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呪われた民の国 チロタ
164 眠れる守護者と冥王の山
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時間はミルンたちがチロタに入るよりも前に遡る。
遠く離れたヴレンデールで、ロディルたちも懸命に歩みを続けていた。
山は見える。ずっとそこにあるが、砂風に煽られながら進むふたりは、永遠にそこまでの距離が縮まらないような錯覚に囚われていた。
誰かの罠があるわけでもないが、とにかく行けども行けども景色が変わらないせいだ。
どうしてこんな苦労をして、徒歩でなければならないのだろう。
何度もそんな思いが胸に去来する。
しかもふたりにとっては、この旅は望んだ自分の道というわけでもないのに。
足元の砂礫がざらざらと滑り、次第に足取りが重くなる。
そのうちナスタレイハが立ちすくんでしまった。
無理もない、病は概ね完治したとはいえ、まだ体力が戻ってはいないのだ。
ふたりはやむを得ずそこで一旦休憩にした。
「なんだか、昨日より山が遠くなったみたい……」
ナスタレイハはそんなことを呟いて、ロディルの手をきゅっと握った。
互いの手は汗でしっとりと湿っている。
「……あのさ、ターリェカ。今日このあとも同じペースで進めば、予定では村をひとつ通ることになってるんだけど、身体の調子によってはそこにしばらく滞在することも必要じゃないかな」
「それって、つまり、私に留守番をしろってことね? ……ごめんなさい、やっぱり足手まといだよね」
「そうは言ってないだろ」
ロディルは小さく溜息をついた。
ほんとうにそんなこと、ひとかけらも思ってはいない。
どうしてもついていきたいとナスタレイハに言われたときに、きちんと説得しなかった自分が悪いのだし、それより辛そうな彼女を見ているのがやるせないのだ。
タヌマン・クリャにこの任務を仰せつかったのはロディルで、ナスタレイハまで負う必要はない。
しかしそれを口にすると彼女は首を振る。
──それは違うよ。
ジーニャの荷物なら私も一緒に運ばなきゃいけない。
その言葉がどこか掴みきれず、ロディルはその意味を尋ねる。
「だって私たち、夫婦でしょう?」
ナスタレイハはまっすぐにロディルを見つめて、少し苦しそうにそう言った。
そうだ。ふたりは神前で一緒に禊を受けて、ともに生き、互いを支えあうことを誓ったのだ。
そんなことはロディルだってわかっているはずなのに、あれから日が経つにつれてその意識が薄れていっているように思えるのはなぜだろう。
彼女を愛していないわけではない。
まったく逆で、だからこそしんどそうな姿を見るのが辛い。
だが、しいて何かに原因を求めるなら、ふたりが誓いを立てるべき相手は違う神であるはずだった。
クシエリスルなどという名を掲げているのとは違う、オオカミと大樹の神でなければならなかった。
そしてロディルには二年間の旅の記憶が戻っていて、その道中に思っていたことも再び心身に感覚している──もっと強く、ならなければいけない。
焦燥としか言いようがないその想いに縛られて、だからこそあのときは結婚なんていう選択肢を選ばなかったのだ。
きっとロディルはまだ、マヌルドでナスタレイハを助けられなかったことを悔やんでいる。
無力だった己を憎んでさえいる。
あのとき苦しみ病んでいく彼女を目の当たりにしながら、見ているしかできなかった自分自身のことを、どうにかして殺さないかぎり前には進めない……。
「ジーニャ、そんな顔しないで。……心からあなたに感謝してる、一生かかっても返しきれないくらい」
「……そんな言葉が聞きたくて薬を探したわけじゃない……」
「わかってる。わかってるから……泣かないで……もうこれ以上ひとりで苦しまないで……」
ナスタレイハに抱き締められながらロディルは空を仰ぐ。
紋唱術の腕がどんなに上達しても、どんなに強い術師と戦って勝利を収めても、心の弱さだけは克服することができない。
自罰的な罪悪感に囚われ、鎖を引き摺って歩いている。
きっと彼女にはそれがわかったから、この旅への同行を申し出たのだろう。ロディルがひとりで潰れてしまわないように。
