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第三章 聖獣の主

70.アニェッラの悲しみ・前編

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 アリーチェ様と歓談していると、ベルタが顔を真っ青にして部屋に入ってきた事に気付きました。


 わたくしは、そのベルタの様子がとても気になったので、アリーチェ様に一言伝えてから、ベルタに尋ねる事に致しました。


「ベルタ……、大丈夫ですか? 体調が悪いのなら、下がって休んだ方が……」
「い、いえ……大丈夫です……」


 そう言うベルタは何やら言い出したいけれど、言えないという雰囲気があります。しきりに、アリーチェ様を気にしていますし。


 アリーチェ様の前では言いにくい事なのですね……。



「私は大丈夫ですよ。何か報告があるなら、私の事はお気になさらないで下さい。下がった方が良いなら下がりますし」
「い、いえ! その……王妃陛下にお気遣いを頂くことではないのです」


 ベルタが下がろうと立ち上がったアリーチェ様を慌てて止めました。わたくしは、何やら様子のおかしいベルタの様子に、首を傾げながらも、何かあっただと確信致しました。


 すると、ベルタはぽつぽつと話し始めたのです。アニェッラが最近元気がなく、見えないところに傷がある気がすると……。
 最近、恋人が出来たみたいなので、その男に暴力を振るわれているのではないかと……。


 そして、今日の傷は殊更酷かったと……。
 なので、落ち着いていられないのだと話して下さいました。


 わたくし達は、とても驚きました。


「まさか、そんな……」
「明日、所用でアニェッラが一時帰宅するんです。だから、明日王宮を抜け出してアニェッラのところに行ってみようと思うのです」
「ベルタだけでは危ないです。わたくしも……」
「ダ、ダメです。それはいけません。2人とも落ち着いて!」


 アリーチェ様が慌てて、わたくし達を止めました。わたくしが首を傾げると、アリーチェ様はわたくしの手を握りました。


「良いですか……? よく考えて下さい。王宮に仕える女官は貴族だし、交際している者もきっと貴族ですよ。……王妃が他の女官や騎士を連れて乗り込めば、一体どうなると思いますか?」



 わたくしはアリーチェ様のその言葉に愕然と致しました。迂闊でした……。アニェッラのお家で問題を起こせば、マッティア様にもご迷惑がかかってしまいますし、王妃としての品位も問われます……。
 何よりそんな事をすれば、問題を大きくしてしまい、アニェッラの心や経歴に傷をつける事にもなりかねません。



「とりあえず、入念な下調べと根回しは基本ですよ。まずはアニェッラの体に、本当に傷があるのかを確認しましょう」



 わたくしはアリーチェ様の言葉に頷き、アニェッラを呼ぶ事に致しました。
 部屋に入ってくるアニェッラは、いつもの優しいアニェッラです。ですが、ベルタから聞いたからでしょうか……。心なしか元気がないようにも見えます。



「ベアトリーチェ様、どうかされましたか? 新しいお菓子などをご用意致しましょうか?」
「いえ……、わたくし……」


 アニェッラの問いかけに何と答えて良いか分からず困っていると、アリーチェ様は突然アニェッラに顔を近づけたので、アニェッラだけではなく、わたくしやベルタもとても驚きました。



「あら、ごめんなさいね。良い香りがしたものだから。貴方、趣味が良いのね」
「あ、ありがとうございます!」
「私、エトルリアの珍しいお菓子が食べてみたいわ。持って来て下さる?」
「勿論でございます!」
「ただ、これから大切なお話があるから2時間後が良いわ」


 そしてアニェッラが退室した後、わたくしとベルタが呆然としていると、アリーチェ様がアニェッラから、ポーションの匂いがしたと仰いました。



「匂いですか?」
「ええ、わずかですが……。アレは私が作ったものなので、間違いありません。恐らく、本当に傷があったのでしょう。あまりにも、痛くて辛くて使ってしまったんでしょうね……可哀想に」
「そんなに辛い思いをしていたなんて……」


 わたくしは悲しくなりました。そして、アニェッラを守れない己が不甲斐なくも感じました。



「アリーチェ様、わたくしはどうすれば良いのですか? どうすればアニェッラを守れますか?」
「そうですね……。まずは色々と調べ、アニェッラを傷つけている相手を突き止めましょう。恋人の家門も知りたいですし……。ですが、どこの家も醜聞を嫌うので外からだと調べにくいのです」



 確かにそうです。醜聞を外に漏らす貴族などいません。
 わたくしが俯いていると、アリーチェ様が大丈夫ですよと微笑まれました。


「なので、侍女に扮して調べましょう。どこの家でも侍女はお喋りですから情報収集にはもってこいです」
「で、では、わたくしも……」
「いいえ、ベアトリーチェ様はダメです。ベアトリーチェ様がお持ちの雰囲気は侍女に相応しくないのです。ベアトリーチェ様って、とても儚げで華奢でしょう? 実年齢よりも、とても幼く見えますし……。どこからどう見ても守ってあげないといけないお姫様にしか見えないのですよ」



