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西の国 ヴレンデール
087 ふたたび風が吹く
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言われたとおりに風の紋唱を行う。
条件は「自分たちを軸にして外側に向けた風が吹く術」で、できればそれを長く発動させ続けてほしいとのことだった。
自分にはまだ難しい要望だとスニエリタは思う。
ようやく発動そのものは安定するようになっていたが、威力に関してはまだ不安が多い。
ミルンに満足してもらえる効果値を出すことだけでも厳しいが、さらにそれを長時間継続させるとなると、かなりの集中力と制御が必要になってくる。
いずれもスニエリタの苦手分野だ。
しかし苦手だろうがなんだろうが、やらなければ今度はミルンと一緒に生き埋めになる。
苦い砂を大量に飲み、呼吸もできないのに気絶もできなくて、永遠のように長い緩慢な苦痛に晒されるのだ。
ついさっき身をもって経験したスニエリタとしては、まだ同じ目に遭うことは可能なかぎり避けたい。
そして、ミルンにも同じ思いをさせたくない。
だからやらなくては。なんとしてもこの人の期待に応えなくては。
「──風籃の紋」
噴出した風が流れ込んでくる砂を押し返す。もっと威力が出れば砂を穴の外まで放ることもできるかもしれないが、そこまで持っていくにはまだ足りなかった。
この状態では、風が絶えたらすぐ砂が流れてくるだろう。
スニエリタは光っている紋章が消えないうちに次の紋章を描きはじめる。気力のかぎりこの術を発動し続けるしかない。
背中合わせの状態で、ミルンはあたりを注意深く観察している。
彼の足元では探索の紋唱がずっと回り続けていた。さすがに神を追うことは難しいのだろうが、ほとんど用を為していないそれを、彼は消さずに放っていた。
踏みそうな位置にあるのに邪魔じゃないのかしら、とスニエリタは思った。まあ歩き回れるような状況でもないので問題ないのかもしれない。
そこで紋章からそろそろ光が薄らいできたのを見て、すぐ次の術を発動した。弱まる瞬間を作るのが怖い。
ミルンはまだ動かない。
いつまでこんな状態が続くのだろう。まだ二度目なのに、スニエリタの精神はどんどん削がれていっている。
あまり長く続けられる自信はない、早く済むに越したことはないのだ、何より自分以外の人まで巻き込むかもしれないと思うとどうしても焦ってしまう。
次の紋章を描きながら、少し緊張を和らげようと少し大きく息を吸った。
伸ばした背筋が後ろのミルンと軽くぶつかった。
穴が狭いので当然ではあるが、思ったより近くに立っていたことに驚き、謝ったほうがいいかと一瞬考える。でもミルンは何も言わない。
よく考えたらスニエリタがぶつかった程度では彼は少しも動かなかった。
寺院跡でララキとぶつかったときは、もっと勢いはついていたがお互い少しよろけたのに、やっぱり男の人って頑丈なんだなとスニエリタは思った。それに背中が広い。
こうしてくっついていると、触れ合っているところがじわじわ温かくなってきた。
それが妙にスニエリタを安心させる。ふうっと吸ったぶんだけの息を吐いて、それから紋章の残りを描き上げた。
焦っても仕方がない、今はスニエリタにできることを精一杯やって、あとは彼に任せるだけだ。
きっとミルンなら終わらせてくれる。
終わって、そしたらきっと、また頭を撫でてくれるかもしれない。……だといいな。
それともたまにはこちらから、お願いしてみてもいいだろうか。
「……あの、ミルンさん」
「なんだ?」
この状態で彼が喋ると、肩甲骨のあたりがちょっと動く。くすぐったい。
「最後までちゃんとできたら、その……わたし、ミルンさんにお願いしたいことが、あるんです」
「お、珍しいな。いいよ、最後までやれたらだな。何がいい?」
「あの、その……あ、頭を……撫でて……いただけませんか……?」
「……えっ!?」
ミルンが素っ頓狂な声を出したので、さすがに恥ずかしいお願いだったかもとスニエリタは思った。
だが違った。ミルンは相変わらずぐるぐると回り続けている探索紋唱を拾い上げたのだ。
どうしたのかと聞くと、さすがに長すぎる、という言葉が返ってきた。
放っておけばそのうち消えるはずの紋章が、こうしていつまでも光りながら回り続けているのはおかしいというのだ。
神の結界だからというわけではないだろう。
他の紋章はすぐ消えるのだから、これだけ消えずに残るのは妙だ。それも探すべきものを見つけられない探索系の紋唱ならばなおさら。
それが意味することといえば、探知捜索の対象になっているものが、つねに動き続けていることに他ならない。
「カジンの居所がわかった。スニエリタ、嵐華の紋に切り替えてくれ」
「は、はい」
「おーいララキ、聞こえるか!?」
「聞こえてるよー、ついでに蔦の準備もできてるからいつでもオッケーだよーっ」
「よし、……スニエリタ、やれ!」
「はい! えっと……──嵐華の紋!」
指示に従い、下から上に吹き上げる風の紋唱を使う。
風圧でわずかに浮き上がった瞬間、ミルンに抱き寄せられ、驚いているうちにまとめて伸びてきた蔦に絡め取られた。もしかしなくても今までの人生でいちばん異性と密着している。
スニエリタが状況を理解しきる前にミルンが紋唱を放つ。──瀑戟の紋!
