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幸福の国 アンハナケウ

208 盟主の責任

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 アフラムシカは一旦その場を辞し、次にドドが檻ごと広場へと引き立てられた。

 鈍い光を放つ鋼鉄の隙間から覗くのは、蹲り自らの手のひらを眺めている彼らしくもない姿であり、未だ煤に塗れたままの身体に往時の輝きが戻る気配はない。
 どこか諦観ぶった気配のヒヒの神は、俯いたまま正面を向きもせずに進行係パレッタの言葉を聞いている。

 流れは先ほどまでと同じだ。
 まずドドが自らの行いについて弁明し、その罪を明らかにする。
 全員と質疑応答を行ったのち、オーファトが罪の重さを量る。

 アフラムシカに下される刑罰の内容は、ドドと合わせて決定されるという。
 つまりララキにとってはまだまだ予断を許さない状況だった。

 具体的にドドの審判がアフラムシカの受刑とどのように関わるのか知らないため、どういう振る舞いをすればいいのかはわからないが、それを教えてくれそうな神は今は近くにいない。
 それがもどかしい。
 簡素すぎるパレッタの説明にララキは歯噛みしたが、それを誰が気にかけてくれることもないまま審議は進む。

 しかもドドの釈明は、ララキのまったく想像しえないものだった。

「……言うことなんざ、ンもねえ」

 たった一言ぼやくように吐き捨てて、ドドはそれきり口を噤む。
 アフラムシカを詰ったときの勢いや覇気はどこにもなく、再び俯いてぼろぼろの両手を覗きこんでいる姿が、ララキの眼にもどこか哀れましく映った。

 背中を丸めて、手のひらの傷に彼は何を見ているのだろう。
 まるでそこに自らの罪が記されているかのように。
 その悲哀に満ちた光景は、なんだか叱られて落ち込む子どものようでもあった。

 思わぬ展開に一同はざわつく。
 大半は困惑の色に彩られていたが、一部に激しい怒りの表情が犇めいているのもララキにはわかった。

 南部の神々。つい最近までドドを代表として敬っていた彼らだ。

 その中で震えながら立ち上がったのは、やはりララキにも予想はついたがヴニェク・スーだった。
 目隠しを外したままの彼女の顔をようやく正面から見ることができたが、その美しくも恐ろしい七色の輝きを持った瞳は、今は険しく吊り上がっている。

「ドド、貴様……拗ねている場合ではないだろうが! 話すべきことをすべて話せ!」

 女神の周りから、そうだそうだ、と同調した怒号が飛ぶ。
 神として、盟主としての責任を問う声も上がった。
 しでかしたことに対する弁明こそがドドが今すべき最低限の義務である、という厳しい叱責も交じっている。

 わずかながら、南部の席にも怒り一辺倒ではない者もいた。
 怒り狂うヴニェクをどう宥めたものか、涙目になりながら困惑しているヤッティゴが見える。

 彼と同じように罵声に怯える精霊らしい姿もちらほらあったが、南部全体で言えば憤怒の気配が強く、とてもではないが収まりそうにはない。
 誰かが手助けしてやったほうがいいのか否か、ララキは他の地域のようすも見回してみるが、南部以外はどことなく冷めた雰囲気が漂っていた。

 ドドはすべての責任と義務を放棄して自暴自棄になっている、それではどうしようもない──そんな声が聞こえてきそうだ。
 少なくともヴニェクたちを諫めたりヤッティゴに手を貸そうというようすはどこにも見られない。

 ならばとララキが一歩踏み出しかけたところで、何かが腕を掴んで引き留めた。

 奇妙な感触にふり返ると、ララキの腕に樹の蔦が絡んでいた。
 偶然……ということもないわけではなかろうが、ここは神の国だ。
 誰かの意思が働いていると考えたほうが自然だろう。

 では誰が?
 ララキは辺りを、そして神々をざっと見渡してみたけれど、誰もララキのほうには注意を払ってはいないようだった。

「ヴニェク、みんなもちょっと落ち着いてくれよ! そんなに喚いたって今のドドは聞ける状態じゃないんだよ! 見ればわかんだろぉ、あんなドド……」
「なんだヤッティゴ、貴様はやつの味方をするつもりか? まさか共犯ではあるまいな!?」
「違うよ! 違う……だけど、ここは喧嘩するための場じゃあ、ないだろ……。
 腹が立つのはよーくわかるよ、おいらだってちっとも怒ってないわけじゃあない。だけどみんなでやたらに怒鳴ったってドドは話してくれないよ。そんなのヴニェクもわかるだろぉ?」

