具合が残っていないか確かめるために。
検査をしながら、職員たちも嬉しそうな顔をしていたのは気のせいではないと思いたい。
復活できてよかったなあと呑気に思いながら、合間に白湯を浴びるほど飲んで、終わるころにはだいぶ喋りやすくなっていた。
最後まで付き添ってくれたのは意外にもミチルだ。まだ手足は上手く動かせなかったので、検査のためにめくれた服の裾などをその都度直してくれたりもした。
しかも顔が強張っていない。
自分がいない間にいろいろ変わったみたいだな、と鈍感なヒナトでも感じるほどだった。
それに、思えば、みんな少し大人びていた気もする。
顔もそうだが、とくにニノリは背が伸びていた。前はヒナトと変わらないくらいだったのに。
……どことなくミチルの胸部も増えている気がする。
ヒナトはそっと視線を下にやったけれど、残念ながら己のそのあたりはほとんど育った気配がなかった。保存液からの最低限の栄養だけでは足りなかったか……。
それにミチルの最大の変化といえば、髪型だ。
「……髪、のびた?」
「え? ……あ、ああ、伸ばしてるから」
「いーな。みつあみ、かわいい。それ、自分で、やった?」
「うん。……タニラちゃんが教えてくれて」
「え! よかったね」
ミチルは無言で頷いた。
それがなんだか無性に嬉しくて、ヒナトもふふんと鼻を鳴らす。
それに呼びかた、前はタニラのことをちゃん付けなんてしてなかったはずだ。
もっといろいろ話を聞きたい。
ヒナトがいない間にどんな変化があったのか、ミチルだけでなく他のソア全員に聞いて回りたい。
そもそもどれくらい経ったのだろうか。どうやら二、三ヶ月程度ではなさそうだけれども。
ずっと眠っていて、窓を見ていないから、今は季節もわからない。
結局そのあとも、ヒナトの病室には入れ替わり立ち代わりソアたちがやってきた。
それでわかったことがいくつかある。
まず、ヒナトが実質死んでいた期間は二年半にも及んでいた。そりゃあみんなが大人びたはずである。
ヒナトは長いこと身体の構成がまともでなかったためか、肉体的にはぜんぜん成長していないので、なんだか自分だけ取り残されたような気分だ。
でもって衝撃的だったのが、もう彼らはGH所属ではないということである。
ニノリやミチルなど一部は残留しているが、ソーヤ世代はみんなラボに繰り上がっている――といっても名目上の話で、ラボ側のいろいろな都合で未だにGHの制服やオフィスを使っている。
そして第二世代ソアの生存率が絶望的なため、研究所の仕組み自体を変えようという議論がなされているらしい。
ヒナトには難しかったのでかなり流し聞きしてしまい、細かいことはよくわかっていないのだが、ラボを拡大してGHをその中のいち部署にするとか、どうとか。
それって今までとどう違うの、と思ったものの、説明されても理解できる気がしないので質問はしないでおく。
ともかく、環境は確かに変化していた。
良い知らせもそうでないものも、ヒナトが知るべき新しい情報は、無限に思えるほどにたくさんあった。
「あ、ところであの、ソーヤさん」
見舞いにくるなりベッド脇のパイプ椅子に陣取った、相変わらずな旧班長様の袖をくいと引っ張る。
振り向いた顔はたしかに記憶にあるよりも精悍になっていた。
それに、髪も前ほど長くなくてすっきりしている。このほうが似合うと思います、と声に出さずにちょっと思った。
もちろんヒナトにとっては、どんなソーヤでも、唯一無二のソーヤだけれど。
「GHじゃないってことは、つまり、あたし、ソーヤさんの秘書じゃないんですか? 戻っても」
「まあ、そうなるよな。ラボにそういう制度はねぇし」
「……ぬわーッ!!」
「なんだ急に変な声出しやがって」
いや、なんだではないだろう。ヒナトにとっては絶望である。
ソーヤの肩越しに笑いを噛み殺しているワタリがちょっと見えたけれどそれどころではない。
だってソーヤの秘書じゃなくなったヒナトにもはやアイデンティティはないのだ。
オペラ細胞とかはどうだっていい。それは自分で選んでなったものじゃないし、ソーヤのために役立てたという点は嬉しかったけれど、結局は復活直後にガッツリお説教をキメられてしまうのがヒナトという人間なのだ。
