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幸福の国 アンハナケウ

191 人の祈りと神の願い

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 広場に戻ったルーディーンは、まずフォレンケを探した。

 彼とペル・ヴィーラに話を通すように言われているが、話しやすさを考えるとフォレンケに軍配が上がる。
 決してヴィーラのことが苦手なわけではないが、良くも悪くもルーディーンからすればかなり目上の相手であるため、彼に対しては何かと気を遣わなければならない。

 落ち着いて、きちんと説明しなければならないのだ。
 ヴィーラの前にフォレンケと話したほうが頭の中も整理できる気がする。

 ところが思わぬことに、フォレンケはヴィーラのところにいた。

 まだ彼は治療を受けている身のはずだ。
 切り株からヴィーラのいる木陰までは少しばかり離れており、いったい誰がそこまで彼を運んだのかとルーディーンは驚いた。
 歩くにしてもまだ手助けが必要な状態だろうに、わざわざ無理をしてまでそちらに移動した理由がわからない。

 フォレンケとともにララキもそこにいて、なぜか彼女はあたりを忙しなく見回している。

 その光景にルーディーンの脚は止まった。
 タヌマン・クリャに話すかどうかはヴィーラたちに許可を得てから、という約束をしている以上、ララキがいてはカーシャ・カーイの生存を打ち明けることができない。

 立ち止まったまましばし悩み、しかし、ルーディーンは覚悟を決めて再びそちらへ歩き出した。
 先に信頼できるかどうかを確かめてもいいと思いなおしたのだ。
 細かいところに囚われて、するべきことができなくなってしまっては本末転倒ではないか。

 女神の接近にいち早く気づいたのはララキで、彼女は満面の笑みで「おかえりなさーい!」と声をかけてきた。

 なんて胸がすく表情をする娘だろう。
 まるで一面青いワクサレアの草原を歩いていて、偶然に咲いた花を見つけたような気分になる。

 思わずこちらの頬まで緩んでしまいそうだと思いながら、ルーディーンは彼女の前まで歩いていった。

 ついでに確かめてもいいかもしれない。
 さきほどの、彼女が去り際に送ってきた目配せの意味を。

「ルーディーン、大丈夫だった?」

 開口一番にフォレンケがそう尋ねてくる。
 その意味を図りかねて、ルーディーンは小首を傾げた。

「それはこちらの台詞ですが……フォレンケ、あなたはまだ怪我が治ってはいないはずでしょう?
 どうしてヴィーラのところにいるんですか?」
「相談してたんだよ。ルーディーンにも聞いてほしいから、とりあえず座って」

 促されるまま、彼とララキの間に腰を下ろす。

 目の前にはいつにも増して大儀そうな顔をしたヴィーラが座しており、彼の周囲には水でできた皿のようなものがいくつか置かれていた。
 見たことのない術だ。

 ルーディーンが座ったのを確認すると、フォレンケは一瞬あたりをさっと見回してから、小さな声で言った。

「……ヴニェクと何か話してる」
「さしずめアルヴェムハルトの件であろ。さすがに行動が早いの」
「だけどそう素直に治させてくれるとは思えないよね。たぶん、あとで何かしら妨害される」
「まあ、それを見越して話を振っておいたのだ。はしばらく的として働かせる。
 その間にこちらはすべきことを済ませようぞ」
「……ほんと東の神じゃなくてよかったって心から思うよ……」

 フォレンケとヴィーラはそんな話をしているが、ルーディーンにはさっぱり意味がわからない。
 振り返ってみると、ヌダ・アフラムシカとヴニェク・スーが何か話しているのが確認できたが、彼のことだろうか。

 ──三人が、彼のことを疑っている?

