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稀一の想い①

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「さて、どうしてそう思ったのか俺が納得できるように教えてもらおうか」

(どうしよう。どうしましょう。絶対に怒っているわ)

 詩音はほぼ拉致同然で連れてこられた稀一の部屋で、正座をしながら冷や汗をかいていた。ちなみに稀一はソファーに座って脚を組んでいる。

 なんとなく感じる圧が恐ろしくて、詩音はさらに縮こまった。

 彼が怒っている理由は分かる。話し合いをすっ飛ばして結論だけを話されても理解し難いだろう。
 詩音は精一杯小さくなりながら土下座をした。すると、その姿を見た稀一が溜息をついて、ソファーの空いている場所をポンポンと叩く。

「床に座ってないで、隣に来いよ。話をしよう」
「はい」

 小さく頷いて彼の隣に座ると、彼がぽりぽりとこめかみの辺りを掻いた。

「すまない。萎縮させるつもりじゃないんだ。ただ……詩音がなぜ俺と別れようと思ったのかを知りたいんだ。俺、何か気に触ることをしたか?」
「してません」

 ふるふると首を横に振ると、「じゃあ、なんで?」と絞り出すような声で問いかけてくる。その声も表情も泣きそうだ。そんな彼の顔を見て胸が痛くなった。

(貴方を傷つけるつもりなんてなかったのに)

 詩音はゆっくりと深呼吸をしてから、今日の大辻との話を切り出した。


「今日……大辻先生から、稀一さんには私と婚約する前にお付き合いしていた方がいたと聞きました。日本に帰ってきたことで上手くいかなくなったとも……聞きました。私のせいでごめんなさい」

 詩音の父と稀一の父は昔からとても仲がいい。そのうえ、稀一は医師として父を尊敬し慕っているところもある。そんな父に娘と結婚し跡取りとして日本に戻ってきてくれと言われれば拒否ができなかったのだろう。

 自分のせいで二人の仲を引き裂いてしまった。申し訳なくて申し訳なくて、どうしたらいいか分からなかった。

 詩音は頭を下げたまま、スカートをぐっと掴んだ。何も言ってくれない彼が怖くて顔を上げられない。


 彼は何を今さら……と思っているのかもしれない。詩音と別れられたからといって、元恋人との仲が戻る保証もない。

 当初も――そして今も、彼の気持ちを一切考えていないことに、歯噛みした。

(取り返しのつかないことをしてしまったんだから、せめて私ができる精一杯の誠意を示したい……)


「も、もちろん、私と別れても何も変わることはありません。水篠会病院は稀一さんが継いでくれればと思います。貴方は立派なお医者様だもの。わざわざ大切な人と別れて私を選ぶ必要なんてないです。父には私から言っておくので。そ、それに、私にできることがあったらなんでも言ってください。償いにはならないかもしれないけど、元カノさんとの仲を壊してしまった償いをさせてください」
「へぇ、なんでも?」

 そう言った途端、頭上から聞こえてくる底冷えするような低い声に、体がびくっと揺れた。

(稀一さん、すごく怒ってるわ。どうしよう……)

 どうしたら怒りをおさめてくれるか分からずに詩音がぎゅっと目を瞑っていると、伸びてきた手に顎をすくい上げられる。おそるおそる目を開けると、胸が痛くなるほどに伝わってくる彼の怒りを映した眼差しに一瞬息が止まった。

 すると、詩音の怯えを感じ取ったのか稀一がぎゅっと抱き締めてくれる。

(稀一さん……)

「悪い。怖がらないでくれ。付き合っている人なんていなかったんだ。あんなのただの噂話だ。だが、詩音が俺より大辻から聞いたその噂のほうを信じたんだと思うと苛立ちが抑えられなくて……すまない。でも詩音。君はずっと……俺が水篠会病院が欲しくて、君と婚約したと思っていたのか?」
「え? ち、違うわ! そ、そんなつもりじゃないんです。ただ恋人と別れて、私との政略結婚を強いてしまったことがただただ申し訳なくて……。貴方を自由にしてあげないとって」

 慌てて首を横に振る。すると、稀一が詩音の肩に頭を乗せてすり寄った。


「とりあえず、明日にでも大辻のことは殴っておくよ」
「え? 殴るのはだめです」
「……大辻を庇うのか?」

 そう言って顔を上げた彼は拗ねるような顔をしていた。その表情を見た途端、血の気が引いていく。詩音は慌てて首を横に振った。

(違うの。違うの……)

「大辻先生を庇うつもりなんてなかったんです。ごめんなさい。私……。稀一さんが抱いてくれないからって、変に焦って勘違いをして……。大辻先生もあくまで噂だって言ってたのに……」
「は……?」

 覚悟を決めて、ずっと不満に思っていたことを彼に告げる。すると、稀一は一瞬間の抜けた声を出した。

 そもそも、自分たちは想いを通わせて付き合った恋人同士じゃない。だから仕方がないのかもしれないが、家の都合とかそんなものはすでに詩音の中で関係なくなっている。

 稀一と――稀一だからこそ、触れ合いたいと思うし抱いてほしいとも思うのだ。


「稀一さんはとても優しいけど……。全然触れてくれないじゃないですか。私、下着とかお肌のお手入れとか頑張ってたのに……。その理由を考えた時、今日の大辻先生の話がすとんと腑に落ちたんです」

 どんどん声が尻すぼみになっていく。稀一はまさかそんなことを言われるなんて予想もしていなかったのだろう。目を大きく見開いたまま、硬直している。

「そりゃそうですよね。薬の研究しか取り柄がない私なんかより、イタリア人美女のほうが誰が見てもいいに決まっているもの。でも私は貴方と本物の恋人になりたいんです。お願いします、私に足りないところがあるならもっと努力をしますから、もう少し先に進みませんか?」

 顔が熱い。だが、ここまできたらもう止められない。
 一気に自分の想いをぶつけ、隠れるように彼に背を向けてクッションを抱き締めた。


「詩音……今の本当か?」
「っ!」

 そう問いかけられた瞬間、体がふわっと浮いた。彼は詩音を膝の上に座らせて、逃げられないように力強く抱き締めてきた。


「き、稀一さん?」
「過去に……付き合っていた人がまったくいないとは言わない。だが、日本に帰ってくる時は誰とも付き合ってなんていなかった。恋人がいたら受けていないよ。不安にさせて悪かった。イタリア人美女なんて興味ない」
「……」
「ありがとう、詩音。俺も歩み寄りたい。これからはそんな噂話なんて笑い飛ばせるくらい俺の愛をその体に教え込んでやるよ」

(お、教え込む……!?)

 稀一の熱を帯びた瞳が詩音を捉える。詩音が顔を真っ赤にして硬直すると、彼がふっと笑った。

「詩音のお許しも出たことだし、これからはいっぱい愛し合おうな」
「~~~っ」

 耳元でそう囁かれて、わずかに息が止まった。
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