ソーヤの泣き顔なんて初めて見たし、その原因が自分だと思うとやや空しい。……意外な一面を見られたという意味ではちょっとなんかよかったけど、それはそれ。これはこれ。あれはあれ。
ともかくヒナトの細胞でソーヤがアマランス疾患を克服できたのなら、もはやヒナトは用済みの存在なのである。今後他のことで役立てるとは到底思えない。
ちょっと特殊な細胞を持っていたって、ヒナト自身は何の取柄もない無能な人間なのだから。
「……おまえ泣いて」
「ないです……これは、……なんか……液ですッ……」
「一般的に眼から液体垂れ流してんのは泣いてるって言うんだよ。ほら拭け」
ティッシュを受け取ってしくしく嘆く眼と鼻を拭う。その優しさは染み入るように嬉しいけれど、それはともかく、ヒナトはこれからどうやって生きていけばいい。
いったい何をすれば、ここに存在することを許してもらえる。
いや、違う。
誰かに許してほしいんじゃない。存在を拒まれたと思ったことなんて、いつかのミチルの暴言を除けばほとんどなかった。
ヒナトの能力のなさを嫌っていたのは、それを許せなかったのは、誰でもないヒナト自身だ。
だからソーヤに命を差し出すことも、躊躇わなかった。
「干される……て……言ったの、ソーヤさんで……覚えてない、かも、しれな、っけど……」
「は?」
「あ、あたしを……秘書にするって……言ったときぃ……」
たぶんパニックになっていて、言うべきでないことまで口走ってしまった。
薄々それをわかっても、もう出した言葉はひっこめられないし、涙も止められない。
そのときは意味なんてわからなかった。ヒナトはあまりに幼かったから、よくわからないけれど楽しそうな提案だと思って乗っかった。
実際にオフィスに入ってから、自分が周りよりどれほど劣るかを知ったのだ。
ソーヤに秘書の肩書きをもらったから、第一班のオフィスを自分の居場所にすることができたけれど、そうでなければどこにも入れないし必要とされない。
それがミチルの登場でさらに浮き彫りになった。代わりの人間がいるのなら、完全にヒナトは邪魔な置物でしかない。
まさしく「干される」しかない状況だった。
だったらせめて、最後に大好きな人の役に立ってから消えたい。
だから、戻ってこられるとは思っていなかった。戻りたいとも思っていなかった。
またみんなの顔が見られたのは嬉しいけれど、それは同時に、もう一度ままならない現実を突きつけられるのと同じだった。
ヒナトがどんなにみんなを愛しても、彼らと同じものにはなれない。
「……覚えてる」
ふと、ソーヤが呟いた。
「幸か不幸か、薬物処理ってのは不完全な部分が多くて、定期的に処置を繰り返さないと効果が持続しないもんらしい。俺にとっちゃ幸いだったけどな。つーわけで薬は拒否したから、もうぜんぶ覚えてるよ」
「……え……」
「つーかそもそも思い出してなけりゃおめーを復活させようって話にはならねえだろ。
そんでな、俺がそう言い出したとき、誰一人止めなかった。まだ拗ねてたミチルはともかくほぼ全員一致で賛成してくれた。
ラボからやんわり止められた日にゃサイネがすげー勢いで反論してたし、タニラやエイワが連絡係になって三つの班を連携させて、あのニノリもプリン切れで発狂寸前になるまで働いてくれたしよ、ユウラに至っちゃ一回入院したし、アツキも一時期グロッキーでやばかった」
聞いてもいないことを急にぺらぺら話し始めたソーヤを見て、あれこの感じは知ってるな、と思いつつヒナトは聞き入った。
いつの間にか泣くのも忘れていた。たぶんそれは、饒舌に語るソーヤの表情のせいだ。
ヒナトのために仲間たちがどれほど苦労したか、具体的に誰がどんな貢献をしてくれたのかを、なぜかものすごく嬉しそうに話して聞かせてくれるから。
さんざん語ったあと、ソーヤはぱっと背後を振り返る。
「おまえらもよく働いてくれたよな。改めてご苦労さん」
「よく言う。嫌でも拒否権なかったし……ワタリはともかくなんであたしまで強制なんだって話で」