 ルーディーンの内心に光明が瞬く。
 もしかするとこれは、思っていた以上に話が進められるのかもしれない。

 ならばこちらも切り出さなくては、と適切な言葉を頭の中で探し始めたルーディーンに、心配そうな小声で話しかけてきた者がいた。

「ねえ、ほんとに大丈夫?」

 ララキだった。
 さっきの笑顔が嘘のように、なぜか泣きそうな眼をしてそう訊いてきた。

「なんか、さっき、……シッカに変なこと、されてなかった?」
「……いいえ」

 ルーディーンは首を振った。

 そして、やはり彼女は知っていたか、見ていたかしたのだろうと理解した。
 でなければこんな訊きかたをすることはないだろうし、こんな顔もしなかったろう。

 だから敢えてルーディーンは否定して、そしてこう答えた。

「ヌダ・アフラムシカには、何もされていません。……あれは彼ではありませんから」

 はっきりとそう告げると、ララキのみならずフォレンケとヴィーラも眼を見開く。

「ルーディーン……つまり気づいて……」
「いえ、……ついさきほどまでは、恥ずかしながら知りませんでした。ある人が教えてくれたのです」
「ある人?」
「私はそれをお話しするためにここに来たのですが……ララキがここにいるということは、ペル・ヴィーラ、ならびにフォレンケ、あなたがたはタヌマン・クリャを信用していると考えてもよろしいですか?」

 フォレンケとヴィーラは顔を見合わせ、ララキはふたりのようすを伺っている。

 やがてヴィーラが溜息混じりに、そういうことにしておけ、と吐き捨てるように言った。
 どこか不服そうな口ぶりにフォレンケもララキも苦笑いしている。

 ルーディーンはほっと息を吐いて、今一度あたりを確かめてから、三人にだけ聞こえるように言った。

「……カーシャ・カーイに会いました」

 はっと息を呑む音がする。ただしそれはふたりぶんだけだった。
 ヴィーラは肘置きにしているらしい石に頬杖をついて、生きておったか、とこれまたなぜか嫌そうな口調で呟いただけだ。

「彼はいまどこに?」
「森の中に身を潜めています。それから彼からヴィーラに言付が……"半影はんえいを預かっている"とのことです」
「……おお、そうか。それは良い知らせだの」
「よかった。それじゃああとはを探すだけなんだ。……それについては何か言ってなかった?」
「……いえ、それは一言も……それに私は、かの者の掌で紋章が朽ち果てるのをこの眼で見ています。それがアルヴェムハルトとラグランネの才で欺かれたものだったとしたら……もう……」
「──それは絶対ないッ!!」

 そこで急にララキが声を荒げる。

 もともと通りのいい声だったせいであたり一面に響き渡り、周囲の神々が何ごとかという顔でこちらを一斉に見つめてきたので、四人は一気に血の気が引いていくのを感じた。
 視線の中にアフラムシカの姿もあったからだ。

 ララキは真っ青になりながら、慌てて続ける。

「……あ、あたしこのままクリャと一心同体とか、そんなの絶対ありえない!! と、思うの!!!」
「そ、……そうだね、ほんと災難だったね! ヴィーラ、どうにかしてあげられないかなあ?」
「無理だの。統合するにしろ分離するにしろ、直接その術を施した者の裁量次第であるゆえの。
 要するにクリャとアフラムシカでなければどうにもならん。その彼らができぬと申すならできぬのであろ」
「まあ……ですが、術の仕組みはヴィーラもご存知でしょう? なんとか知恵を貸していただけませんか?」
「……面倒だの~。このペル・ヴィーラ、そう易々と鰭(ひれ)は振るわんぞ~」

 恐らく誤魔化しきれた、と、思う。
 周りの神々はみんな視線を戻したし、アフラムシカもどうやら誰かに話しかけられて、そちらのほうを向いたようだ。
 注目は離れた。

 四人は揃って深い溜息をつき、ヴィーラの水がララキを小突く。
 飛沫でララキの顔がずぶ濡れになった。

「うつけ。喧しい声を上げおって、そのうえ吾まで芝居に巻き込むな」
「ごめんなさいぃ……でも巻き込んだのはフォレンケだもん……」
「ヴィーラもけっこうノリよかった気がするんだけど……はあ、それで、ララキ? 断言するからにはその証拠というか、確信があるんだよね?」
「……うん」

