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本編(つづき)
data65:眠りと目覚め
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────,65
握った手が冷たい。
悲しいくらい、そこには少しも力がこもっていない。
どんなに願いを込めて握っても、今の彼は、握り返してはくれないのだ。
「……ソーヤさん。あたし……」
そう言いかけたところで、いくつもの足音がこちらに近づいてくるのが聞こえたので、ヒナトは顔を上げた。
この部屋にはドアが複数あるけれど、そのうちヒナトが来たのと同じ廊下に繋がっているほうが開いて、そこから見知った顔たちが続々とやってくる。
ワタリ。そして彼からの連絡を受けたのであろう、タニラとエイワ。
彼らの背後にはリクウの姿もあったが、彼はあくまで案内役なのか、中には入ってこなかった。
真っ先に駆け寄ってきたのはタニラで、もう彼女の大きな瞳には涙が溜まっている。
「ソーヤくん! ソーヤくん……!」
「……タニラ」
「どうして……どうして、こんな……ッうう……」
肩を揺すり、名前を呼んでも、ソーヤは眼を醒まさない。
わかっていてもそれを確かめずにはいられなかったのだろう、そうして泣き崩れたタニラを、隣でエイワが支える。
彼もまた悔しそうに眼を赤くして、歯を食いしばっているのがわかる。
ひとりだけゆっくりと歩いてきたワタリは、しかしソーヤの傍にはこなかった。
たしかにこちらに向かって歩いていたその足を、途中でふいに強張らせたかと思うと、そのままそこで立ち止まってしまったのだ。
まるで誰かに引き留められたか、あるいはそこに見えない壁でもあるように。
室内には悲しみが満ちていた。
とくに親しいソアが集まっているとはいえ、たった四人だけでこんなに沈んでしまうのだから、GHの全員が集まったらきっとヒナトは溺れてしまう。
正直もうすでに、息をするのも億劫だった。
握ったままのソーヤの手を、離そうと思っても、指が上手く動いてくれない。
別れがたく名残を惜しんで震えているそれが、なんだかもう自分の一部ではないような気さえした。
手首から先を切り落としてここに残せたらいいのに。
それでも、ヒナトは、前に進まなければいけない。
やるべきことがあると、知っているから。
「……ワタリさん」
歩み寄って名前を呼ぶと、彼はゆっくりとこちらを見る。
ひとつきりの彼の眼はじんわり紅く染まっていて、けれどそこから涙は零さずに、ただじっと感情を堪えているような眼差しだった。
ヒナトは正面からそれを見つめて、息を吸う。
心臓がきりきりと痛んだ。
ソーヤの一挙一動に舞い上がって痛むのとはぜんぜん違う、苦しいだけの心痛を知って、ようやく悟る。
ああ、あれはやっぱり良いものだった。
甘くて幸せな痛みだった。
だからヒナトはたしかに恋をしていたのだ、間違いなく、最初で最後の素敵な初恋だった。
「あたしが言うのもなんですけど、ミチルのこと、よろしくお願いします」
「……ヒナトちゃん……?」
ワタリが目を見開く。
振動でまつげの端に載った小さな雫が、ぽろりと落ちた。
けれどヒナトはそれには構わず、一度振り向いて彼らを見た──眠り続けているヒナトの王子さまと、傍で泣きじゃくるその友人たちを。
ほんとうは何か言おうかと思っていたが、やめた。
わざわざヒナトが頼まなくても彼らがソーヤを放っておくはずがないと、その姿を見て思ったから。
そしてヒナトは歩き出す。
扉の外へ。
行くべきところへ。
そこで立ち尽くしていたリクウはたぶん、ヒナトの考えていることを知っている。
それでこんな顔をしているのだろう。
優しい人なんだなあと、ヒナトは思った。
それがちょっと嬉しかった。
そして少し悲しかった。
・・・・・*
その日、僕らは大切な何かを失った。
・・・・・*
