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第二部 落日

第四七話 気配

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 東雨は、数知れぬ宝順帝の落胤の一人である。
 だが、その血筋は本人すら忘却したいものであり、また、それを知る者たちもその心中を察して口にはしない事実だ。
 表向き、東雨は孤児であり、幼少の頃より犀星の身辺の世話をする従僕として扱われてきた。姓もなく、字(あざな)も許されず、幼名のままに過ごして、今年、十七歳を迎えた。
 世の流れで見れば、すでに大人として扱われる年齢である。結婚して家を持つことも珍しくない。
 しかし、彼にはそのような通例は当てはまらない。彼自身の意志で、その人生を決めることは許されない。
 犀星が寛容であるため、従僕というよりも、まるで家族のように、大切に扱われてはいるが、東雨の命を握っているのは依然として宝順である。いつ、帝から呼び出され、何を命じられるか、それは常に東雨の胸に不安の影を落とし続けている。
 そんな、自分の将来への暗雲を振り払うように、彼は元気を搾り出し、努めて明るく振る舞う。
 犀星をはじめ、東雨の事情を知る者たちは、痛々しいまでのその笑顔に、自然と惹きつけられていく。
 東雨のこのような求心力に最初に目をつけたのは、涼景だった。
 どこか、犀星と似ている。
 涼景は、自覚なく周囲の人々の心を掴んでいく東雨の天性の才が、いずれは大きな時代の潮流へと繋がっていくことを察していた。
 そのような涼景の腹など知るよしもなく、東雨はひたすら、たった一つの希望に託すかのように、剣術の稽古に励んでいた。
『俺、若様だけの近衛になりたいんです!』
 溌剌とした瞳を輝かせ、東雨は犀星を真っ直ぐに見て、そう宣言した。
 宝順の指示で犀星の元に身を寄せていた東雨だったが、今は自分の正直な気持ち故に、この偏屈な親王を心から慕っている。
 口数少なく、何を考えているのか読み取ることが難しく、愛想笑いもせず、人付き合いを嫌って孤独を好む犀星。だが、すでに、東雨にはそんな犀星の裏の素顔が手に取るようにわかる。
『若様は、単純に、恥ずかしがり屋なんですよ』
 物事はそう簡単ではないのだが、東雨にとっては、そのように考えておくと、犀星の言動に合点がいくようであった。事実、玲陽と一緒にいる時の犀星は表情も豊かになるし、口数も増える。冗談も言えば悪ふざけもする。まるで別人のように変貌する犀星に、最初は呆気に取られていた東雨も、今ではすっかり馴染んでしまった。
 そうして、犀星の素直な仕草が見えるようになると、東雨の『若様熱』はより一層酷くなった。犀星のため、となれば、彼はどんな苦労をも厭わない。その熱情の行き着いた先が、『犀星専属の近衛』だった。
 とはいえ、こればかりは東雨の想いでどうにかできるものではない。
 やはり、宝順の一声で、容易に潰されてしまう期待である。
 それでも、心から犀星を慕う東雨の行動を止められる者はおらず、せめて自由になる間だけは好きにさせてやろう、という周囲の配慮もあって、東雨は涼景の手筈で、正式ではないものの、近衛兵たちの訓練に参加を許された。
 近衛や暁隊の訓練場は、宮中の東側に集まっている。
 涼景ら幹部の作戦室や執務室のある主殿を中心に、訓練場と兵舎、矢場に厩舎、救護を目的とした伊織庵など、その一角からは常に兵士たちの声や馬のいななきなど、活気あふれる空気が漂ってくる。
 涼景は、自分が管轄する近衛と暁隊の兵士を、同様に訓練していた。それぞれに身につけるべき戦法に差はあるものの、実践となれば、どこで誰がどのような相手と合間見えるかわからない。そのため、普段からあらゆる状況に対処できるよう、均等な訓練を命じている。
「これまで!」
 師範の声に、東雨は思わず安堵のため息をついて、その場に座り込んだ。
 訓練用の剣は、刃はないものの、その重量は実物に等しい。もともと体格の良くない東雨は、いくら訓練を積んでも、容易に扱うことはできなかった。
 これより重たい太刀を、玲凛は軽々と振り回しているのを思い出して、東雨は憂鬱になる。
 犀星に習って、それなりに剣術は学んできたのだが、それ以外の仕事も山積していたため、集中して訓練を続けていたわけではない。彼はあくまでも従者であり、護衛ではなかった。武術よりも、犀星の身の回りのことを世話するのが、彼の役割だった。