お互いにマヌルドで傷つきすぎた。
ナスタレイハが心を病んでいたとき、当然ロディルも同じように削り取られていたのだ。
少しずつ、でも確実にすり減らしながらそれを見ないふりをして、あるいは自分よりもっと辛い人を眺めることで、自分はまだ耐えられるはずだ、そうあるべきだと己に言い聞かせていた。
ナスタレイハの頬に触れ、涙を零しながらロディルはもう一度尋ねる。
「ターリェカ、……僕なんかで、ほんとにいいの?」
「なんか、じゃないよ。私はジーニャがいい。
他の人じゃダメなの、あなただから一緒にいたいの。
……ごめんね、ほんとは私を見るたびに辛い想いをしてるって、わかってるのに。
でも傍にいたい。もう離れるのは嫌……だからせめて、苦しいなら、それを私にも背負わせて」
互いに強く抱擁して、重なり合った鼓動を聞く。
他にどうすることもできなかった。
痛んでいるのを思い出してしまった心は、もうそれを気づかなかったことにはできない。
強くなりたい──ロディルの頭の隅で、誰かが呟いている。
きっとほんとうに必要なのは、誰かを倒す術ではなくて、自分を越える力だ。
そしてたぶん、ひとりのままでは永遠に手に入らない。
なんとなくそう思った。
やがてナスタレイハの手を取り、ロディルは立ち上がる。
歩けるかい、と尋ねると、大丈夫、と返ってくる。
ロディルが思っていた以上にナスタレイハは気丈で、きっとロディルの何倍も強い。
ふたりはもう一度歩き始める。
果てしなく思える長い道のりを、ただひとつの山を目指して。
その名はハールザ。
ここヴレンデールで、いや、世界でもっとも古い、それこそ神話の時代から語られる霊山だ。
なぜそこを目指しているのかというと、タヌマン・クリャがそこでとある神を呼べと指示してきたからである。
今は人びとから忘れられてしまっている、ヴレン人の主神であったヤマネコの神は、本来そこに御座(おわ)しているはずだった。
記憶が書き換えられたままのナスタレイハには、当然その事実は理解されていない。
なので改めてそんな話をすると聞き返される。
「ねえジーニャ、ところでその神さまって、なんていうお名前なの?」
「荒山の守護者のこと? フォレンケだよ」
ロディルが答えた途端、地面が揺れた。
そして、ハーシの冬のような冷たい風が吹き込んできて、ふたりはその場に崩れ落ちる。
ロディルは咄嗟にナスタレイハを抱き寄せた。この感覚を知っている、と思ったからだ。
いつかのときよりずっと穏やかではあるが、地面はぐずぐずと泡を吹く。
砂礫のなかに僅かにあった背の低い草はすべて飲み込まれ、煮込まれているスープのように地泡が爆ぜる。
やがて地面を引き裂くように、青黒い腕が天へ向かって地底より突き上げられた。
悲鳴を上げたナスタレイハをかばうように背後へと押しやり、ロディルはそれと対峙する。
這い上がってきた異形の神にも見覚えがある。
たった一度しか会っていないが、忘れられるはずもない。
冥府の長にして忌神の王、『すべてを喰らう者』。
その名はガエムト。
しかしガエムトのようすは少し妙だった。
以前は現れるなり呼び出した本人であるララキを襲い、フォレンケの制止がなければそのまま彼女を殺していたに違いないほど猛々しかったが、今のガエムトにそのような気配はない。
なんというのか、彼は、何かを探してうろたえているように見えた。
だが、その探しものがここにはないことに気づいたか、あるいはロディルを見て何か思い出したのだろうか。
ガエムトの腕が急に伸びてきた。
ロディルは咄嗟に防御の紋章を描き、なんと実際にその腕を弾くことに成功した。
──弱っている、と直感的に思う。
以前のガエムト相手だったら確実に今ので死んでいた。
『……臭う……タヌマン・クリャ……おまえ、臭う……』
忌神はぶつぶつと呟いて、困ったようにもう一度ロディルに手を伸ばす。
しかしロディルは今度は防御しなかった。
彼からこちらを害そうという気配を感じなかったのだ。
ガエムトの毛むくじゃらの指はロディルの額に触れ、途端にそこが焼きごてを押し付けられたかのような激痛に襲われた。
堪らず悲鳴を上げるロディルに、背後のナスタレイハも泣きそうな声でその名を叫んだ。
