背守り

佐藤たま

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涙色は何色?

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 ねねが生まれた時にふたりで生命保険は加入したが、それも掛け捨てのもので、一時しのぎにしかならない程度の額しか下りない。

 タカヒロの仕事は個人事業主なので、会社からの手当などはなく、突然の彼の死は、私とねねが予想もしていなかった未来の方向転換余儀なくさせた。

 なんとしてもねねを保育園へ転園させて働かねば。
 結婚までした彼の死を受け入れることも否定することも置き去りにして、取り急ぎ区役所に保育園の空きがあるのかを聞きに行くことを最優先にした。

 駅前の駐輪場に入り、自転車を押しながら一時置きのスペースの空きを探す。
「あそこが空いてるよ」と、ねねが指差すほうを見ると一台だけ空いたスペースがあった。

 ねねをカゴから下ろしてから、自転車の前輪を留め具に差し込む。
「空いててよかったね。33番覚えた?」「覚えたよお父さんの33歳同じ」と、ねねが言った。
「ねね、お父さんの歳を知ってたの?」
 自分の左手を差し出して、ねねに手を繋ぐよううながしながら聞く。
「うん、お父さんのお葬式のとき、おばさんたちが言ってた。33歳なんて早すぎるって」
 なるほど、そういえばそうだ。みんな口々にそう言っていた。
 葬式の日は、タカヒロには近い親戚がいなかったので、ほとんど私の親戚と近所の人たちが手伝いに来てくれたくらいだったがそれでもなんだかんだで人は代わる代わる訪れてくれた。

 ねねのことは元同僚のカオルちゃんが見てくれていたから知らなかったけれど、大人の話している内容をきちんと聞いていたんだなといまさら知る。
 
 区役所までは電車で二駅だ。自転車でも行けない距離ではないが、ねねの希望で電車に乗ることにしていた。
「見て、お母さん。うちのアパートあの辺だよ」
 小さなねねの指が指すほうを見る。車窓に映るたくさんの住宅が流れていく。  小さな森のような緑がみえるところは、うちの裏の『食べ物がなる公園』かもしれない。
 タカヒロとねねは電車で出かける時いつも、こうやって車窓から自分の家を探していたっけ。
 タカヒロがいなくなって初めて気づく、なんでもない行動や彼が話していた一つ一つの切れ端が、幸せだった頃のパッチワークのように繋がっていく。
 今はいなくても彼は確かそこにいたんだと気づくことが多い。

 駅からケヤキ並木の通りを抜け、区役所に向かう。エントランスの受付で保育課の案内を受け、4階に向かう。
 
 保育課のカウンターに置かれた受付の機械から番号札を取るが、取った瞬間呼び出される。
 今日の保育課は私たち以外に誰もいないようだ。
「どうされましたか?」と、出てきたのは
 タカヒロと同じくらいの年齢に見える男性職員だった。

「うちの主人が亡くなったので、この子を保育園に預けて働きたいと考えています。今、入れる保育園はありますでしょうか?」
「今、年度が切り替わったばかりだから、アキはすぐには出ないでしょうね」
 ガラガラなのは、そういうことかと悟る。あと一年見込みはないのだろうかと不安になる。
「キャンセル待ちも、ポイント制ですのでまずは、必要書類に記入をお願いします」

 事情を話すも保育園難民は私だけではないようで、保育園に空きが出て、かつ自分の順番にならなければ保育園を利用することは出来ないとのことだった。

「旦那がお亡くなりになられたとのこと、ご愁傷様です。保育園に入園希望とのことですが、何点か確認事項がありますので、こちらの書類を一緒にご確認いただけますでしょうか?」
 その後も親類など預けられる人がいない環境なのか? 現在、どこかの会社で正社員で働いているのか?など細かく質問を受けた。
 担当者の説明は区が作ったルールであり、そこに住んでいる限り、そのルールの範囲内で暮らさなければならない。だかしかし、現実は机上で決めたルールに収まりきらないこともある。
「働かなければ食べていかれないのですが、どうすればいいのですか?」
 私の声は自然と大きくなっていた。
「大倉さん、そんなに大きな声を出されても…」
 担当者の男性の声がルールはルールと言っているように聞こえたのは、被害妄想かもしれない。でも、やり場のない焦りと怒りよ感情を抑えられなかった。
「現状をお伝えしているだけですので、皆さん他の方も待っているんです」

 区役所からの帰り道。
「くしゅん」と、一度くしゃみが出たら、そこから涙と鼻水が止まらなくなった。
 花粉のせいか悲しくてなのか、もうわからない。
 お葬式でも出なかった涙が、突然堰を切ったようように溢れ出した。
 