 当然、それはこれからも続けるつもりではあるが、玲陽もいる今、自分の仕事は格段に減っている。ならば、少しでも腕を上げておいて損はない。
 自分で決めたこととはいえ、自分自身の体力のなさに、東雨はいつも嘆かわしい気持ちに苛まれる。
 埃っぽい土の訓練場に座り込んだまま、東雨は肩で大きく息を繰り返した。
 年上の近衛や兵士たちが、そんな東雨のそばを、笑顔で声をかけながら過ぎていく。年若く、誰に対しても明るい東雨は、皆に一目置かれて可愛がられている。東雨の方も、息を乱しながら、それに答えて手を振った。
「東雨!」
 嬉しそうに、利巧が駆け寄ってくると、東雨は晴れやかに顔を上げた。
「巧、さすがに、疲れた」
「お前は、手加減しないからだ。そこそこで手を抜けばいいのに」
「俺はそんなに器用じゃないから」
 東雨は笑って首を振った。
「それに、全力でやったって、みんなについていくのが精一杯だし」
「ここの訓練は、将軍ご自身が監修しているから、きついのは当たり前」
「だから、余計に負けられないんだ」
 東雨はニヤリとして、
「涼景が決めたものくらい、俺がこなせなくてどうする? こんなところでへたばっていたら、悔しいだろ」
「お前、将軍に対抗心燃やしてどうするんだよ」
 あきれた利巧の顔も、口調とは裏腹に楽しそうだ。
「とにかく、俺は負けたくないの。若様に恥をかかせるような真似、できるか」
「まぁた、若様、か?」
 利巧は東雨の隣に腰を下ろして、息を整えながら、
「お前は、いつも歌仙様のことばかりだなぁ」
「当たり前だろ。俺にとっては、若様が全てなんだから」
 あっけらかん、と言い放つ東雨を、利巧はどこか寂しそうに横目で盗み見た。
 利巧の初めての友人は、事あるごとに、歌仙親王の事を口にする。一途なその思いは、利巧には理解しがたい。彼もまた、涼景に忠誠を誓ってはいるが、東雨の心構えとは種類を異にするように思う。東雨のそれは、まさに激しい恋慕に近い。
「それに、俺、あいつに負けたくないし」
 東雨は腕で汗を拭って、
「俺がここで訓練を受けている間に、あいつだって一人で研鑽を積んでる。これ以上、差をつけられたくない」
「あいつって、凛、だっけ?」
 利巧が、暁隊の中で恐れられている少女の名を口にした。
「喧嘩っ早くて近づきたくない、って、暁の連中が言ってたな」
「そう」
 東雨は心地よい疲労を通り越して、眠気を催してきたらしく、仰向けに寝転んで目をこすりながら、
「よくわからないんだけど、とにかく、強くて勝てない。互角ですらない」
「どこの流派なんだ?」
「流派ってものはないと思う。若様の養父上に仕込まれたらしいんだけど」
「歌仙様の? それって、犀家の……」
「うん。犀侶香様」
「犀将軍、か」
 利巧は腕を組んだ。
「それは強くなるだろうなぁ」
「巧、侶香様を知っているのか?」
「噂だけだよ」
 利巧は遠くで隊列の訓練をしている暁隊を眺めながら答えた。指示しているのは蓮章のようだ。
「犀将軍が都にいたのは、三十年近く前だから…… 当時を知っている人も少ないし、それに、先帝の命令で記録も全部処分されてしまったというし」
「それでも、噂は残っているんだろ?」
「まぁ…… すごい人だった、ってことだけはな」
「たぶんね」
 東雨も紅い甲冑が動くのをぼんやり見た。暁隊は野戦を中心にするため、近衛よりも体力を必要とされている。とても、東雨には務まりそうもない。
「侶香様ってさ、たぶん、本当にすごい人だったんだと思う。武人としての強さ、とか、将軍としての采配、とか、そんなことじゃなくてさ。人間の器っていうのかな。そういうの、あったんだと思う」
「東雨、お前、会ったことが?」
「うん。ほんの少しの間だったけれど。俺にも、本当によくしてくれたし、好きだったなぁ」
「ふぅん」
 利巧は小さく鼻を鳴らした。
「若様だって、陽様だって、侶香様から武術を教わっていたんだ。だからかな? お二人とも、太刀筋が凛に似ている。基礎がしっかりしているから、陽様もすぐに勘を取り戻したし」
「なぁ、東雨。歌仙様って、お強いのか?」
 唐突な利巧の問いかけに、思わず東雨は笑った。
「強いよ。涼景とだって、真剣で稽古するし、勝敗だって五分だし」
「将軍に及ぶっていうのか?」
「まぁ、実戦なら間違い無く涼景の方が強いと思うけれど、稽古の立会いなら拮抗していると思うよ」
「そんなに? 私は歌仙様が剣を抜いたところを見たことがないから……」
「当たり前だろ? 若様に剣を抜かせないために、近衛がいるんだから」
