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西の国 ヴレンデール

107 見知らぬ眼差し

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 ララキに言われたことをずっと考えている。
 そのせいで集中力を切らしてしまい、食器をひとつ落として割ってしまった。

 流しに散らばる破片を見下ろしながら、スニエリタは顔が青ざめていくのを感じていた。

 ただでさえ部屋や調理場を何日も借りているのに、これ以上この町の人に迷惑をかけられない状況なのに、なんということをしてしまったのだ。
 反射的に滲んできた涙をぐいと拭い、とりあえず破片を拾おうと手を伸ばす。
 しかし触れた瞬間、指先に鋭い痛みが走って、咄嗟に退けた指はすでに血が赤く滲んでいた。

 痛みと視覚的な刺激にスニエリタはますます混乱した。
 破片を拾わなくては、指を手当てしなくては、ふたつの指令が脳内を同時に駆け巡ってどちらを優先していいかわからない。

 あわあわしている間にロンショットが顔を覗かせて、彼もすぐさま異変に気づいた。

「お嬢さま、どうされました? ……血が出ているじゃないですか!」
「あ、そのっ……これは、そんな大した怪我では……それよりお皿が、わたし、落としてしまって……」
「手当てが先です。傷口から菌が入ることもありますから。こちらの処理は私がしておきますので、スニエリタさまは部屋に戻ってララキさんに手当てをお願いしてください」
「ごめんなさい……」

 落ち込みながら、とぼとぼとみんなが寝ている部屋へ戻る。

 ああ、ここにあまり居たくなくて、わざとゆっくり洗いものをしていたのに。手がじりじり痛むのを感じながら、怪我をしていないほうの手を扉にかける。
 利き手でないせいか開けづらい。

 もちろん顔にもいろいろ出ていたのだろう、入るなりララキにどうしたのかと尋ねられた。諦めて正直に答える。

「お皿を落として割ってしまいました。それで、破片を拾おうとして指を切ってしまったので……」
「あらま。ちょっと指見せて」

 ララキはまじまじと傷口を見て、小さな破片がそこに残っていないのを確認してから、鞄から出した消毒液をそこに垂らした。ちょっと沁みるからね、と言い添えて。
 宣言されたとおり鋭い痛みを感じて、スニエリタは思わず呻く。

 それから血が止まるまで押さえているように言われ、反対の手で指先をきゅっと摘む。
 その間にララキは布とガーゼを引っ張りだして、巻いたほうがいいかどうか思案していた。正直そこまでするほどの怪我ではない。

 そんなことをしていると、ララキの隣で足を動かそうと試行錯誤していたミルンが顔を上げて、大丈夫かと聞いてくる。

 顔をまっすぐ見られなくて、スニエリタはちょっと俯きぎみになりながら頷いた。
 指は薬が沁みて痛いけれど、今はそれより心臓のほうがもっと痛い。誰かが鷲掴みにして握り潰そうとしているみたいだ。

 ララキのせいだった。彼女があんなことを言ったせいで、まともにミルンと会話もできない。

 それでわざわざ手伝いを断ってひとりで洗いものを引き受け、わざと必要以上に丁寧にやって時間をかけていたのだ。
 できるだけこちらに顔を出さないでいられるように。

 それなのに、ちょっとこれまでの旅のことを思い出してしまったりして、それで手が滑ってしまった。

 スニエリタが眼を醒ましていちばん最初に眼にしたのは、人工呼吸をするミルンの顔。
 それから彼にかけられた言葉の数々──"すぐに謝るな""やる前から失敗することを考えるな""嫌なら無理にしなくてもいい"──逆に、スニエリタのほうがわがままに近いことを言ったのに、謝られたこともあった──"悪かった、おまえの気持ちを考えてなかった"。

 道中の事故や神の試験のときなど、幾度となく助けられた。
 抱きとめられたときの感触も、腕の力強さも、胸の温もりも、何ひとつ薄れることなく覚えている。

 頭を撫でられるときに感じる手の大きさ。そのとき彼が浮かべている穏やかな微笑み。

 たぶん、撫でられることそのものよりも、その瞬間の顔を見るのが好きなのだとスニエリタは思う。
 普段の彼は難しい顔をしていることも多いし、いつも三人の旅を牽引するために資金や行程などたくさんのことを考えている人だから。