ただ、痛みはすぐに退き、目の前に鮮やかな色が現れる。
タヌマン・クリャだった。
威嚇するように大きく翼を広げながら、クリャはガエムトを見下ろしている。
『クリャ、喰う! 喰う!』
『やめろ、馬鹿者。私を喰ってもフォレンケは出てこんぞ』
クリャに踊りかかっていたガエムトが、その言葉にぴたりと手を止めた。
『おまえはフォレンケを探しているんだろう? だが、いくらヴレンデールじゅうを彷徨ってもあのヤマネコはいやしない』
『ヌウウ……』
『我々はそのためにあの山を目指しているんだ。なんならおまえがこのふたりを送れ、そのほうが話が早いぞ』
『……ウグ? ウウ……ウウウ……ウウァァァ……!』
次の瞬間、ロディルたちはガエムトに胴体をむんずと掴まれていた。
そのまま意識が一瞬ふっと遠くなり、はっと気がつくとどこか知れない暗闇にいた。
まだ日が沈むには早すぎるというのに、あたりはどんなに眼を凝らしてもなにも見えないほどの完全な暗闇で、上空にぽっかりと切り裂いたような三日月だけが浮かんでいる。
身体はまだ掴まれている感覚があり、身動きができない。
ガエムトの鼻息らしい呼吸音だけが鼓膜を叩く。
ばり、と何かが砕ける音がした。
ばりばり、とその音はそのあとも続いた。
身体が揺れ、ガエムトが歩いているらしいことが伝わってくるが、音もその振動に合わせて聞こえてくる。
たぶんガエムトが何かを踏み砕いているのだろう。
掴まれている場所が氷を当てられたように冷たい。
そのうち自分の顎が震えてがちがち鳴るのも聞こえるようになった。
運ばれ続けてどれくらいたったのだろう。
奇妙なほど時間の感覚がない。一時間ほどだったようにも思うし、あるいは一年くらい経ってしまったのでないかとも感じるし、もしくは数秒のできごとだったかもしれない。
ふたりは突然、放り出されるようにして光の中に出た。
太陽だ。秋の晴れ渡った空の真下、ふたりは荒地に仰向けで転がっていた。
陽光を受けて身体の冷えもすぐに収まり、何がなにやらわからないまま起き上がって、またさらに絶句する。
目の前に山があった。ここしばらく眺め続けてきたハールザ山に間違いない。
麓には町が広がっている。
「ほんとうに運ばれたんだ、僕ら……そんなことって……」
「ジーニャ、今のは何だったの?」
「あれは忌神だよ。たぶん今聞いてもピンとこないだろうから、また今度詳しく説明する。とにかく山に入ろう」
「うん、わかった」
ふたりは手を取り合って山門に進む。
装飾の少ない簡素な造りで、入山料を納める箱のようなものが提げられているが、その内容は「心次第」とある。
ヴレンデールの宗教施設にはこういうものが多い。
ただきっと、本来ならこの門にはフォレンケに関する紋章が刻まれていたはずだ。
今はそれらしいものは見当たらないが。
ともかく適当な額を納めて山に入る。だが頂上まで登る必要はない。
ふたりは、ある儀式をするためにここに来た。
木の棒を使い、地面に大きな紋章を描く。誰かに見つかって咎められないよう急いで進めなければならない。
クリャに指示されたその紋章は、もともと以前の旅でロディルが集めた中にあったもので、メモによればフォレンケ四大寺院のうち最古のカグド寺院で見つけたものらしい。
ふたりはそれを描く。
あまりに複雑で込み入った模様だが、ふたりで手分けすればなんとかなりそうだ。
楕円、多角形、方形、星型、砂を現す点描図形と、必要なものを大急ぎで描きこんでいく。
「……できた!」
「よし、タヌマン・クリャ、次は何を──"荒山の守護者よ、風とともに麓へと顕現したまえ"……」
クリャが答える前に、ロディルの口が動く。
動かされている。
ナスタレイハが呆然としてそれを見ていた。
「"すべての土に還る者の言の葉に、その広き耳を傾けたまえ"……」
招言詩を唱え終わった瞬間、紋章から大量の土が吹き上がった。
そこに混じっていた砂礫がきらきらと輝き、舞い散った土が集まって、ゆるゆると何かの形を創っていく。
それは──人の形をしている。
やがて土が零れてゆき、そこから少年の姿が現れる。
色の濃い金髪と浅黒い肌をした、ヴレンデール人らしい姿の少年は、少し古めかしい民族衣装を纏っている。
意識がないのか、両眼は閉じられたまま開く気配がない。