「それはそうだが」
「若様ご自身がお強いからさ、俺、本当に気まずいわけ」
 東雨は肩をすくめて、
「若様より強くならないと、役に立てないだろ」
「その必要はない」
 利巧が、あっさりと否定した。
「別に、お前が歌仙様より強くなる必要はない。歌仙様の敵となる相手より、強ければそれでいい」
 驚いたように、東雨は利巧を振り返った。その眼差しに、利巧は思わず目をそらした。
「今のは、将軍の受け売り。私が、将軍にはかなわない、って嘆いた時、そう、言われた」
「ふぅん」
 今度は、東雨が唸った。
「涼景が言うのは最もだけど…… 俺は、やっぱり強くなりたい。若様より、陽様より、凛より」
「俺よりもか?」
 突然、降って湧いた声に驚いて、東雨と利巧は振り返った。
 面白そうに二人を見下ろして立っていたのは、この一角の主人たる涼景である。
「本当にお前、気配が無いのな!」
 東雨が寝転んだまま、不満そうに口を尖らせた。反して利巧は慌てて立ち上がり、礼儀正しく頭を下げる。
 涼景は、真逆の二人を笑って眺めた。
「東雨、目標を高く持つのはいいが、無理をするなよ」
「なんだよ? 俺には無理だって言いたそうだな?」
「そうは言っていない。ただ、人には向き不向きがある、ってことだ」
「ほら! それ、俺じゃ強くなれない、って言ってるじゃないか!」
 喧嘩腰になって東雨は身構えた。
「今に見てろよ、涼景。絶対に鼻を明かしてやるからな!」
「東雨……」
 利巧が遠慮のない東雨の物言いに、顔を歪める。
 このようなやり取りで涼景が怒らないことは、散々見てきて知ってはいるが、それでも利巧は萎縮してしまう。利巧にとっては、涼景は威厳ある将軍であり、敬意を払うべき相手だ。だというのに、彼の友人は、まるで無遠慮で口の利き方は最悪である。だが、涼景はむしろ、そんな東雨の態度が気に入っているらしく、人前であろうとも咎めることはなかった。東雨がいざとなれば、いくらでも敬語を並べ立て、言葉で着飾ることができることを、彼はよく知っている。その力があるからこそ、十年の間、周囲を騙し続けてきたのだ。せっかく自由になれたのだから、そのような態度を強要するつもりはなかった。
「そんなことより」
 涼景は少し声を低めた。
「東雨、凛のことなんだが」
「え?」
 明らかに不機嫌に、東雨は涼景を睨んだ。自分たちが最悪に仲が悪いことを、涼景もよく知っているはずだ。
「凛は、蓮のこと、何か言っていたか?」
「……何の話?」
「いや…… 先日、蓮が成り行きで、凛と一戦交えたらしい」
「ハァ?」
 東雨はうんざりしたように首を振った。
「何で、蓮章様がそんな馬鹿な真似……」
「まぁ、挑発に乗ったあいつが悪いんだが」
「凛は相手を怒らせるのがうまいから」
「そうらしいな」
「それで?」
「いや、それだけだ。凛は、蓮章とのこと、何も言っていないのか?」
「俺は聞いていないけれど?」
 ぶっきらぼうに東雨は言った。
「あいつとはできるだけ顔を合わせないようにしてるから、よく分からない。もしかしたら、若様や陽様には話しているかもしれない」
「そうか」
 東雨は起き上がると、体についた土を払いながら、
「どうしてそんなこと、聞くんだ?」
「ちょっと、気になったんでな」
「何が?」
「いや、何でもない」
 このやりとりの中で一番、東雨は不満そうに涼景を睨んだ。
「そういう気になる言い方、やめてくれない?」
 涼景は黙ると、暁隊の方へ視線を流した。
 東雨は不満をぶつけはしたものの、それ以上、返答は求めずに立ち上がった。
「じゃ、俺、帰る」
「近いうちに屋敷に行くと、星に伝えてくれ」
「わかった」
 東雨は困り果てたように二人を見守っていた利巧に、にこりと笑顔を見せると、そのまま振り返りもせずに訓練場を出て行く。当然のごとく、涼景には挨拶もない。
「あの、将軍……」
 利巧は、遠慮がちに涼景に話しかけた。
「東雨のこと、追い出したりしませんよね?」
「追い出す?」
 意外そうに、涼景は利巧を振り返った。
「どうしてだ?」
「あの態度、ですから……」
「ああ」
 涼景は気にもしていない、と、笑った。
「追い出すどころか、むしろ、逆だな」
「逆、ですか?」
「ああ。あいつは手放したくない」
 どきり、と利巧の胸が鳴る。その高鳴りが、何を意味していたのか、利巧自身、この時はまだ気づいてはいなかった。
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