 ララキは頷き、自身の掌を見つめた。
 その表情はどこかやるせなさを漂わせている。

 上っ面では本来の姿を取り戻したように見えるが、それはあくまでクリャがそのように見せかけているだけであり、その身体がクリャのものであることに代わりはない。

 手は紛らわしいと思ったのかすでに素手となっていた。
 見た目だけの手袋があっても、彼女はこれまでのように指で紋章を描くことができないのだ。

 もしも描くことができたなら、この場に呼び出すこともできたのに。
 ……ララキの表情はそのようにも読み取れる。

 実際のところどうなのだろう。
 神が人間に己の紋章を貸し与えるということはほとんど前例がなく、ルーディーンもララキに一度描かせたことがあるのみだ。
 しかも一時的に手と口を借りただけで、実際にララキの意思にやらせたわけではなかったので、彼女がもう一度ルーディーンを召喚することはできない。

 だが、アフラムシカはそのような緊急時の手段としてではなく、平時から彼女が好きなときに彼を呼べるように紋章と詩を晒していたようなのだ。

 その繋がりが絶えていないのなら、ここに召喚することも可能かもしれない。
 とすれば今そこでアンハナケウの新たな王として君臨している男が別人であることも証明しうるのではないか。

 まあ、などと考えたところで机上の空論にすぎないのである。

 ララキには手袋がないし、彼女は神と癒合してこそいるが人間にすぎず、アンハナケウにおいては発言権を持たない。
 その彼女が呼んだアフラムシカこそほんものだと証明するほうが実際には難儀だろう。

「あのね。あたしにちょっと、考えがあるんだけど」

 顔を上げてララキがそう言う。

 そのとき前髪から滴った雫が、鼻梁のわきを流れ落ちていったのが、まるで泣いているように見えた。



   : * : * :



 玄関先に美しい花を飾った、よく手入れの行き届いた家だった。

 建物は小ぢんまりとしているが、そのぶん品がいい佇まいだとスニエリタは思った。
 表札の名前を確かめてから扉を叩く。

 少し遠くのほうから返事が聞こえる。
 ややあって、深緑色に塗られた玄関扉がゆっくりと開いた。

 そこから顔を出したのは、南国人らしい浅黒い肌をした中年の女性である。

 豊かな黒髪を後ろで編んで垂らし、花を模した髪飾りを着けているが、その風合いには見覚えがある。
 大きな瞳は少女のようで、年齢のわりに愛らしいという表現が似つかわしい人だった。

 女性は玄関先に佇む見慣れぬ外国人ふたりを、驚いたようすで見つめている。
 警戒していると言ってもいいだろう。
 その視線は真っ先にこちらの腕を辿り、手袋を着けているかどうかを確認したようだった。

「ライレマ教授の奥さまですね。俺はハーシから来た、ミルン・スロヴィリークといいます」
「わたしはマヌルドから来ました。スニエリタ・エルファムディナ・クイネスと申します」
「まあ……。遠いところからいらしていただいたのに申し訳ないのだけど、主人なら今、この家にはいませんよ」
「いえ、わたしたちはあなたにお会いしたかったんです。その、ララキさんのことで……」
「あら!」

 そこで女性の表情が急に緩む。

「もしかして、ララキのお友だちかしら?」

 ふたりは頷き、それぞれ旅をしていてララキに出逢ったことを話した。
 どちらも決して短く済む話ではなかったので、ライレマ夫人が室内に招きいれてくれ、ありがたく居間に上がらせてもらう。