先ほどまでふたりで立っていた地面に水の槍がまっすぐ突き立てられ、着弾の直後に爆発した。
泥水が眼に入りそうになって思わず眼を瞑り、手で擦ってからようやく眼を空けると、地面は大きく抉れている。
そこに、色は同じだが質感の異なるものが混じっている。
カジンだ。砂色のワニは全身を一気にむき出しにされてしまい、慌てて地中に逃げようとするが、ミルンの次の術が殺到してそれを許さない。
スニエリタも急いで風の紋唱を描いた。咄嗟に選んだのはさっき描いたばかりの嵐華の紋。
下へ逃げたがっていたワニの身体は反対に上へと引き上げられ、そのまま重力に身を委ねる間もなく、今度は砂埃に巻き上げられた。
一体誰が、とスニエリタはあたりを見回すが、直後に吹き飛ばされてきたワニにぶつかったミルンもろとも地上に投げ出されることになった。
ララキがすばやく蔦を伸ばしてワニを捕らえる。
彼女はずっと蔦の紋唱をやっているせいか、回数ごとにどんどん蔦使いが上手くなっているように見える。蔦がまるで彼女自身の腕のように自在な動きだ。
『何すんだフォレンケ……今の助太刀はずるくないか……』
『ボクが都度穴からひとりだけ出すってルール、カジンを含めないとは言ってないからね』
「とりあえずこれで終わりでいい?」
『いいんじゃない? カジンの二つ名的に、穴から引きずり出せば勝ちってことで』
『だからその出す行程をあんたが手伝うなって言ってるんだが……』
『敗北した者は潔く引け、カジン。それがヴレン男児というものでござる』
ミルンとスニエリタはその会話を聞いて、ぽかんとしながら顔を見合わせた。
けっこう苦労させられたような気がするのに、フォレンケに一言頼めばそれでよかったなんて落ちがついてしまうのか。
それでいいのか神の試験。
さすがにそんな思いが顔に出ていたのだろう、「カジン含めて三人以上が穴に入ってて、なおかつ穴の外にいる人が眼で見て指定できなきゃダメっていう条件だったみたいよ」というララキからの捕捉が入った。
だからどのみちカジンを一度地中から引きずり出さなければいけなかったし、それには最低ふたりが同じ穴に入る必要があったと。
うーん……そういうことならいいのか?