 幸せだと感じていた日々が、自分の立っていた足もとが、こんなに脆いものだったのかと自覚させられた。

 「お母さん、どうしたの? お腹痛いの?」
 ぎゅっと握られた左手のほうを見ると、涙と鼻水でくちゃくちゃな私を少し心配そうな顔で見ているねねの姿がある。
 こんな小さな子に気を遣わせてしまってる自分が情けなくなった。

 私は結婚するまで、両親と一緒に暮らしていて結婚してからは、タカヒロがいたから大きな決断はいつも誰かに委ねていた。

 私の不安を感じ取って幼稚園でも、おもらししてしまったねね。

 これからふたりなんだ。なんでも自分が決断しないといけないんだ。家に帰って何が出来るか考えよう。自宅でやれる仕事もあるかもしれないのだから。

「ねね、お鼻噛むから手を離してくれる?」
 私はねねが握ってくれていた手を離し、カバンからティッシュを急ぎ取り出して鼻を噛んだ。
 すると、何かを見つけたのか、ねねが花壇のほうへ走って行ってしまった。
「ねね、待って」
 その言葉より先に反対側から来た散歩中の女性にぶつかってしまい、ねねは尻もちをついた。

「ねね、大丈夫?」と、体を起こしてやるとねねは
「ごめんなさい」と、お辞儀をして謝ったので、慌てて私も一緒にお辞儀をして謝った。

「あなた、母親なら子どもの手を離したりしないでしっかり見てなさいよ。何かあってからじゃ遅いんだから」
 そう言い捨て女性は、さっさと立ち去っていった。

 あまりの勢いに、私たち親子は立ち尽くして顔を見合わせた。

 空を見上げる振りをして涙を堪える。朝よりは晴れてきた空は、涙色で滲んでいる。
 
「ねね、そこのパン屋さんでお昼ごはん買って、公園で食べようか?」
「クリームといちごのパンがいい。お母さんは?」
「うーん、お母さんはねぇ、カレーパン」
「私、ソーセージのも」
「いいですねぇ、じゃあ買いに行きましょう」
「手を繋いでください」
「はい、さっきは飛び出してごめんなさい」
「はい、何かあったら大変だものね」
 
 私とねねは、希望のパンを選んでトレイをレジまで持っていく。
 私がレジ係の女性と会計を済ませていると、
「メロンパンの頭クッキーだよ」と、白衣姿の店長らしきおじさんに、ビニール袋に何個かクッキーを入れてもらっていた。
「ありがとうございますは?」と、ニコニコ顔のねねに言うと、
「ありがとうございます」と、お辞儀をした。店長らしきおじさんは、
「偉いね、ちゃんと言えたね」と笑っている。

 ケヤキの木陰を手を繋いで歩き、地図で見つけていた公園に向かう。
 方向音痴かつ、地図音痴な私はいつも出羽かけるときは人任せだったため、地図アプリの見方がいまいちよくわからない。
「ねね、こっちかな?」
 地図の中の自分たちの位置を確認するも、スマホをどの向きにすれば地図と同じに方向になるのかわからない。
「自分たちの丸に扇型がついてるけど、この扇は前なのか後ろなのかわかんないな」

 そんなことをブツブツ言いながら、少し歩いてみる。すると自分たちの丸も少し移動した。
「こっちであってるみたいよ」
 ふたりは少しずつ移動する丸とともに公園に向かった。
「お母さん、あった。行っていい?」
 公園の入り口の鉄製のガードをすり抜け、ねねは一目散にブランコへ向かった。
 ねねには大きすぎるように見えるブランコに座り、駆け足で助走をつけ一気に漕ぎはじめる。膝を曲げたり伸ばしたりしながら加速をつけ、軽快にブランコを揺らしている。

「気をつけて」と言うと、笑顔で
「はーい」と返事をかえしてくる。
 ねねは、タカヒロ似でなんでも器用にこなす。ブランコも鉄棒も縄跳びもクラスの誰より上手い。目で見たこと体に落とし込むのが上手いので、無駄な動きが一切ないのだ。

 さっき、ねねがぶつかったおばさんのことが、胸の内からムクムクと湧いて出てくる。

 あの時は、鼻を噛むのに手を離すのは仕方ないじゃないと苛立ちさえ覚えていたけれど、あのおばさんの「何かあってからじゃ遅い」の言葉は真実だ。
 ねねに何かあってからじゃ遅いのだ。私はシングルマザーになった自分が可哀相だと思い込んでいるバカ母親だ。

 怒ってきたおばさんの顔は実家の祖母に似ていた。
 あの家には頼れないだろうから、何とか自分ひとりで子育てをしていく方法を考えなければいけない。

 とりあえず、すぐに働ける所を探そう。とにかく働き先を見つけないと保育園にも預けられないなら探すしかない。

「ねね、お昼にしよう」

カレーパン食べてから考えよう。なんとかならないと決めつけても仕方ないのだ。


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