 守ってあげないといけないお姫様……。
 この言葉がわたくしに重くのしかかりました。わたくしは、強くなりたいのに……まだまだなのですね……。



「それに、国賓を招いている時に、王妃である貴方がいなくなるのは流石に不都合です。今回、信頼のおける女官を2、3人貸して下さいませ。見事に情報収集の技術を仕込んでお返しします」



 アリーチェ様は、そう仰ってベルタや他の女官を伴い、転移の魔法陣でアニェッラのお家に向かわれました。


 そして、驚くほどに迅速に調べて下さいました。1時間程だったと思います。確かに、長時間アリーチェ様がいなくなるのも不都合です。それにしても早いのです……。


 調べて下さった結果、アニェッラに暴力を振るっているのは恋人ではなく、アニェッラの叔父様だという事が分かりました。アニェッラは幼い頃に両親を亡くし、叔父様に面倒を見てもらっていると聞いていましたが、まさかそんな……。



「元々性的虐待を受けていたらしいです。けれど、王宮で働く頃には、その虐待は影を潜めていたみたいですが、恋人が出来たとバレた途端、また始まってしまったみたいですね」
「性的虐待……」


 わたくしは、とても許せませんでした。いつも優しく笑顔の素敵なアニェッラを、そんな辛い目にあわせるだなんて……。


 本当に、この国は女性の尊厳がなさ過ぎます……。


 わたくしは怒りで頭がクラクラしてきました。絶対にアニェッラの叔父様を許せません。許しません。



「今すぐ、アニェッラの叔父様を呼び出さなければ……」
「待って下さい。糾弾する前にアニェッラの希望を聞いた方が良いですよ。アニェッラの本当の気持ちを聞かなければ……」



 その後、アニェッラがお菓子を持って現れたので、私は問い詰めたい心を、グッと抑え微笑みました。



「大変申し訳ありません。珍しいお菓子との事でしたので……。どれがイストリアにないものか分からず、色々料理長に教えて頂いていたので、とても遅くなってしまいました」
「いえ、良いのよ。頂くわ。アニェッラとベルタも一緒に食べましょう。私、貴方たちとも話がしたいの」



 アリーチェ様が、にっこりと席につくように促します。ベルタは直ぐに座りましたが、アニェッラは戸惑っています。


「アニェッラ、良いのですよ。わたくし達とお茶をしましょう」


 わたくしの言葉に、アニェッラはようやく席につきました。すると、アリーチェ様が今回調べて分かった事を話し始めました。
 アニェッラの顔が見る見るうちに真っ青になっていきます。そのアニェッラの手をテーブルの下でベルタがギュッと握りました。



「それに、私がベアトリーチェ様に贈ったポーションを使っているでしょう? 作り出した私を欺く事はできないわよ」
「あ……、も、申し訳ありません! ですが、傷がひどく、どうしても使うと楽になるという誘惑から逃れられなかったのです……」


 罰せられると思ったのでしょう。アニェッラが立ち上がり、頭を下げながら震えています。



「大丈夫よ、アニェッラ。私のポーションは、貴方のように苦しむ者を楽にする為にあるのだから」


 そう微笑んだアリーチェ様に、アニェッラが拍子抜けをしたような顔をしています。
 わたくしも同じように大丈夫ですよというと、アニェッラが泣き出しました。



「私……私、とても……辛いのに……どうすれば良いのか分からないのです……。叔父様から逃れたいのに……彼に迷惑をかけたくないのに……、このままでは……私……。だけれど、私……汚いのです……、彼には隠しているのです……知られたら、きっと嫌われてしまうから……」
「そんな事ありません! アニェッラは汚くなんてありません!」



 わたくしはアニェッラの肩を掴み、声を荒げてしまいました。わたくしだとて、分かります。此処に嫁いできた頃、望まぬ行為をマッティア様に強いられて、とても辛くて……己は汚れてしまったと……生きている価値のないものになってしまったような心持ちでしたもの。


「アニェッラ、前に言ったではないですか……。洗えば大丈夫って……。だから、大丈夫ですよ。アニェッラはどこも汚れてなんていません」
「そうよ、体は傷付けられても心は汚せないの。貴方がしっかりと心を強く持っていれば、誰も貴方を汚す事なんて出来ないわ」


 そのアリーチェ様の言葉にわたくしも頷きました。
 自尊心や自己肯定感、すべてをスダズタに傷つけられ、精神状態がめちゃくちゃになってしまうと、まともな思考も働きません。


 己は汚いなどと、自己を否定してしまえば、どんどん心がおちていってしまいます。絶対にそれだけはいけません。



「ベアトリーチェ様、後宮内を掌握し牛耳るのは王妃の仕事ですよ。その貴方の領分を勝手に踏み荒らされて宜しいのですか? 貴方の女官を好きに扱い、傷付けられて黙っているのですか? そこで働く者を守るのも、また王妃の務めですよ」



 アリーチェ様の言葉に、わたくしは強く頷きました。絶対に、後悔させてやらなければ気がすみません。

 アニェッラの苦しみを、味わって頂かないと……。
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