スニエリタとしては、恐ろしい試験が終わったのならもう安堵の気持ちが何よりも勝ってしまうので、これ以上はツッコむ気にはならなかった。
だがミルンとカジンはそうではなく、しばらく納得いかなさげに首を傾げていた。
: * : * :
相変わらず重苦しい沈黙に覆われたまま、ロンショットとヴァルハーレはワクサレアの横断を終えた。
国境を越えてヴレンデールに入ったら足の確保が難しくなる。
幸か不幸か、お互い移動に適した遣獣は所持しているため、しばらくは遣獣頼りの移動が続くだろう。
道中のヴァルハーレの紋唱により、その時点ではスニエリタの滞在場所がシレベニであるところまで特定されていた。
ヴレンデールの集落は地形の都合上かなり点在しているため、おおよその位置だけで把握できてしまう。
もしかしたら近くのもっと小さな町かもしれないが、それはほとんど誤差の範囲内だ。
ふたりが追跡を始めてから、スニエリタはあまり長距離を移動しなくなってしまった気がする。
いや、前に居たあたりからシレベニまではそれなりの距離だったが、充分に時間をかけているところから、遣獣よりもっと地道な手段による移動だと推測できる。
そしてシレベニに着いてからもう一週間近く動いていない。
このままだとそう遠くないうちに追いついてしまうのではないか、とロンショットは思った。
追いかけているのだから当然だし、それは喜ばしいことのはずであったが、なぜかロンショットの胃は日に日に痛んだ。
スニエリタに追いついてしまったら、ヴァルハーレは迷わず彼女を連れ帰る。
家出をした理由も、一緒にいる人間とはどういう仲なのかも聞かずに、有無を言わせずに帰らせてしまう。
婚約者なのだから当たり前だ。頭ではわかっていても、どうしても彼を止めずにいられる自信がない。
そもそも彼がきちんと彼女に向き合っていれば、許婚としてあるべき節度を守っていれば、彼女だって家出をせずに済んだのかもしれない。
お世辞にも誠実とは言いがたいこの男が、自分の所業を棚に上げてスニエリタだけを罵るかと思うと許せないのだ。
せめて彼女の言い分も聞いてやるべきだし、罵倒も拒絶も甘んじて受けるべきだろう、それだけのことをしてきたのだから。
なんて、ロンショットの立場でいくら考えたところで彼を止めることなどできない。
ただ同行してようすを見て、できれば彼より先にスニエリタと接触できたら、そちらの事情によっては逃亡を助けてやりたいとさえ思うが、そんなことをしたらロンショットの首が飛ぶかもしれない。
しかしもうロンショットには息子の死を嘆いてくれる両親はいないし、将来を誓った恋人がいるわけでもない。
本意でないことをして自分を偽って長生きするよりは、したいことを貫いて殺されたほうがいいかもしれない。
……少しスニエリタに思い入れすぎている気もするな、とロンショットは静かに自嘲した。
別に彼女のために死にたいというつもりはないが、しいていえば、早いうちに両親と死別したロンショットは、将軍夫妻を心の支えにしてきたところがあった。
だからその娘ともなれば妹も同然だし、護らなければいけない存在でもあるのだ。
スニエリタは、両親にすら言えなかった胸の痛みをロンショットに打ち明けてくれたこともある。
誰にも秘密にしてくださいね、と囁かれたとき、ロンショットは幸せだった。
こんな自分を頼ってくれる人間など、彼女の他にはいなかった。
彼女のほうでもそうだったろう。スニエリタはいつも、ひとりぼっちだった。
心を開ける相手を見つけられたのなら、それはいいことだと思う。
フィナナで聞き込みをした情報からすると、スニエリタはとても強くなったらしい。
俄かには信じがたかったが、認定証の件など、ほとんど疑う余地のない話だった。あのクラブの人間が結託して嘘をついているなら話は別だが、そんなことをする意味がない。
そこでは彼女はひとりでいるところを目撃されている。
でも、同行している人間の情報が漏れないようにわざと単独行動を装ったとも考えられる。追われていることは彼女もわかっているはずだから。
きっと一緒にいる相手のお陰だ。
その人が彼女を解放して、本来の力を引き出しているのだ。
だったら今後もそのほうがいい。窮屈なマヌルドに帰らされて昔の彼女に逆戻りするより、自由に羽を伸ばさせてやりたい。
もっとも、ヴァルハーレはそうは思っていないようだが。
「ロンショット、あれから僕はずっと考えていたんだが、スニエリタの認定証を容姿が似た別の女に渡したと考えれば辻褄が合うんじゃないか? 認定証に外見がわかるような記述はないし、知らない人間には判別できないだろう」
「はあ……もしそうなら、なぜそんなことをしたのでしょうか」
「追ってくる僕らを混乱させるためとか? ……そうなんだよな、辻褄は合うんだが釈然としないんだ。スニエリタが別人になった、とこちらに思わせたとして、それで追跡が緩むとは向こうだって思わないだろうに。それに認定証を他人に使わせるなんて危険が高すぎる」