「まあそれは旧第一班班員の宿命だよね。でも、ミチル、いろいろありがとう」
「……なんでワタリがお礼言うの? 変だしなんか気持ち悪い……」
「ひどいなぁ」
ほんとうに傷ついたような声音で言いながら笑っているワタリに、ミチルもにやりと口角を持ち上げた。
「ヒナト、……あんたこそ感謝してよ。あたしの協力がなかったら、あんた今こうしてないんだからね」
「そ、そうなの……?」
「うん、それは否定できない。臓器とかそのへんはね、やっぱり、女の子だし」
「それに元々おまえのベースだったわけだしな」
「よ……よくわかんないけど、あの、ミチル、ありがとう……」
言いながら、それでよかったんだろうか、とまた少し不安になった。
ヒナトはここに帰ってきてよかったんだろうか。
そのためにみんなに苦労をかけて、ヒナトをあれほど嫌っていたミチルに、無理やり協力させてまで。
そんなことをする価値が、ほんとうに自分にあるのだろうかと。
でも――ミチルはヒナトの小さな「ありがとう」を聞いて、笑ったのだ。
口角をちょっと上げたなんてものじゃない。ほんとうに、笑顔としか言いようのない曇りのない表情を、こちらに向けてくれた。
それを見たらもう何も言えなかった。何も、悪い考えなんて浮かばなくなった。
ミチルは少し大人っぽくなって、髪型も変わって、身体つきもヒナトのそれとはもう似ていない。
けれどまだ、そのどこかには昔の面影がちゃんと残っている。
だからヒナトにはまるで、未来の自分が笑いかけてくれたみたいに思えたのだ。
笑って、そこにいてもいいんだよと言われたような、そんな気がした。
我慢できなくなって、また泣いてしまった。
でもこれは悲しい涙じゃない。
辛さや苦しさ、悔しさから出てくるものなんかじゃない。
三人が集まってそれぞれ背中を撫でてくれる、その手がどれも温かくて愛おしい。
「り……がと……ミチル……ありがと……ッ」
「なんで泣くのかぜんぜんわかんないんだけど。それにお礼言うのは一回でいい」
「そじゃ……なくてぇ……ッ、み、ミチルが、いて……くれて、よかっ……」
「もうほんとわけわかんない」
呆れたように、けれどどこか笑っているようなミチルの声を聞きながら、ヒナトはいちばん近くにいたソーヤに縋りついて泣いた。
ほんとうは良くないことだとわかっている。ミチルはあくまでもミチルという個人で、ヒナトの代わりや偽者や、鏡なんかではないのだから。
彼女の中に自分の幻想を見て、それに慰められるなんて間違っている。
でも、そんな救いをヒナトに与えられる人間が、彼女の他にはいるはずもない。
だから今だけはそれを許してほしい。
泣きじゃくるヒナトの耳に何か物音が聞こえてきた。
誰かが扉を開けて、旧第一班の三人を呼びに来たらしかった、大人の声だったから、たぶんリクウか誰かだろう。
三人はそれぞれ返事をして、そして出て行った――それでもヒナトを包む温かい熱はそのままで、ソーヤだけは残ってくれたらしい。
頭を撫でられる感触がある。いつか、前にも、同じようなことがあった。
あれはたしかソーヤの部屋で。
ヒナトが全力でぶつけたどうしようもない悲しみと不安と混乱を、ソーヤは何も言わずに受け止めてくれた。
今もそうだ。何も聞かずにただそこにいてくれる。
あのときより少し大きくなった胸から、彼の鼓動が聞こえる。
命の音。生きている証。
ヒナトが唯一役に立てたもの。
「……ヒナ」
小さく名前を呼ばれ、ヒナトはぐずぐずになった顔をそっと上げる。
以前はそこに苦しげな表情があった、けれど今は、ソーヤは穏やかな微笑みでこちらを見下ろしている。
「もう、どこにも行くんじゃねえぞ。絶対に俺の前からいなくなるな。もしまたこんなことしやがったら絶対に許さないからな。
だから今度は俺の助手になれ。ラボにそういう役職があるわけじゃねえけどこれから作りゃいい。
二度といなくならねえように、ずっと横に置いて見張っててやる」
顔と、言うことに温度差がありすぎた。
優しい表情を浮かべて言うには乱暴すぎる宣言が、それがあんまりにもソーヤらしくて、ヒナトは思わず噴出しそうになる。