 あの一瞬にも等しい間は、彼はスニエリタのことだけを見てくれるから、きっとそれが好きだった。

 ということを、昨日からずっと考えていて皿を落とす直前に結論づけた。
 その事実に自分で愕然とするあまり手を滑らせたのだ。

「布巻くより治癒紋唱を当てて傷口を塞いだほうがいいだろ」
「あー、やっぱそうだよね。そうしよう。ところでミルンはどうなの? そろそろ歩けそう?」
「多少はな。長時間はきついけど」

 今は声を聞くだけで心臓が飛び跳ねるような感覚がする。
 息をするのも苦しくて、とにかく指先に意識を集中させようと努めた。まだそちらの痛みのほうがマシだ。
 これ以上ミルンのことを考えてしまったら、きっと呼吸がままならなくなって死んでしまう。

 しかしララキが紋唱をかけてくれたお陰で痛みはどんどん和らいでしまい、いやそれも変な話だが、そうなると隣にいるミルンの気配が異常に気になりだした。心なしか視線も感じるような気がする。

 どうにかそれを無視しようとして、スニエリタは一生懸命自分に言い聞かせる。
 わたしは何も気づかない、わたしは何も感じていない、これは気のせい……。

「……なあ、スニエリタ、おまえ大丈夫か」
「ひゃっ!?」

 こんなときにミルンが話しかけてきたものだから、驚いて変な声が出てしまった。
 恥ずかしいやら何やらで、たぶん肩も思いきりびくついてしまったのだろう、ミルンもララキもちょっと唖然としてこちらを見ている。

 ああ、穴があったら入りたい。入ってそのまま土を被りたい。
 顔が燃えるように熱い。

「なんか変だし、顔も赤いような気がすんだけどよ……熱ないか? 昨日からあれこれ動き回って、慣れないこともたくさんやってるだろ。疲れてんじゃねえのか」
「……相変わらず過保護が大爆発してるねえ。スニエリタ、ちょっとおでこ当てるよ」
「だ、大丈夫です……平熱です……」

 ララキが額をこつんと合わせる。
 かなり顔は近いわけだが、近いなあと思うだけでまったく動揺は感じない。
 もちろんララキは女の子だからそれは当たり前なのだが、しかし、それにしても、違いすぎるような気が、ああああ。

 混乱してますます頭がぐるぐるし始めるスニエリタに、ララキは苦笑いしながら、やっぱりちょっと熱いかも、と言う。

 語弊があるのでその言いかたはよくない。
 確かに今は一時的に発熱していると言えるような気もするが、決して疲労や病気によるものではない。

 恥ずかしいから少しひとりにならせてほしい。

「微熱くらいはありそう……ん?」

 ふとララキが疑問符を浮かべる。その瞬間、スニエリタの側にも小さな違和感が生じた。

 触れ合っている額同士が奇妙に冷たくなったのだ。
 温かくなるならまだしも、人肌同士を触れ合わせて冷たく感じることなんてあるだろうか。どちらかの体温が下がっているというわけでもないのに。
 それが次第に治まったかと思ったところで、急にララキがぱっと身を離した。

「うわわ! ……スニエリタ、今の大丈夫だった?」
「はい、あの、わたしには何も……一瞬ちょっと冷たく感じただけでした」
「そっか、……うーん、気のせいかな……あたしは誰かに覗き込まれたみたいな感じがしたんだけど」

 不思議そうな顔で言いながら、ララキは額を擦る。そしてはっと思い出したように続けた。

「……冷たくなったの、ルーディーンにキスされたとこだ」

 それはスニエリタの知らない話だった。

 そのままララキが説明してくれたところによると、ワクサレアの首都フィナナに滞在したときに、そちらの主神であるルーディーンという女神と対話をしたらしい。
 その際、彼女が手助けと称してララキの額に口づけた。
 それ以来何か神に関わると、毎回ではないがそのあたりが熱を持ったり痛んだりすることがあるそうだ。