「では、やはりスニエリタさま自身が参加されていたのでは? 確かに成績は揮わなかったとお聞きしましたが、仮にも帝国学院を出られたのですから……家を出られたことで調子がよくなったとも考えられますし」
「……まあ、あの家では揮える腕も萎びるかもな。だが短期間で変わりすぎだ。そんなに単純なものじゃあない」
確かに一理ある。
紋唱術には術者の精神状態が結果に影響を与える、ということは研究者からも言われていることで、環境が変わったとたんに上手く使えなくなったとか、その逆の事例もある。
だが、それにも程度というものがあるし、悪かったものが改善されるには尚のこと時間がかかる。
それに人の性格はそうそう変わるものではない。フィナナで聞いたスニエリタの人物像は、ふたりが知っている彼女の姿とあまりにもかけ離れている。
あのクラブでは彼女はつねに堂々と振舞い、従業員や客たちの多くを占める柄の悪い男どもにも動ずることなく接し、むしろ華やかな所作と戦いぶりで観客を大いに魅了したという。
彼女を唯一負けさせたという相手も旅の術師だったようだが、彼については教えてもらえなかった。
というか、向こうも常連でもない参加者のことはあまり覚えていないようだった。
スニエリタほど圧倒的な記録を叩き出したわけでもなく、たまに顔を出して小金を稼ぐ、ごくふつうの参加者だった、と。
ただ、スニエリタについて最初に話してくれたワグラールという男だけは別だった。彼は直接その術師と戦った経験があるといい、いけ好かないが腕は確かなやつだった、と語っていた。
──名前は忘れたが、ハーシ人の若い男だ。
確かそいつにはめちゃくちゃ強ぇ兄貴がいる。たぶん俺はそいつともやりあったんだが、そっちの話はいいか?
そのときは無駄な金を払ってもしかたがないと断ったが、聞いたほうがよかったかもしれない。
スニエリタ一行は定期的に探索妨害を行ってくるが、その精度の高さはヴァルハーレをも拒むほどだ、その兄とやらが関わっている可能性もある。
というのも、スニエリタが敗北してクラブを去ったその日、彼とスニエリタが一緒に出て行くところを見た人間もいたからだ。男には別の仲間の女がいて、その女とスニエリタは親しげに会話していたという。
フィナナで後日行われた祭りでもそれらしい人物といるのを見かけたとも聞いた。
何にせよあのクラブで聞き込みをしたのは正解だった。あそこの人間にとってスニエリタは強烈に記憶に残る存在だったので、クラブ外での情報すら入ってきたのだ。
外で同じように聞いても覚えている人間はいなかったろう。
これから先ではどうだろう。
スニエリタはどこで何をしているだろう。誰と一緒にいて、どんなことを成し遂げているだろう。
もし追いついて今の彼女に逢えたら、そのときロンショットは、彼女に向かって何を言えばいいのだろう。
→
言われたとおりに風の紋唱を行う。
条件は「自分たちを軸にして外側に向けた風が吹く術」で、できればそれを長く発動させ続けてほしいとのことだった。
自分にはまだ難しい要望だとスニエリタは思う。
ようやく発動そのものは安定するようになっていたが、威力に関してはまだ不安が多い。
ミルンに満足してもらえる効果値を出すことだけでも厳しいが、さらにそれを長時間継続させるとなると、かなりの集中力と制御が必要になってくる。
いずれもスニエリタの苦手分野だ。
しかし苦手だろうがなんだろうが、やらなければ今度はミルンと一緒に生き埋めになる。
苦い砂を大量に飲み、呼吸もできないのに気絶もできなくて、永遠のように長い緩慢な苦痛に晒されるのだ。
ついさっき身をもって経験したスニエリタとしては、まだ同じ目に遭うことは可能なかぎり避けたい。
そして、ミルンにも同じ思いをさせたくない。
だからやらなくては。なんとしてもこの人の期待に応えなくては。
「──風籃の紋」
噴出した風が流れ込んでくる砂を押し返す。もっと威力が出れば砂を穴の外まで放ることもできるかもしれないが、そこまで持っていくにはまだ足りなかった。
この状態では、風が絶えたらすぐ砂が流れてくるだろう。
スニエリタは光っている紋章が消えないうちに次の紋章を描きはじめる。気力のかぎりこの術を発動し続けるしかない。
背中合わせの状態で、ミルンはあたりを注意深く観察している。
彼の足元では探索の紋唱がずっと回り続けていた。さすがに神を追うことは難しいのだろうが、ほとんど用を為していないそれを、彼は消さずに放っていた。
踏みそうな位置にあるのに邪魔じゃないのかしら、とスニエリタは思った。まあ歩き回れるような状況でもないので問題ないのかもしれない。
そこで紋章からそろそろ光が薄らいできたのを見て、すぐ次の術を発動した。弱まる瞬間を作るのが怖い。
ミルンはまだ動かない。