そして、再び足元から青黒い腕が伸びてきて、少年の身体を掴んだ。
→
時間はミルンたちがチロタに入るよりも前に遡る。
遠く離れたヴレンデールで、ロディルたちも懸命に歩みを続けていた。
山は見える。ずっとそこにあるが、砂風に煽られながら進むふたりは、永遠にそこまでの距離が縮まらないような錯覚に囚われていた。
誰かの罠があるわけでもないが、とにかく行けども行けども景色が変わらないせいだ。
どうしてこんな苦労をして、徒歩でなければならないのだろう。
何度もそんな思いが胸に去来する。
しかもふたりにとっては、この旅は望んだ自分の道というわけでもないのに。
足元の砂礫がざらざらと滑り、次第に足取りが重くなる。
そのうちナスタレイハが立ちすくんでしまった。
無理もない、病は概ね完治したとはいえ、まだ体力が戻ってはいないのだ。
ふたりはやむを得ずそこで一旦休憩にした。
「なんだか、昨日より山が遠くなったみたい……」
ナスタレイハはそんなことを呟いて、ロディルの手をきゅっと握った。
互いの手は汗でしっとりと湿っている。
「……あのさ、ターリェカ。今日このあとも同じペースで進めば、予定では村をひとつ通ることになってるんだけど、身体の調子によってはそこにしばらく滞在することも必要じゃないかな」
「それって、つまり、私に留守番をしろってことね? ……ごめんなさい、やっぱり足手まといだよね」
「そうは言ってないだろ」
ロディルは小さく溜息をついた。
ほんとうにそんなこと、ひとかけらも思ってはいない。
どうしてもついていきたいとナスタレイハに言われたときに、きちんと説得しなかった自分が悪いのだし、それより辛そうな彼女を見ているのがやるせないのだ。
タヌマン・クリャにこの任務を仰せつかったのはロディルで、ナスタレイハまで負う必要はない。
しかしそれを口にすると彼女は首を振る。
──それは違うよ。
ジーニャの荷物なら私も一緒に運ばなきゃいけない。
その言葉がどこか掴みきれず、ロディルはその意味を尋ねる。
「だって私たち、夫婦でしょう?」
ナスタレイハはまっすぐにロディルを見つめて、少し苦しそうにそう言った。
そうだ。ふたりは神前で一緒に禊を受けて、ともに生き、互いを支えあうことを誓ったのだ。
そんなことはロディルだってわかっているはずなのに、あれから日が経つにつれてその意識が薄れていっているように思えるのはなぜだろう。
彼女を愛していないわけではない。
まったく逆で、だからこそしんどそうな姿を見るのが辛い。
だが、しいて何かに原因を求めるなら、ふたりが誓いを立てるべき相手は違う神であるはずだった。
クシエリスルなどという名を掲げているのとは違う、オオカミと大樹の神でなければならなかった。
そしてロディルには二年間の旅の記憶が戻っていて、その道中に思っていたことも再び心身に感覚している──もっと強く、ならなければいけない。
焦燥としか言いようがないその想いに縛られて、だからこそあのときは結婚なんていう選択肢を選ばなかったのだ。
きっとロディルはまだ、マヌルドでナスタレイハを助けられなかったことを悔やんでいる。
無力だった己を憎んでさえいる。
あのとき苦しみ病んでいく彼女を目の当たりにしながら、見ているしかできなかった自分自身のことを、どうにかして殺さないかぎり前には進めない……。
「ジーニャ、そんな顔しないで。……心からあなたに感謝してる、一生かかっても返しきれないくらい」
「……そんな言葉が聞きたくて薬を探したわけじゃない……」
「わかってる。わかってるから……泣かないで……もうこれ以上ひとりで苦しまないで……」
ナスタレイハに抱き締められながらロディルは空を仰ぐ。
紋唱術の腕がどんなに上達しても、どんなに強い術師と戦って勝利を収めても、心の弱さだけは克服することができない。
自罰的な罪悪感に囚われ、鎖を引き摺って歩いている。
きっと彼女にはそれがわかったから、この旅への同行を申し出たのだろう。ロディルがひとりで潰れてしまわないように。
お互いにマヌルドで傷つきすぎた。
ナスタレイハが心を病んでいたとき、当然ロディルも同じように削り取られていたのだ。