どうやら長く眠っていたらしい。
深いところからゆっくりと浮上していく意識の中で、彼はぼんやりそう思った。
その感覚は、例えるならエレベーターに乗って、地下深くから遠い地上を目指しているようだった。
少しずつ身体から気だるさが引いていくのがわかる。
なんだかとても、温かい。
心地よい目覚めのあとに目にしたものは、暗闇に浮かぶ緑色の光だった。
前にも見たことがある。ここを知っている。
もぞもぞと腕を動かすと、肘がなにか硬い感触にぶつかった。
少しして、線状に光が差し込む。
蓋が開いていく──ここは植木鉢の名を持つ休眠装置の中なのだ。
少し近未来的なフォルムをしたこの機械には前にも一度入っていたことがあるが、どうしてまた入れられていたのだろうか。
とにかく蓋が完全に開いたのを見て、彼は身を起こした。
植木鉢はひとつずつ簡素な壁で仕切られているが、その壁と装置との間の決して広くはない空間に、見知った少女の姿がある。
彼女もこちらを見ていた。
眦がわずかに紅く染まっていて、たぶん一時間かそこら前まで泣いていたのだろうとわかる。
「……心配かけて悪かったな」
そう声をかけた。
喉が渇いてカラカラだったが、なんとか声はかすれることなく紡げたように思う。
脚が問題なく動くのを確かめて、植木鉢から降りる。
以前は年単位の長い休眠だったために目覚めた直後はまともに歩けもしなかったが、今回はそんなことはなく、多少ふらついたが転んだりはしなかった。
なのに彼女ときたら、不安げな表情を隠しもせずに手を伸ばして彼を支えようとするのだ。
「大丈夫だって」
「でも」
「そういやおまえ一人? あいつは」
一人足りない。
そう思って開いた口から、一瞬名前が出てこない。
ちょっと焦りながら、できるだけ彼女には笑いかけるようにして、静かに息を吐く。
──落ち着け。大丈夫だ。しっかりしろ。
今度は何も問題などないはずだからと己に言い聞かせながら、言いかけた続きを喉の奥から引きずり出した。
「あいつ……エイワは、一緒じゃねえのか。珍しいな」
「ううん、さっきまでいたよ……ニノリくんに呼ばれて戻ったの……ねえ、ソーヤくん、今度は何も忘れてないんだよね……?」
「ああ、──大丈夫だよ。だからそんな心配そうな顔すんなよ、タニラ」
泣きそうな顔を見せられるのは、辛いから。
それからすぐにラボの人間が来た。
タニラとは一旦そこで別れ、ソーヤは医務部であれこれ検査を受けることになったが、植木鉢の中で休眠していたなら仕方のないことだろう。
前も似たような感じだったし、むしろ今よりもっと長い時間拘束されてほんとうに辟易したものだ。
けれど、ふと思う。
前は一緒に誰かがいたような気がする、もちろんそんなことはありえないのだが、なぜかどうもそのように思えてならない。
もしかしてまた何か忘れてしまったかとぞっとしながら、ソーヤはひととおりの検査でよい結果を収めることができた。
数多の体調不良の一切がきれいさっぱりクリアされている。
身体も軽いし、時間が経つほどに筋肉の感覚も戻ってきていたので、そのまますぐにオフィスに顔を出しにいけたくらいだった。
もちろん今日はもう仕事はしないが、とりあえず起きたことを報告するために。
扉が開く。
まず振り向いたのは眼帯がトレードマークの副官で、彼はソーヤの顔を見るなり、なぜか泣きそうな顔をした。
おかえり、と小さな声で言う、そのくちびるがわなわなと震えている。
そんなに感動するほどかよ、と揶揄いたい気持ちになったが、今日くらいはやめてやろう。
たまには喧嘩しない日があってもいいはずだ。
それからソーヤは秘書を見た。
秘書もまたこちらを見る。
うぐいす色のまんまるの眼がこちらをじっと見ているのが、なんだか妙にくすぐったかった。
「おかえりなさい」
「おう。俺がいない間ちゃんとやってたか?」
「当然です」
秘書は憮然として言った。