 懇願するようなヤッティゴの声に、ヴニェクはふんと鼻を鳴らした。

 ララキもふっと息を吐く。
 どうやら介入の必要はなさそうだ。
 他の神々も、それがわかっていて放っているのかもしれない。

「なあドド、……ほんとは質疑はまだだけど、いっこだけ質問さしてくれるかい。
 おいらはあんたが盟主で良かったって思ってたんだけどさ、ほんとはどっかで無理してたのかよ?」

 ヤッティゴは問うた。
 まだ涙腺が滲んでいそうなその震えた声には、どこか深い後悔の念が含まれているようにも思えた。

 南の神のひと柱として、もしかしたら自分もドドに負担を強いていたのではないか、それが今回の凶行に繋がってはいないかと案じているような。

 広場はしんと静まり返り、全員がドドの回答を待つ。

「……どうだろうなァ」

 沈黙を裂いて落ちてきた言葉には、静かな自嘲の音が交じっている。

「面倒も多かったが……基本的にゃ楽しかった。
 そうさな、アフラムシカに倣って言うなら、己も驕ったのさ。この己が世界を支える柱のひとつ……その重さのぶんだけ力がある、権がある、その行使を正義としても構わねえ……いや、そうすべきだ」
「……正義、だと?」
「己ァ今でも自分おのれのしたことを間違ってたとは思っちゃいねえ。
 多少痛ェ思いした奴らにゃ悪いが、こうなるまで気付かなかったてめえとてめえの主を責めな。
 それとこれとは別で、罰するべきだとそこの判事が言うなら従ねえ道理はねえが」

 ドドの太い指が檻の柱をなぞる。
 クシエリスルの神すべての力を手にしたという彼がどうしてそこに大人しく留まっているのかはわからないが、それがドドの意思なのか、それとも檻になんらかの工夫が施されているのかはララキの知るところではない。

 ただアンハナケウ全体に染み渡る空気が痛々しくて、その原因はきっと神々が困惑しているからだろう。

 その中でひときわ眼を引くのは、誰より深く痛めつけられて四肢の大半を失ったアルヴェムハルトと、彼を抱きかかえて俯くラグランネの姿だ。
 隣で彼らに何か声を掛けているティルゼンカークの表情も暗い。

「わかったか? ……力のあるやつは傲慢だ。例外なんてありゃしねえ。
 そこでふんぞり返ってる魚どもも、嫌な面したオオカミも、汚えことなんざひとっつも知らん顔のヒツジの姫さんも、てめえの胸に手ェ当てて考えてみてくんな。あんたらだって、ほんとうに一度も何の間違いも犯してないと言えンのか?」

 開き直るようなその言葉に、女ヴィーラが冷たい眼差しを向ける。

「貴様、さような戯言を吐くために吾が僕(しもべ)の脚を喰ろうたのかえ」
「……かもなァ」
「この……下郎が……」

 女神は細い肩を震わせた。
 眉間には深い溝が刻み込まれ、眦が獣のように吊り上がっている。

 しかし憤怒の色濃い彼女とは裏腹に、男ヴィーラは静かな表情でじっとドドを眺めていた。
 元は同じ神であるわりに反応がずいぶん違うように思える。

 そしてついに袖の長い片腕を持ち上げようとした片割れを、男神は己の手を上に添える形で押し留めた。

「審議の場で私刑は禁物ぞ。あまり勝手をするのであれば吾が身に戻すがよいか」
「嫌だえ……久々に表へ出られたというに」
「ならば慎め。吾に比べてそちは癇症が過ぎる」

 女ヴィーラが怒気を鎮めたのを確認してから、男ヴィーラが改めてドドに向かって口を開く。

「……さて。本来ならばは答弁の場ではないがの。

 山猿の神よ、そちが申すには吾ら盟主はもろともに傲慢であるとのこと。
 権力と驕傲きょうごうとは表裏一体だというのは吾も認めるが──そも、力とは何を以て吾らの前に束ねらるるのか?