いつまでこんな状態が続くのだろう。まだ二度目なのに、スニエリタの精神はどんどん削がれていっている。
あまり長く続けられる自信はない、早く済むに越したことはないのだ、何より自分以外の人まで巻き込むかもしれないと思うとどうしても焦ってしまう。
次の紋章を描きながら、少し緊張を和らげようと少し大きく息を吸った。
伸ばした背筋が後ろのミルンと軽くぶつかった。
穴が狭いので当然ではあるが、思ったより近くに立っていたことに驚き、謝ったほうがいいかと一瞬考える。でもミルンは何も言わない。
よく考えたらスニエリタがぶつかった程度では彼は少しも動かなかった。
寺院跡でララキとぶつかったときは、もっと勢いはついていたがお互い少しよろけたのに、やっぱり男の人って頑丈なんだなとスニエリタは思った。それに背中が広い。
こうしてくっついていると、触れ合っているところがじわじわ温かくなってきた。
それが妙にスニエリタを安心させる。ふうっと吸ったぶんだけの息を吐いて、それから紋章の残りを描き上げた。
焦っても仕方がない、今はスニエリタにできることを精一杯やって、あとは彼に任せるだけだ。
きっとミルンなら終わらせてくれる。
終わって、そしたらきっと、また頭を撫でてくれるかもしれない。……だといいな。
それともたまにはこちらから、お願いしてみてもいいだろうか。
「……あの、ミルンさん」
「なんだ?」
この状態で彼が喋ると、肩甲骨のあたりがちょっと動く。くすぐったい。
「最後までちゃんとできたら、その……わたし、ミルンさんにお願いしたいことが、あるんです」
「お、珍しいな。いいよ、最後までやれたらだな。何がいい?」
「あの、その……あ、頭を……撫でて……いただけませんか……?」
「……えっ!?」
ミルンが素っ頓狂な声を出したので、さすがに恥ずかしいお願いだったかもとスニエリタは思った。
だが違った。ミルンは相変わらずぐるぐると回り続けている探索紋唱を拾い上げたのだ。
どうしたのかと聞くと、さすがに長すぎる、という言葉が返ってきた。
放っておけばそのうち消えるはずの紋章が、こうしていつまでも光りながら回り続けているのはおかしいというのだ。
神の結界だからというわけではないだろう。
他の紋章はすぐ消えるのだから、これだけ消えずに残るのは妙だ。それも探すべきものを見つけられない探索系の紋唱ならばなおさら。
それが意味することといえば、探知捜索の対象になっているものが、つねに動き続けていることに他ならない。
「カジンの居所がわかった。スニエリタ、嵐華の紋に切り替えてくれ」
「は、はい」
「おーいララキ、聞こえるか!?」
「聞こえてるよー、ついでに蔦の準備もできてるからいつでもオッケーだよーっ」
「よし、……スニエリタ、やれ!」
「はい! えっと……──嵐華の紋!」
指示に従い、下から上に吹き上げる風の紋唱を使う。
風圧でわずかに浮き上がった瞬間、ミルンに抱き寄せられ、驚いているうちにまとめて伸びてきた蔦に絡め取られた。もしかしなくても今までの人生でいちばん異性と密着している。
スニエリタが状況を理解しきる前にミルンが紋唱を放つ。──瀑戟の紋!
先ほどまでふたりで立っていた地面に水の槍がまっすぐ突き立てられ、着弾の直後に爆発した。
泥水が眼に入りそうになって思わず眼を瞑り、手で擦ってからようやく眼を空けると、地面は大きく抉れている。
そこに、色は同じだが質感の異なるものが混じっている。
カジンだ。砂色のワニは全身を一気にむき出しにされてしまい、慌てて地中に逃げようとするが、ミルンの次の術が殺到してそれを許さない。
スニエリタも急いで風の紋唱を描いた。咄嗟に選んだのはさっき描いたばかりの嵐華の紋。
下へ逃げたがっていたワニの身体は反対に上へと引き上げられ、そのまま重力に身を委ねる間もなく、今度は砂埃に巻き上げられた。
一体誰が、とスニエリタはあたりを見回すが、直後に吹き飛ばされてきたワニにぶつかったミルンもろとも地上に投げ出されることになった。
ララキがすばやく蔦を伸ばしてワニを捕らえる。
彼女はずっと蔦の紋唱をやっているせいか、回数ごとにどんどん蔦使いが上手くなっているように見える。蔦がまるで彼女自身の腕のように自在な動きだ。
『何すんだフォレンケ……今の助太刀はずるくないか……』
『ボクが都度穴からひとりだけ出すってルール、カジンを含めないとは言ってないからね』
「とりあえずこれで終わりでいい?」
『いいんじゃない? カジンの二つ名的に、穴から引きずり出せば勝ちってことで』
『だからその出す行程をあんたが手伝うなって言ってるんだが……』
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だからどのみちカジンを一度地中から引きずり出さなければいけなかったし、それには最低ふたりが同じ穴に入る必要があったと。
うーん……そういうことならいいのか?