少しずつ、でも確実にすり減らしながらそれを見ないふりをして、あるいは自分よりもっと辛い人を眺めることで、自分はまだ耐えられるはずだ、そうあるべきだと己に言い聞かせていた。
ナスタレイハの頬に触れ、涙を零しながらロディルはもう一度尋ねる。
「ターリェカ、……僕なんかで、ほんとにいいの?」
「なんか、じゃないよ。私はジーニャがいい。
他の人じゃダメなの、あなただから一緒にいたいの。
……ごめんね、ほんとは私を見るたびに辛い想いをしてるって、わかってるのに。
でも傍にいたい。もう離れるのは嫌……だからせめて、苦しいなら、それを私にも背負わせて」
互いに強く抱擁して、重なり合った鼓動を聞く。
他にどうすることもできなかった。
痛んでいるのを思い出してしまった心は、もうそれを気づかなかったことにはできない。
強くなりたい──ロディルの頭の隅で、誰かが呟いている。
きっとほんとうに必要なのは、誰かを倒す術ではなくて、自分を越える力だ。
そしてたぶん、ひとりのままでは永遠に手に入らない。
なんとなくそう思った。
やがてナスタレイハの手を取り、ロディルは立ち上がる。
歩けるかい、と尋ねると、大丈夫、と返ってくる。
ロディルが思っていた以上にナスタレイハは気丈で、きっとロディルの何倍も強い。
ふたりはもう一度歩き始める。
果てしなく思える長い道のりを、ただひとつの山を目指して。
その名はハールザ。
ここヴレンデールで、いや、世界でもっとも古い、それこそ神話の時代から語られる霊山だ。
なぜそこを目指しているのかというと、タヌマン・クリャがそこでとある神を呼べと指示してきたからである。
今は人びとから忘れられてしまっている、ヴレン人の主神であったヤマネコの神は、本来そこに御座(おわ)しているはずだった。
記憶が書き換えられたままのナスタレイハには、当然その事実は理解されていない。
なので改めてそんな話をすると聞き返される。
「ねえジーニャ、ところでその神さまって、なんていうお名前なの?」
「荒山の守護者のこと? フォレンケだよ」
ロディルが答えた途端、地面が揺れた。
そして、ハーシの冬のような冷たい風が吹き込んできて、ふたりはその場に崩れ落ちる。
ロディルは咄嗟にナスタレイハを抱き寄せた。この感覚を知っている、と思ったからだ。
いつかのときよりずっと穏やかではあるが、地面はぐずぐずと泡を吹く。
砂礫のなかに僅かにあった背の低い草はすべて飲み込まれ、煮込まれているスープのように地泡が爆ぜる。
やがて地面を引き裂くように、青黒い腕が天へ向かって地底より突き上げられた。
悲鳴を上げたナスタレイハをかばうように背後へと押しやり、ロディルはそれと対峙する。
這い上がってきた異形の神にも見覚えがある。
たった一度しか会っていないが、忘れられるはずもない。
冥府の長にして忌神の王、『すべてを喰らう者』。
その名はガエムト。
しかしガエムトのようすは少し妙だった。
以前は現れるなり呼び出した本人であるララキを襲い、フォレンケの制止がなければそのまま彼女を殺していたに違いないほど猛々しかったが、今のガエムトにそのような気配はない。
なんというのか、彼は、何かを探してうろたえているように見えた。
だが、その探しものがここにはないことに気づいたか、あるいはロディルを見て何か思い出したのだろうか。
ガエムトの腕が急に伸びてきた。
ロディルは咄嗟に防御の紋章を描き、なんと実際にその腕を弾くことに成功した。
──弱っている、と直感的に思う。
以前のガエムト相手だったら確実に今ので死んでいた。
『……臭う……タヌマン・クリャ……おまえ、臭う……』
忌神はぶつぶつと呟いて、困ったようにもう一度ロディルに手を伸ばす。
しかしロディルは今度は防御しなかった。
彼からこちらを害そうという気配を感じなかったのだ。
ガエムトの毛むくじゃらの指はロディルの額に触れ、途端にそこが焼きごてを押し付けられたかのような激痛に襲われた。
堪らず悲鳴を上げるロディルに、背後のナスタレイハも泣きそうな声でその名を叫んだ。
ただ、痛みはすぐに退き、目の前に鮮やかな色が現れる。
タヌマン・クリャだった。
威嚇するように大きく翼を広げながら、クリャはガエムトを見下ろしている。
『クリャ、喰う! 喰う!』
『やめろ、馬鹿者。私を喰ってもフォレンケは出てこんぞ』