 答えてみよ。そちは何ゆえに盟主の誉れを受けたのだ」
「決まってら……己は人間に尽くした。人間もそれに応えた。獣も己に従った。その結果だ」
「違うわ」

 淀みないドドの答えをヴィーラはぴしゃりと叩き落とした。
 その隣で、片割れの女神が薄く笑んだ。
 神の周囲には小さな、それこそ針の先ほどしかない微かな水の粒が無数に空中から湧き上がり、その身体を包むようにして取り巻いている。

 ララキの眼にはそれは白くけぶっているように見える。
 そして、その粒のひとつひとつが細かに振動して、不思議な音を立てているのもクリャと同化した耳には聞き取れた。

 硝子の上で砂を滑らせているような、しかしどこか人の歌声のようにも聞こえる奇妙な音は、ララキの身体にどうしようもない緊張を植え付ける。

 いや、ララキというよりはクリャがそれを強く感じている。
 そしてその場のすべての神が、知らず知らずのうちにその頭を下げていた。

 有無を言わせず自然と身体を縮めさせるこの圧迫感を、人間であるララキはよく知っている。
 どの神と出逢ったときにも必ずある、あの感覚だ。

 一言で表すのなら畏怖。
 純粋な畏れと敬服の感情がどこからともなく湧き出して心身を支配する。

「そちの立身云々など知ったことではない。クシエリスルが貴様に柱を任じたのは、ひとえにその責を負う度量があると見越してのことよ。
 この世に一度も過ちを犯さぬまま生を終える者なぞおらぬ。人獣だろうと神だろうと変わりはせん。
 ならば真の罪なるものは、驕ることでも過つことでもない、おの紋章となえに負うた責を果たさぬことであろうが。

 それしきのこともわからずに盟主を引き受けたのかと問うておるのだ」

 静かな声だったが、それはどんな罵倒よりも冷たく重く神々の身に沁みた。


 その後、オーファトがドドの量刑を告げた。

 まずクシエリスルを転覆させたこと、他の神から力を奪ったこととその姿を模したこと、大紋章を改竄したことで山五聳。
 傷つけられた神々に対する罪がさらに二聳、そしてオヤシシコロカムラギを自死に追い詰めた罪がさらに一聳──これにはパレッタが、たったそれだけでするか、と涙声で呟いていた──を加えられて合計で山八聳、ということだった。

 減刑についてはドドが自ら断った。
 アフラムシカがその分だけ罰されるのなら要らない、という条件つきではあったが、そのあたりの配分をどうするのかは、これから話し合うことになるそうだ。

 審判は一旦休憩の形をとり、その間にオーファトが罪に応じた刑の査定をするという。

 ララキはもちろんアフラムシカのところへ行った。
 他にも何柱かの神々がぽつぽつと彼の周りに集まってきていたが、みんなララキを見ると戸惑った表情で足を止める。
 今なおララキとクリャはここではよそ者というか、腫れものというか、扱いに困る存在のようだ。

「シッカ、……あの、あたし、えっと」

 駆け寄ったはいいが、言葉が続かない。

 アフラムシカはそんなララキを見て少し笑んだ、ような気がするが、伸びてきた手に前髪をくしゃりと撫でられて思わず眼を閉じたので、はっきりと見ることはできなかった。

「こ、んなときに子ども扱いしないでよ。あたし、まだちょっとは怒ってるんだから……っ」
「すまなかった」
「すぐ謝るのもダメ!」
「……それでは、私は一体どうしたらいいんだ」

 涙目でぎゃんと吠えたララキに、さすがにアフラムシカも困惑の表情を浮かべる。

 その顔すら愛おしく思えるのが今は鬱陶しくて悲しい、なんてごちゃごちゃした感情に振り回されながらも、ララキは精一杯次の咆哮を飲み込んだ。
 違う、と思うのだ。そんなことを言いたいわけじゃない。

 彼の眼を見る。
 よく晴れた夏の空に似た蒼金が、静かにララキを見つめ返している。
 そこには懐かしいイキエスでの日々が映っているようで、それを思うとどうしようもなく泣きたい気分に駆られるし、思えばなんて遠いところに来てしまったものだろうか。

 帰りたい。

 旅の初めからずっと願っていたことが、今改めて新しい願いこととして意味を帯びる。
 もう一度あの場所で、新しい時間を、アフラムシカとともに刻めたらいいのに。

 たぶん無理なのだろうとどこかで理解している。
 だからこそ望まずにはいられない。
 アフラムシカは神で、ララキはもはや人間ですらなくて、そもそもイキエスの生まれですらなかったけれども。

「まずはちゃんと罪を償って。あと、あたしがクリャと分離する方法も考えておいてよ。
 それと……それとね、シッカと、また一緒に暮らしたい……」
「わかった。必ず果たすと約束しよう」

 アフラムシカは頷いて、その額をララキのそこに触れさせながら、愛を囁くように答えた。

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