ああ、やっぱり、この人はそうでなくっちゃ。
「……はい。あたし、ソーヤさんの助手、やります」
:::*:::
どこかの山の中にひっそりと建つ研究所。
そこはもっとも天国に近い、あるいは地獄のような場所。その名を『花園』。
永遠に朽ちぬ幻『不凋花』を求める、科学者たちの夢の墓場。
科学者は種を蒔く。
種は根を張り、芽吹いてゆっくり天を目指す。
いつか美しい花を咲かせるために、変わり者ぞろいの蕾たちは、空を仰いで風を読む。
彼らを育む植木鉢の奥底には、『神の御業』が眠っている。
―― 眠れるオペラ 了
→次回あとがき
もう一度ここに戻ってこられるなんて思わなかった。
またみんなの顔が見られるなんて思わなかった。
そして、復活した直後からソーヤに小一時間泣きながら説教される羽目になろうとは、これまた全くこれっぽっちも思ってはいなかった、ヒナトであった。
しかも忙しいことに、叱られている間もみんなが放っておいてくれない。
横から誰ともわからない手が伸びてきて、タオルでわしわし撫でくり回されるように髪を拭かれたり、熱いココアを飲まされたりと、休む暇がない。
ココアに関しては寒かったし美味しかったのでとてもすごく非常にありがたいけれども。
「……っとにおめーは、大事なことに限って俺に説明も相談もしやがらねえ……ッ」
「ごッ、ぇん、なさ、……けふっ」
「滑舌が戻らないな」
「呼吸したときに保存液を飲んだんでしょ。あれかなり粘度が高いから」
「それじゃあ、うがい代わりにココアおかわりする? ヒナちゃん」
「お白湯のほうがいいんじゃないかしら。甘いものは余計にねばついちゃうし」
「じゃ俺やかん取ってくるわ! 他に要るもんある? 腹とか減ってね?」
「……プリンをやってもいいぞ」
とまあ、こんな調子でみんながヒナトとソーヤを取り囲んでやんやと騒いでいた。
こんなに賑やかなGHなんて見たことがない。少なくともヒナトがいなくなる前までは、こんな光景は見られなかった。
みんなの意識が自分に向けられているのがわかって、なんだかこそばゆい。
相変わらず仏頂面のサイネとユウラ。でも今日はちょっとだけ嬉しそうにしている気がする。
美しいタニラと、爽やかなエイワ。二通りの笑顔が温かい。
アツキもいつもどおり優しいし、どういうわけかニノリもプリンを分けてくれるという太っ腹だ。
そして、彼らの背後から、ちょっと遠慮がちに顔を覗かせた懐かしいふたり。
ワタリとミチルは、それぞれ手に何か持っている。
「みんなそれくらいにして、一旦離れてもらっていいかな。そろそろ医務部からベッドがくるから」
「あと服着せるから男は出てって」
その言葉にみんながぞろぞろと離れていく中、ヒナトはようやく己の恰好に気づいた。
毛布一枚、その下は全裸だ。水槽の中にいたのだから当たり前だが。
つまり胸から尻から何から何まで、ソーヤおよび全ソアに見られたということだろう。
「ぎ……ゃ……――ッ!?」
まともに声が出せないままだったので、ヒナトの悲鳴は悲しいほどに掠れていた。
ともかくそのあと、締め付けのないゆったりとした服を着せられたヒナトは、到着したキャスターつきのベッドで医務部へと運ばれた。
そこであれこれ検査をした。
ほんとうに問題なく復活したのか、どこかに異常や不具合が残っていないか確かめるために。
検査をしながら、職員たちも嬉しそうな顔をしていたのは気のせいではないと思いたい。
復活できてよかったなあと呑気に思いながら、合間に白湯を浴びるほど飲んで、終わるころにはだいぶ喋りやすくなっていた。
最後まで付き添ってくれたのは意外にもミチルだ。まだ手足は上手く動かせなかったので、検査のためにめくれた服の裾などをその都度直してくれたりもした。
しかも顔が強張っていない。
自分がいない間にいろいろ変わったみたいだな、と鈍感なヒナトでも感じるほどだった。
それに、思えば、みんな少し大人びていた気もする。
顔もそうだが、とくにニノリは背が伸びていた。前はヒナトと変わらないくらいだったのに。
……どことなくミチルの胸部も増えている気がする。