スニエリタとしては、恐ろしい試験が終わったのならもう安堵の気持ちが何よりも勝ってしまうので、これ以上はツッコむ気にはならなかった。
だがミルンとカジンはそうではなく、しばらく納得いかなさげに首を傾げていた。
: * : * :
相変わらず重苦しい沈黙に覆われたまま、ロンショットとヴァルハーレはワクサレアの横断を終えた。
国境を越えてヴレンデールに入ったら足の確保が難しくなる。
幸か不幸か、お互い移動に適した遣獣は所持しているため、しばらくは遣獣頼りの移動が続くだろう。
道中のヴァルハーレの紋唱により、その時点ではスニエリタの滞在場所がシレベニであるところまで特定されていた。
ヴレンデールの集落は地形の都合上かなり点在しているため、おおよその位置だけで把握できてしまう。
もしかしたら近くのもっと小さな町かもしれないが、それはほとんど誤差の範囲内だ。
ふたりが追跡を始めてから、スニエリタはあまり長距離を移動しなくなってしまった気がする。
いや、前に居たあたりからシレベニまではそれなりの距離だったが、充分に時間をかけているところから、遣獣よりもっと地道な手段による移動だと推測できる。
そしてシレベニに着いてからもう一週間近く動いていない。
このままだとそう遠くないうちに追いついてしまうのではないか、とロンショットは思った。
追いかけているのだから当然だし、それは喜ばしいことのはずであったが、なぜかロンショットの胃は日に日に痛んだ。
スニエリタに追いついてしまったら、ヴァルハーレは迷わず彼女を連れ帰る。
家出をした理由も、一緒にいる人間とはどういう仲なのかも聞かずに、有無を言わせずに帰らせてしまう。
婚約者なのだから当たり前だ。頭ではわかっていても、どうしても彼を止めずにいられる自信がない。
そもそも彼がきちんと彼女に向き合っていれば、許婚としてあるべき節度を守っていれば、彼女だって家出をせずに済んだのかもしれない。
お世辞にも誠実とは言いがたいこの男が、自分の所業を棚に上げてスニエリタだけを罵るかと思うと許せないのだ。
せめて彼女の言い分も聞いてやるべきだし、罵倒も拒絶も甘んじて受けるべきだろう、それだけのことをしてきたのだから。
なんて、ロンショットの立場でいくら考えたところで彼を止めることなどできない。
ただ同行してようすを見て、できれば彼より先にスニエリタと接触できたら、そちらの事情によっては逃亡を助けてやりたいとさえ思うが、そんなことをしたらロンショットの首が飛ぶかもしれない。
しかしもうロンショットには息子の死を嘆いてくれる両親はいないし、将来を誓った恋人がいるわけでもない。
本意でないことをして自分を偽って長生きするよりは、したいことを貫いて殺されたほうがいいかもしれない。
……少しスニエリタに思い入れすぎている気もするな、とロンショットは静かに自嘲した。
別に彼女のために死にたいというつもりはないが、しいていえば、早いうちに両親と死別したロンショットは、将軍夫妻を心の支えにしてきたところがあった。
だからその娘ともなれば妹も同然だし、護らなければいけない存在でもあるのだ。
スニエリタは、両親にすら言えなかった胸の痛みをロンショットに打ち明けてくれたこともある。
誰にも秘密にしてくださいね、と囁かれたとき、ロンショットは幸せだった。
こんな自分を頼ってくれる人間など、彼女の他にはいなかった。
彼女のほうでもそうだったろう。スニエリタはいつも、ひとりぼっちだった。
心を開ける相手を見つけられたのなら、それはいいことだと思う。
フィナナで聞き込みをした情報からすると、スニエリタはとても強くなったらしい。
俄かには信じがたかったが、認定証の件など、ほとんど疑う余地のない話だった。あのクラブの人間が結託して嘘をついているなら話は別だが、そんなことをする意味がない。
そこでは彼女はひとりでいるところを目撃されている。