もちろん彼女のこともきちんと覚えている。ソーヤは何も忘れたりなどしていない。
班長たる己を補佐する唯一無二の秘書の名は、そう──。
「ミチル」
→
握った手が冷たい。
悲しいくらい、そこには少しも力がこもっていない。
どんなに願いを込めて握っても、今の彼は、握り返してはくれないのだ。
「……ソーヤさん。あたし……」
そう言いかけたところで、いくつもの足音がこちらに近づいてくるのが聞こえたので、ヒナトは顔を上げた。
この部屋にはドアが複数あるけれど、そのうちヒナトが来たのと同じ廊下に繋がっているほうが開いて、そこから見知った顔たちが続々とやってくる。
ワタリ。そして彼からの連絡を受けたのであろう、タニラとエイワ。
彼らの背後にはリクウの姿もあったが、彼はあくまで案内役なのか、中には入ってこなかった。
真っ先に駆け寄ってきたのはタニラで、もう彼女の大きな瞳には涙が溜まっている。
「ソーヤくん! ソーヤくん……!」
「……タニラ」
「どうして……どうして、こんな……ッうう……」
肩を揺すり、名前を呼んでも、ソーヤは眼を醒まさない。
わかっていてもそれを確かめずにはいられなかったのだろう、そうして泣き崩れたタニラを、隣でエイワが支える。
彼もまた悔しそうに眼を赤くして、歯を食いしばっているのがわかる。
ひとりだけゆっくりと歩いてきたワタリは、しかしソーヤの傍にはこなかった。
たしかにこちらに向かって歩いていたその足を、途中でふいに強張らせたかと思うと、そのままそこで立ち止まってしまったのだ。
まるで誰かに引き留められたか、あるいはそこに見えない壁でもあるように。
室内には悲しみが満ちていた。
とくに親しいソアが集まっているとはいえ、たった四人だけでこんなに沈んでしまうのだから、GHの全員が集まったらきっとヒナトは溺れてしまう。
正直もうすでに、息をするのも億劫だった。
握ったままのソーヤの手を、離そうと思っても、指が上手く動いてくれない。
別れがたく名残を惜しんで震えているそれが、なんだかもう自分の一部ではないような気さえした。
手首から先を切り落としてここに残せたらいいのに。
それでも、ヒナトは、前に進まなければいけない。
やるべきことがあると、知っているから。
「……ワタリさん」
歩み寄って名前を呼ぶと、彼はゆっくりとこちらを見る。
ひとつきりの彼の眼はじんわり紅く染まっていて、けれどそこから涙は零さずに、ただじっと感情を堪えているような眼差しだった。
ヒナトは正面からそれを見つめて、息を吸う。
心臓がきりきりと痛んだ。
ソーヤの一挙一動に舞い上がって痛むのとはぜんぜん違う、苦しいだけの心痛を知って、ようやく悟る。
ああ、あれはやっぱり良いものだった。
甘くて幸せな痛みだった。
だからヒナトはたしかに恋をしていたのだ、間違いなく、最初で最後の素敵な初恋だった。
「あたしが言うのもなんですけど、ミチルのこと、よろしくお願いします」
「……ヒナトちゃん……?」
ワタリが目を見開く。
振動でまつげの端に載った小さな雫が、ぽろりと落ちた。
けれどヒナトはそれには構わず、一度振り向いて彼らを見た──眠り続けているヒナトの王子さまと、傍で泣きじゃくるその友人たちを。
ほんとうは何か言おうかと思っていたが、やめた。
わざわざヒナトが頼まなくても彼らがソーヤを放っておくはずがないと、その姿を見て思ったから。
そしてヒナトは歩き出す。
扉の外へ。
行くべきところへ。
そこで立ち尽くしていたリクウはたぶん、ヒナトの考えていることを知っている。
それでこんな顔をしているのだろう。
優しい人なんだなあと、ヒナトは思った。
それがちょっと嬉しかった。
そして少し悲しかった。
・・・・・*
その日、僕らは大切な何かを失った。
・・・・・*
どうやら長く眠っていたらしい。
深いところからゆっくりと浮上していく意識の中で、彼はぼんやりそう思った。
その感覚は、例えるならエレベーターに乗って、地下深くから遠い地上を目指しているようだった。