ヒナトはそっと視線を下にやったけれど、残念ながら己のそのあたりはほとんど育った気配がなかった。保存液からの最低限の栄養だけでは足りなかったか……。
それにミチルの最大の変化といえば、髪型だ。
「……髪、のびた?」
「え? ……あ、ああ、伸ばしてるから」
「いーな。みつあみ、かわいい。それ、自分で、やった?」
「うん。……タニラちゃんが教えてくれて」
「え! よかったね」
ミチルは無言で頷いた。
それがなんだか無性に嬉しくて、ヒナトもふふんと鼻を鳴らす。
それに呼びかた、前はタニラのことをちゃん付けなんてしてなかったはずだ。
もっといろいろ話を聞きたい。
ヒナトがいない間にどんな変化があったのか、ミチルだけでなく他のソア全員に聞いて回りたい。
そもそもどれくらい経ったのだろうか。どうやら二、三ヶ月程度ではなさそうだけれども。
ずっと眠っていて、窓を見ていないから、今は季節もわからない。
結局そのあとも、ヒナトの病室には入れ替わり立ち代わりソアたちがやってきた。
それでわかったことがいくつかある。
まず、ヒナトが実質死んでいた期間は二年半にも及んでいた。そりゃあみんなが大人びたはずである。
ヒナトは長いこと身体の構成がまともでなかったためか、肉体的にはぜんぜん成長していないので、なんだか自分だけ取り残されたような気分だ。
でもって衝撃的だったのが、もう彼らはGH所属ではないということである。
ニノリやミチルなど一部は残留しているが、ソーヤ世代はみんなラボに繰り上がっている――といっても名目上の話で、ラボ側のいろいろな都合で未だにGHの制服やオフィスを使っている。
そして第二世代ソアの生存率が絶望的なため、研究所の仕組み自体を変えようという議論がなされているらしい。
ヒナトには難しかったのでかなり流し聞きしてしまい、細かいことはよくわかっていないのだが、ラボを拡大してGHをその中のいち部署にするとか、どうとか。
それって今までとどう違うの、と思ったものの、説明されても理解できる気がしないので質問はしないでおく。
ともかく、環境は確かに変化していた。
良い知らせもそうでないものも、ヒナトが知るべき新しい情報は、無限に思えるほどにたくさんあった。
「あ、ところであの、ソーヤさん」
見舞いにくるなりベッド脇のパイプ椅子に陣取った、相変わらずな旧班長様の袖をくいと引っ張る。
振り向いた顔はたしかに記憶にあるよりも精悍になっていた。
それに、髪も前ほど長くなくてすっきりしている。このほうが似合うと思います、と声に出さずにちょっと思った。
もちろんヒナトにとっては、どんなソーヤでも、唯一無二のソーヤだけれど。
「GHじゃないってことは、つまり、あたし、ソーヤさんの秘書じゃないんですか? 戻っても」
「まあ、そうなるよな。ラボにそういう制度はねぇし」
「……ぬわーッ!!」
「なんだ急に変な声出しやがって」
いや、なんだではないだろう。ヒナトにとっては絶望である。
ソーヤの肩越しに笑いを噛み殺しているワタリがちょっと見えたけれどそれどころではない。
だってソーヤの秘書じゃなくなったヒナトにもはやアイデンティティはないのだ。
オペラ細胞とかはどうだっていい。それは自分で選んでなったものじゃないし、ソーヤのために役立てたという点は嬉しかったけれど、結局は復活直後にガッツリお説教をキメられてしまうのがヒナトという人間なのだ。
ソーヤの泣き顔なんて初めて見たし、その原因が自分だと思うとやや空しい。……意外な一面を見られたという意味ではちょっとなんかよかったけど、それはそれ。これはこれ。あれはあれ。
ともかくヒナトの細胞でソーヤがアマランス疾患を克服できたのなら、もはやヒナトは用済みの存在なのである。今後他のことで役立てるとは到底思えない。
ちょっと特殊な細胞を持っていたって、ヒナト自身は何の取柄もない無能な人間なのだから。
「……おまえ泣いて」
「ないです……これは、……なんか……液ですッ……」
「一般的に眼から液体垂れ流してんのは泣いてるって言うんだよ。ほら拭け」