 甘いお茶までごちそうになりながら、ふたりは代わるがわるララキとの旅の話をした。

 夫人は最初から最後まで笑顔で話を聞いてくれた。
 ララキがタヌマン・クリャと一体化してしまったことや、アフラムシカとともにアンハナケウに行ってしまったことまで正直に話したけれど、彼女の笑顔はそれでも崩れなかった。

 すべてを聞き終えてから、彼女はお茶のおかわりを注ぎながら呟くように言った。

「……主人の言ったとおりになったわねぇ」

 その言葉にスニエリタとミルンは顔を合わせる。

 そんなふたりを見て、ライレマ夫人が初めて少しだけ悲しそうな笑顔になった。

「あの人はね、ララキがうちを出て行ったら、きっともう二度と戻っては来ないだろうと言ったの。
 神が授けてくださった娘だから、いつか神のところへ帰る運命に違いないって。

 でも、そう……あの子はほんとうに幸福の国に辿りついたの。それなら私が心配するようなことはないわね」
「それは……」

 ミルンが言葉を詰まらせる。

 今のアンハナケウが決して安全な場所ではないではないことを、今一度この人に説明するべきかどうか、彼は悩んでいるようだった。

 しかしライレマ夫人はララキのことを覚えているし、世界がおかしくなったことにも恐らく気づいている。
 このようすならライレマ教授もそうだろう。

 それならララキの身が今どれほど危険に晒されているか、理解できないはずはないのだ。
 聡明なライレマ教授ならそれくらい推察できるのであろうから。

 スニエリタもミルンもアンハナケウに行ってそのようすを直接見たわけではない。
 だが、他の神の血を浴びたフォレンケや、弱ったオヤシシコロカムラギの姿を目の当たりにしている。
 現状では人間にはさほど被害はないが、神の世界においては大惨事が起きているには違いないのだ。

 それでもなお、心配は無用とするライレマ夫人の根拠はどこにあるのだろう。
 スニエリタが訝っていると急に彼女が立ち上がった。

「少し待っていてくれるかしら」

 そう言い残して婦人は居間を出て行った。
 残されたスニエリタとミルンは、お茶を飲みながら溜息をつく。

「とっとと本題を切り出したほうがいいか。どのみち時間もそうないし、この家にあるのは確かだからな」
「そうですね……でも、なんて説明したらいいんしょうか」

 などと話していると、夫人が戻ってきた。

 手には布でできた袋を携えている。
 南部独特の柄が織り込まれた布で、どうやら彼女の手製らしい。

 夫人はそれをふたりに差し出し、こう告げた。

「あなたたちはこれを受け取るためにここに来たのよね。違うかしら?」
「えっ……」
「失礼します。
 ……あっ! そうです、俺たち、これをララキに届けるように頼まれて……でもどうして……」

 袋の中身を確かめたミルンが叫ぶ。
 スニエリタも横からそれを覗いて驚愕した。求めていたものがすべてそこに揃っていたからだ。

 確かにふたりはそれを手に入れるためにここに来た。
 探索紋唱をして、それがここにあることはすでに調べがついていた。

 だがそのことをまだこの人には話していない。
 いきなり切り出すのも失礼だし、とりあえずは自分たちとララキの関係から、順を追って説明するべきだと思ったからだ。
 何かが必要だとも、それが何かも一切伝えてはいない。

 それなのに、すでに過不足なく予め用意されていたというのか。

 唖然とするふたりに、夫人はにっこりと微笑んで言う。
 ──それも主人の予想なのよ。

「ララキは帰ってこないのに、これだけがあるのはおかしい。きっとあの子の身に何かがあったのだろう。
 だからそのうちララキか、もしくはあの子の代わりに誰かが取りにくる……。

 ほんともう、何もかもあの人の言ったとおりだわ」
「じゃ、じゃあこれは、その」
「受け取って。そしてあの子に届けてちょうだい。
 それからついでに一言、伝言もいいかしら」

 ふたりは頷いた。

 手に取った袋からは、優しく甘い南部の花の香りがした。

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