 では今ララキを覗き込んだというのはどこかの神なのだろうか。
 ララキにはそれが誰なのかはわからなかったそうだが、彼女のなんとなくの感覚でいうと、知らない神だったような気がする、とのことである。

「冷たく感じた、か……その感覚はスニエリタにもあったんだよな?」
「はい。でも、わたしは神と接触した経験はありませんし……ララキさんの感覚が一時的に伝わった、とか、そんな感じでしょうか……」
「……や、それは違うかもよ。スニエリタはフォレンケにキスされてるから、蘇生のときに」
「そうなんですか?」
「うん。心の紋章を見るからって言ってた」

 もちろんまったく覚えていない。
 背中の模様のように見苦しいものでないからまだいいが、それにしても、知らない間にそんなことをされていたとは。
 思わず自分の額の、さっき冷感のあったところに触れてみたけれど、もちろんそこには何もないし、今は何の感覚も残っていない。

 この現象について、しばらくララキとミルンは討論していた。
 スニエリタにはよくわからない部分が多いので傍観しているしかなかったが、今後も影響があるかもしれないことなので注意深く聞くことにした。

 額を合わせたこと自体は偶然だ。そして合わせた者同士、どちらも額に神の口付けを受けたことがあるのも。
 だがその偶然によって、恐らくは互いの額に残った神の力が何らかの作用を起こし、どこかの神と通じてしまったのではないか──というのがふたりの共通認識だった。

 果たしてララキを覗いたというのが何者なのかは、今はわからない。
 面識のある神のほうが少ないので絞り込むこともできない。

「ちなみに覗き込まれるっていうのはどういう感覚なんだ?」
「どうって言われても……実際に相手が見えたわけじゃないけどさ、さっきはあたしの目の前の、このあたりにスニエリタがいたじゃない? そのスニエリタよりも近いとこから視線を感じたっていうか……」
「それより近いって、おまえらデコくっつけてただろ。それ以上近いってどういうことだよ」
「あ、違う違う、そういう"近い"じゃなくて、もっとこう精神的な感じ」
「……はあ?」
「わかんないかなあ。だからぁ……向こうは面と向かってあたしの顔を見てたわけじゃないんだって。覗き込まれるって言ったのは、すごく内側に視線があったからなの。それこそ、たぶん、あたしの心の紋章ってやつを見てたんだと思う」
「おまえの説明はわかりにくいんだよ。でもまあ、知ってる神じゃないってんなら、少なくともタヌマン・クリャってことはなさそうだな」

 ララキも頷いている。

「まだあたしたちに会ってない神さまだから、たぶんこれから試験やろうとしてるとかじゃないかな。それでたまたまあたしたちがおでこをくっつけたんで、なんていうの? 波長が合った? から、つい覗いちゃった、みたいな」
「もしくはまったく俺らに興味はなかったが偶然繋がっちまっただけ、ってこともあるな」
「それもそうか。うーん……でも、とりあえず嫌な感じはしなかったよ。いきなりだったんで驚いたけど」

 その言葉にはスニエリタのほうが驚いた。
 見知らぬ神の視線を感じる、なんてふつうに考えたら尋常ではない事態だが、ララキがあまりにあっけらかんとしているからだ。
 いくら神との対話に慣れているとはいえ……そういえば顔を離した直後のララキの顔も強張ったりはしていなかった。

 そりゃあ神の試験なんてものを受ける旅をしているくらいだから、そんじょそこらの人間より度胸は座っているのかもしれないが、それにしても。思わずスニエリタも口を挟んでしまった。

「……あの、ララキさん……怖くはないんですか……?」
「へ? あー……そりゃあぜんぜん怖くないとは言えないよねえ、急だったし知らない神さまだし。
 でもほら、ガエムっちゃんと対面してるときよりはマシだよ。むしろ覗いてきたのがガエムトだったら知ってても怖いけど」
「おいララキ、スニエリタはガエムトと面識ねえぞ」
「あ、そっか」

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