ティッシュを受け取ってしくしく嘆く眼と鼻を拭う。その優しさは染み入るように嬉しいけれど、それはともかく、ヒナトはこれからどうやって生きていけばいい。
いったい何をすれば、ここに存在することを許してもらえる。
いや、違う。
誰かに許してほしいんじゃない。存在を拒まれたと思ったことなんて、いつかのミチルの暴言を除けばほとんどなかった。
ヒナトの能力のなさを嫌っていたのは、それを許せなかったのは、誰でもないヒナト自身だ。
だからソーヤに命を差し出すことも、躊躇わなかった。
「干される……て……言ったの、ソーヤさんで……覚えてない、かも、しれな、っけど……」
「は?」
「あ、あたしを……秘書にするって……言ったときぃ……」
たぶんパニックになっていて、言うべきでないことまで口走ってしまった。
薄々それをわかっても、もう出した言葉はひっこめられないし、涙も止められない。
そのときは意味なんてわからなかった。ヒナトはあまりに幼かったから、よくわからないけれど楽しそうな提案だと思って乗っかった。
実際にオフィスに入ってから、自分が周りよりどれほど劣るかを知ったのだ。
ソーヤに秘書の肩書きをもらったから、第一班のオフィスを自分の居場所にすることができたけれど、そうでなければどこにも入れないし必要とされない。
それがミチルの登場でさらに浮き彫りになった。代わりの人間がいるのなら、完全にヒナトは邪魔な置物でしかない。
まさしく「干される」しかない状況だった。
だったらせめて、最後に大好きな人の役に立ってから消えたい。
だから、戻ってこられるとは思っていなかった。戻りたいとも思っていなかった。
またみんなの顔が見られたのは嬉しいけれど、それは同時に、もう一度ままならない現実を突きつけられるのと同じだった。
ヒナトがどんなにみんなを愛しても、彼らと同じものにはなれない。
「……覚えてる」
ふと、ソーヤが呟いた。
「幸か不幸か、薬物処理ってのは不完全な部分が多くて、定期的に処置を繰り返さないと効果が持続しないもんらしい。俺にとっちゃ幸いだったけどな。つーわけで薬は拒否したから、もうぜんぶ覚えてるよ」
「……え……」
「つーかそもそも思い出してなけりゃおめーを復活させようって話にはならねえだろ。
そんでな、俺がそう言い出したとき、誰一人止めなかった。まだ拗ねてたミチルはともかくほぼ全員一致で賛成してくれた。
ラボからやんわり止められた日にゃサイネがすげー勢いで反論してたし、タニラやエイワが連絡係になって三つの班を連携させて、あのニノリもプリン切れで発狂寸前になるまで働いてくれたしよ、ユウラに至っちゃ一回入院したし、アツキも一時期グロッキーでやばかった」
聞いてもいないことを急にぺらぺら話し始めたソーヤを見て、あれこの感じは知ってるな、と思いつつヒナトは聞き入った。
いつの間にか泣くのも忘れていた。たぶんそれは、饒舌に語るソーヤの表情のせいだ。
ヒナトのために仲間たちがどれほど苦労したか、具体的に誰がどんな貢献をしてくれたのかを、なぜかものすごく嬉しそうに話して聞かせてくれるから。
さんざん語ったあと、ソーヤはぱっと背後を振り返る。
「おまえらもよく働いてくれたよな。改めてご苦労さん」
「よく言う。嫌でも拒否権なかったし……ワタリはともかくなんであたしまで強制なんだって話で」
「まあそれは旧第一班班員の宿命だよね。でも、ミチル、いろいろありがとう」
「……なんでワタリがお礼言うの? 変だしなんか気持ち悪い……」
「ひどいなぁ」
ほんとうに傷ついたような声音で言いながら笑っているワタリに、ミチルもにやりと口角を持ち上げた。
「ヒナト、……あんたこそ感謝してよ。あたしの協力がなかったら、あんた今こうしてないんだからね」
「そ、そうなの……?」
「うん、それは否定できない。臓器とかそのへんはね、やっぱり、女の子だし」
「それに元々おまえのベースだったわけだしな」
「よ……よくわかんないけど、あの、ミチル、ありがとう……」
言いながら、それでよかったんだろうか、とまた少し不安になった。
ヒナトはここに帰ってきてよかったんだろうか。