クリャに踊りかかっていたガエムトが、その言葉にぴたりと手を止めた。
『おまえはフォレンケを探しているんだろう? だが、いくらヴレンデールじゅうを彷徨ってもあのヤマネコはいやしない』
『ヌウウ……』
『我々はそのためにあの山を目指しているんだ。なんならおまえがこのふたりを送れ、そのほうが話が早いぞ』
『……ウグ? ウウ……ウウウ……ウウァァァ……!』
次の瞬間、ロディルたちはガエムトに胴体をむんずと掴まれていた。
そのまま意識が一瞬ふっと遠くなり、はっと気がつくとどこか知れない暗闇にいた。
まだ日が沈むには早すぎるというのに、あたりはどんなに眼を凝らしてもなにも見えないほどの完全な暗闇で、上空にぽっかりと切り裂いたような三日月だけが浮かんでいる。
身体はまだ掴まれている感覚があり、身動きができない。
ガエムトの鼻息らしい呼吸音だけが鼓膜を叩く。
ばり、と何かが砕ける音がした。
ばりばり、とその音はそのあとも続いた。
身体が揺れ、ガエムトが歩いているらしいことが伝わってくるが、音もその振動に合わせて聞こえてくる。
たぶんガエムトが何かを踏み砕いているのだろう。
掴まれている場所が氷を当てられたように冷たい。
そのうち自分の顎が震えてがちがち鳴るのも聞こえるようになった。
運ばれ続けてどれくらいたったのだろう。
奇妙なほど時間の感覚がない。一時間ほどだったようにも思うし、あるいは一年くらい経ってしまったのでないかとも感じるし、もしくは数秒のできごとだったかもしれない。
ふたりは突然、放り出されるようにして光の中に出た。
太陽だ。秋の晴れ渡った空の真下、ふたりは荒地に仰向けで転がっていた。
陽光を受けて身体の冷えもすぐに収まり、何がなにやらわからないまま起き上がって、またさらに絶句する。
目の前に山があった。ここしばらく眺め続けてきたハールザ山に間違いない。
麓には町が広がっている。
「ほんとうに運ばれたんだ、僕ら……そんなことって……」
「ジーニャ、今のは何だったの?」
「あれは忌神だよ。たぶん今聞いてもピンとこないだろうから、また今度詳しく説明する。とにかく山に入ろう」
「うん、わかった」
ふたりは手を取り合って山門に進む。
装飾の少ない簡素な造りで、入山料を納める箱のようなものが提げられているが、その内容は「心次第」とある。
ヴレンデールの宗教施設にはこういうものが多い。
ただきっと、本来ならこの門にはフォレンケに関する紋章が刻まれていたはずだ。
今はそれらしいものは見当たらないが。
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ふたりは、ある儀式をするためにここに来た。
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クリャに指示されたその紋章は、もともと以前の旅でロディルが集めた中にあったもので、メモによればフォレンケ四大寺院のうち最古のカグド寺院で見つけたものらしい。
ふたりはそれを描く。
あまりに複雑で込み入った模様だが、ふたりで手分けすればなんとかなりそうだ。
楕円、多角形、方形、星型、砂を現す点描図形と、必要なものを大急ぎで描きこんでいく。
「……できた!」
「よし、タヌマン・クリャ、次は何を──"荒山の守護者よ、風とともに麓へと顕現したまえ"……」
クリャが答える前に、ロディルの口が動く。
動かされている。
ナスタレイハが呆然としてそれを見ていた。
「"すべての土に還る者の言の葉に、その広き耳を傾けたまえ"……」
招言詩を唱え終わった瞬間、紋章から大量の土が吹き上がった。
そこに混じっていた砂礫がきらきらと輝き、舞い散った土が集まって、ゆるゆると何かの形を創っていく。
それは──人の形をしている。
やがて土が零れてゆき、そこから少年の姿が現れる。
色の濃い金髪と浅黒い肌をした、ヴレンデール人らしい姿の少年は、少し古めかしい民族衣装を纏っている。
意識がないのか、両眼は閉じられたまま開く気配がない。
そして、再び足元から青黒い腕が伸びてきて、少年の身体を掴んだ。
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