少しずつ身体から気だるさが引いていくのがわかる。
なんだかとても、温かい。
心地よい目覚めのあとに目にしたものは、暗闇に浮かぶ緑色の光だった。
前にも見たことがある。ここを知っている。
もぞもぞと腕を動かすと、肘がなにか硬い感触にぶつかった。
少しして、線状に光が差し込む。
蓋が開いていく──ここは植木鉢の名を持つ休眠装置の中なのだ。
少し近未来的なフォルムをしたこの機械には前にも一度入っていたことがあるが、どうしてまた入れられていたのだろうか。
とにかく蓋が完全に開いたのを見て、彼は身を起こした。
植木鉢はひとつずつ簡素な壁で仕切られているが、その壁と装置との間の決して広くはない空間に、見知った少女の姿がある。
彼女もこちらを見ていた。
眦がわずかに紅く染まっていて、たぶん一時間かそこら前まで泣いていたのだろうとわかる。
「……心配かけて悪かったな」
そう声をかけた。
喉が渇いてカラカラだったが、なんとか声はかすれることなく紡げたように思う。
脚が問題なく動くのを確かめて、植木鉢から降りる。
以前は年単位の長い休眠だったために目覚めた直後はまともに歩けもしなかったが、今回はそんなことはなく、多少ふらついたが転んだりはしなかった。
なのに彼女ときたら、不安げな表情を隠しもせずに手を伸ばして彼を支えようとするのだ。
「大丈夫だって」
「でも」
「そういやおまえ一人? あいつは」
一人足りない。
そう思って開いた口から、一瞬名前が出てこない。
ちょっと焦りながら、できるだけ彼女には笑いかけるようにして、静かに息を吐く。
──落ち着け。大丈夫だ。しっかりしろ。
今度は何も問題などないはずだからと己に言い聞かせながら、言いかけた続きを喉の奥から引きずり出した。
「あいつ……エイワは、一緒じゃねえのか。珍しいな」
「ううん、さっきまでいたよ……ニノリくんに呼ばれて戻ったの……ねえ、ソーヤくん、今度は何も忘れてないんだよね……?」
「ああ、──大丈夫だよ。だからそんな心配そうな顔すんなよ、タニラ」
泣きそうな顔を見せられるのは、辛いから。
それからすぐにラボの人間が来た。
タニラとは一旦そこで別れ、ソーヤは医務部であれこれ検査を受けることになったが、植木鉢の中で休眠していたなら仕方のないことだろう。
前も似たような感じだったし、むしろ今よりもっと長い時間拘束されてほんとうに辟易したものだ。
けれど、ふと思う。
前は一緒に誰かがいたような気がする、もちろんそんなことはありえないのだが、なぜかどうもそのように思えてならない。
もしかしてまた何か忘れてしまったかとぞっとしながら、ソーヤはひととおりの検査でよい結果を収めることができた。
数多の体調不良の一切がきれいさっぱりクリアされている。
身体も軽いし、時間が経つほどに筋肉の感覚も戻ってきていたので、そのまますぐにオフィスに顔を出しにいけたくらいだった。
もちろん今日はもう仕事はしないが、とりあえず起きたことを報告するために。
扉が開く。
まず振り向いたのは眼帯がトレードマークの副官で、彼はソーヤの顔を見るなり、なぜか泣きそうな顔をした。
おかえり、と小さな声で言う、そのくちびるがわなわなと震えている。
そんなに感動するほどかよ、と揶揄いたい気持ちになったが、今日くらいはやめてやろう。
たまには喧嘩しない日があってもいいはずだ。
それからソーヤは秘書を見た。
秘書もまたこちらを見る。
うぐいす色のまんまるの眼がこちらをじっと見ているのが、なんだか妙にくすぐったかった。
「おかえりなさい」
「おう。俺がいない間ちゃんとやってたか?」
「当然です」
秘書は憮然として言った。
もちろん彼女のこともきちんと覚えている。ソーヤは何も忘れたりなどしていない。
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