そのためにみんなに苦労をかけて、ヒナトをあれほど嫌っていたミチルに、無理やり協力させてまで。
そんなことをする価値が、ほんとうに自分にあるのだろうかと。
でも――ミチルはヒナトの小さな「ありがとう」を聞いて、笑ったのだ。
口角をちょっと上げたなんてものじゃない。ほんとうに、笑顔としか言いようのない曇りのない表情を、こちらに向けてくれた。
それを見たらもう何も言えなかった。何も、悪い考えなんて浮かばなくなった。
ミチルは少し大人っぽくなって、髪型も変わって、身体つきもヒナトのそれとはもう似ていない。
けれどまだ、そのどこかには昔の面影がちゃんと残っている。
だからヒナトにはまるで、未来の自分が笑いかけてくれたみたいに思えたのだ。
笑って、そこにいてもいいんだよと言われたような、そんな気がした。
我慢できなくなって、また泣いてしまった。
でもこれは悲しい涙じゃない。
辛さや苦しさ、悔しさから出てくるものなんかじゃない。
三人が集まってそれぞれ背中を撫でてくれる、その手がどれも温かくて愛おしい。
「り……がと……ミチル……ありがと……ッ」
「なんで泣くのかぜんぜんわかんないんだけど。それにお礼言うのは一回でいい」
「そじゃ……なくてぇ……ッ、み、ミチルが、いて……くれて、よかっ……」
「もうほんとわけわかんない」
呆れたように、けれどどこか笑っているようなミチルの声を聞きながら、ヒナトはいちばん近くにいたソーヤに縋りついて泣いた。
ほんとうは良くないことだとわかっている。ミチルはあくまでもミチルという個人で、ヒナトの代わりや偽者や、鏡なんかではないのだから。
彼女の中に自分の幻想を見て、それに慰められるなんて間違っている。
でも、そんな救いをヒナトに与えられる人間が、彼女の他にはいるはずもない。
だから今だけはそれを許してほしい。
泣きじゃくるヒナトの耳に何か物音が聞こえてきた。
誰かが扉を開けて、旧第一班の三人を呼びに来たらしかった、大人の声だったから、たぶんリクウか誰かだろう。
三人はそれぞれ返事をして、そして出て行った――それでもヒナトを包む温かい熱はそのままで、ソーヤだけは残ってくれたらしい。
頭を撫でられる感触がある。いつか、前にも、同じようなことがあった。
あれはたしかソーヤの部屋で。
ヒナトが全力でぶつけたどうしようもない悲しみと不安と混乱を、ソーヤは何も言わずに受け止めてくれた。
今もそうだ。何も聞かずにただそこにいてくれる。
あのときより少し大きくなった胸から、彼の鼓動が聞こえる。
命の音。生きている証。
ヒナトが唯一役に立てたもの。
「……ヒナ」
小さく名前を呼ばれ、ヒナトはぐずぐずになった顔をそっと上げる。
以前はそこに苦しげな表情があった、けれど今は、ソーヤは穏やかな微笑みでこちらを見下ろしている。
「もう、どこにも行くんじゃねえぞ。絶対に俺の前からいなくなるな。もしまたこんなことしやがったら絶対に許さないからな。
だから今度は俺の助手になれ。ラボにそういう役職があるわけじゃねえけどこれから作りゃいい。
二度といなくならねえように、ずっと横に置いて見張っててやる」
顔と、言うことに温度差がありすぎた。
優しい表情を浮かべて言うには乱暴すぎる宣言が、それがあんまりにもソーヤらしくて、ヒナトは思わず噴出しそうになる。
ああ、やっぱり、この人はそうでなくっちゃ。
「……はい。あたし、ソーヤさんの助手、やります」
:::*:::
どこかの山の中にひっそりと建つ研究所。
そこはもっとも天国に近い、あるいは地獄のような場所。その名を『花園』。
永遠に朽ちぬ幻『不凋花』を求める、科学者たちの夢の墓場。
科学者は種を蒔く。
種は根を張り、芽吹いてゆっくり天を目指す。
いつか美しい花を咲かせるために、変わり者ぞろいの蕾たちは、空を仰いで風を読む。
彼らを育む植木鉢の奥底には、『神の御業』が眠っている。
―― 眠れるオペラ 了
→次回あとがき
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