でも、同行している人間の情報が漏れないようにわざと単独行動を装ったとも考えられる。追われていることは彼女もわかっているはずだから。
きっと一緒にいる相手のお陰だ。
その人が彼女を解放して、本来の力を引き出しているのだ。
だったら今後もそのほうがいい。窮屈なマヌルドに帰らされて昔の彼女に逆戻りするより、自由に羽を伸ばさせてやりたい。
もっとも、ヴァルハーレはそうは思っていないようだが。
「ロンショット、あれから僕はずっと考えていたんだが、スニエリタの認定証を容姿が似た別の女に渡したと考えれば辻褄が合うんじゃないか? 認定証に外見がわかるような記述はないし、知らない人間には判別できないだろう」
「はあ……もしそうなら、なぜそんなことをしたのでしょうか」
「追ってくる僕らを混乱させるためとか? ……そうなんだよな、辻褄は合うんだが釈然としないんだ。スニエリタが別人になった、とこちらに思わせたとして、それで追跡が緩むとは向こうだって思わないだろうに。それに認定証を他人に使わせるなんて危険が高すぎる」
「では、やはりスニエリタさま自身が参加されていたのでは? 確かに成績は揮わなかったとお聞きしましたが、仮にも帝国学院を出られたのですから……家を出られたことで調子がよくなったとも考えられますし」
「……まあ、あの家では揮える腕も萎びるかもな。だが短期間で変わりすぎだ。そんなに単純なものじゃあない」
確かに一理ある。
紋唱術には術者の精神状態が結果に影響を与える、ということは研究者からも言われていることで、環境が変わったとたんに上手く使えなくなったとか、その逆の事例もある。
だが、それにも程度というものがあるし、悪かったものが改善されるには尚のこと時間がかかる。
それに人の性格はそうそう変わるものではない。フィナナで聞いたスニエリタの人物像は、ふたりが知っている彼女の姿とあまりにもかけ離れている。
あのクラブでは彼女はつねに堂々と振舞い、従業員や客たちの多くを占める柄の悪い男どもにも動ずることなく接し、むしろ華やかな所作と戦いぶりで観客を大いに魅了したという。
彼女を唯一負けさせたという相手も旅の術師だったようだが、彼については教えてもらえなかった。
というか、向こうも常連でもない参加者のことはあまり覚えていないようだった。
スニエリタほど圧倒的な記録を叩き出したわけでもなく、たまに顔を出して小金を稼ぐ、ごくふつうの参加者だった、と。
ただ、スニエリタについて最初に話してくれたワグラールという男だけは別だった。彼は直接その術師と戦った経験があるといい、いけ好かないが腕は確かなやつだった、と語っていた。
──名前は忘れたが、ハーシ人の若い男だ。
確かそいつにはめちゃくちゃ強ぇ兄貴がいる。たぶん俺はそいつともやりあったんだが、そっちの話はいいか?
そのときは無駄な金を払ってもしかたがないと断ったが、聞いたほうがよかったかもしれない。
スニエリタ一行は定期的に探索妨害を行ってくるが、その精度の高さはヴァルハーレをも拒むほどだ、その兄とやらが関わっている可能性もある。
というのも、スニエリタが敗北してクラブを去ったその日、彼とスニエリタが一緒に出て行くところを見た人間もいたからだ。男には別の仲間の女がいて、その女とスニエリタは親しげに会話していたという。
フィナナで後日行われた祭りでもそれらしい人物といるのを見かけたとも聞いた。
何にせよあのクラブで聞き込みをしたのは正解だった。あそこの人間にとってスニエリタは強烈に記憶に残る存在だったので、クラブ外での情報すら入ってきたのだ。
外で同じように聞いても覚えている人間はいなかったろう。
これから先ではどうだろう。
スニエリタはどこで何をしているだろう。誰と一緒にいて、どんなことを成し遂げているだろう。
もし追いついて今の彼女に逢えたら、そのときロンショットは、彼女に向かって何を言えばいいのだろう。
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