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第一部 星誕
第二八話 人なればこそ
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新月の夜の惨劇に関わった者たちには、その後も過酷な時間が残されていた。
どうにか都の邸宅に戻った犀星と玲陽は、一つの褥で深い眠りに落ちていた。
もう、互いに分け合うだけの力も、残されていない。かといって、触れ合っていなければ命を保てないほど、弱りきっている。互いの力を共有し、細く今にも切れそうな糸で、彼らの魂は体に繋がれていた。
蓮章が泊まり込んで、粥や重湯、薬の用意をし、体を清めて甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。
一度、犀星が涼景の様子を尋ねたとき、知らぬ方が良い、と、無表情で答えたきり、蓮章は何も言わない。
東雨の安否も定まらず、未だ、生死の境にいるという。
蓮章は催眠剤を多く用い、とにかく二人を眠らせ続けた。薬がきつく、玲陽は全く目を覚まさない。それでも、口移しに犀星は重湯を与えた。間違えば、一息に魂を吸われて命を落とす。それでもいい。この人を必ず守り抜く。
意識が戻れば、辛い現実と向き合うことになる。今は状況が落ち着くまで、何も知らないままでいて欲しい……
かつて、東雨が拷問を受けた天輝殿の部屋の冷たい石の床に、今は、涼景が倒れ込んでいた。
体内の傀儡は完全に消えてはいない。体力が回復してから、改めて玲陽に頼むつもりでいたが、その暇も無く、翌朝すぐに宝順に呼び出された。心の中に重たい塊が居座り、時折、自分のものではない苦悶の記憶が蘇る。自力では立ち歩くこともできず、嘔吐を繰り返したが、胃の中には、もう、何も残ってはいない。水を飲んでも吐き戻し、咳き込む力もほとんどなく、窒息しそうになりながら、孤立無援で、彼は身体を差し出すしか無かった。
涼景の様子が普段と違い、完全に憑き物が落ちていない状態であること、声を発することもできぬほどに弱っていることを、宝順はむしろ気に入ったらしい。
乱れた着物が手足に絡みつき、自由を束縛する。それがなくても、今、涼景を取り囲んでいるのは、五名の蛾蓮衆の男たちである。万全な状態の涼景ならばいざ知らず、自由も効かず、言葉もままならないほど痛めつけられた上、傀儡の支配に抵抗し続けている現状では、人形も同じだった。逆らうことも、逃げることもできない。
「お前の中にいる傀儡とやらが、朕が召喚した蛾蓮の者たちを殺したのは、紛れもない事実」
宝順は、玉座に深く腰を下ろし、理解しているかもわからない、うつろな目の涼景に告げた。
「朕の可愛い涼景よ。お前に罪はない。お前はただ、操られただけだ。だが、お前の中の傀儡に教えねばならぬ。自分達が死者であり、朕に逆らうことがどういう結末につながるのかを」
そうは言ったところで、責め苦を受けるのは涼景の身体であり、心である。
「涼景。朕がお前を救ってやる」
宝順は今までにないこの状況に、すでに興奮状態にあり、肥大した下半身が着物の上からもわかるほどだ。
「存分に廻せ」
自分では動けない涼景の身体を持ち上げて、蛾蓮衆の男たちは言われた通り、性的虐待を始める。
一人が涼景の口に押し込むと、両脇の二人がそれぞれのものを涼景に握らせる。同時に、もう一人が涼景自身を舌で弄び、最後の一人が前戯もなく、肉輪を押し広げて雁首を差し入れた。
喉を塞がれ、敏感な箇所をなぶられ、痛みと快楽を教え込まれた奥を突かれ、両手には、剣の代わりに、名も知らぬ男の逸物を握らされ……
声も上げられず、ただ、濡れた音が全身から聞こえてくる。
不規則に、誰かが達して迸ったものが徐々に、涼景の体を汚していく。
咥えているものは飲み込みきれず、気管を塞いでむせ返った。
「ひっ!」
喉が引き攣る音と同時に、喉奥まで突かれる。
呼吸が止まれば簡単に死ねるなど、嘘だ。
涼景はそんなことを思った。
身体は生きようと足掻いた。僅かな隙間から、空気を求めて呼吸し、後孔に押し込まれたものを押し出そうと力をこめる。それがかえって野太い男根を締め上げて、男が達するのを誘う。
無理に握らされた手は、自分で動かすこともできず、男たちがさらにその上から自らの手で自慰に耽り、熱い体液が容赦なく涼景の顔や髪を染めていく。飛び散った滴が片目に入って、嫌悪感から涼景は顔を揺すった。同時に、その刺激で喉奥に射精され、余計に苦しむ結果を産む。
涼景の陰部を舌と手で弄んでいた者は、血管の浮き出た竿の根本を強く握り、達するのを止めた。それでいて、なおも陰嚢を揉みしだき、先端から垂れる液を塗りつけていく。てらてらと、自分の先走りで光るそれを、涼景は体勢を変えさせられ、見せつけられる。
暴力と快感との区別など、涼景にはない。
彼が宝順に教え込まれた感覚は、言葉では表せないものだった。痛みでも、快楽でもなく、忌むべきものであると同時に渇望してやまない。体のどこを触られても、頭が痺れるように視界が真っ白になる。いや、自分で自分の身体を見ることさえ、ためらわれる。こうして、見ず知らずの者たちに肌を蹂躙され、視界に晒されるだけで、意志とは無関係に、涼景の陰茎は膨張し、脈動が内側から突き上げてくる。
自分の肉体さえ、自分の意志に反して彼をいたぶり、恥辱を超えて高まりをもたらす。
感情までが、飢えて崩れていく自分を求め、もっと辱めて欲しいと叫びを上げる。
ただ、なぜか、どうしても理性だけが冷静に彼を縛り付けていた。
完全に狂えない。
狂ってしまえば楽だろうに、それができない。客観的に、肉欲に溺れてむさぼる自分を見ている、もう一人の自分がいる。それが、涼景を何よりも苦しめる。
いつから、自分はこんな体になった? それはゆっくりと、何年もかけて、宝順が彼に施した呪いのようなものだ。逃れることを許されず、解き方もわからない。体も心も、宝順に作り替えられてしまった今の自分は、一体誰なんだ。助けを求めようにも、快楽に追いすがる自分は、それすら本気で考えようとしない。己さえ、己のものではない。
狂いたい。この冷えて、客観的に状況を見ている自分が、憎い。
もう、何がどうなっているのか、彼自身、理解が追いつかない。
男たちは立ち位置を変えながら、順に、涼景の体で次々と絶頂を迎える。その間、涼景自身は達することを許されず、まるでその代わりのように両眼から涙が溢れ、止まらなかった。白い精液を、澄んだ涙が洗い流し、顎の先から糸を引いて垂れ落ちる。
そんな責め苦が果てしなく続く。時折、蛾蓮衆の面子が入れ替わり、また違う男が涼景を犯し続けた。宝順は、涼景に休む時間を与えるつもりはない。宝順に運ばれてきた食事の匂い。酒の匂い。だが、それを数えることも意味がない。
終わりの見えない責め苦だけが、涼景に与えられた全てだった。
眠ることも、気を失うことも許されない、救いという名目の破壊。
窓のないこの部屋では、昼夜はおろか、いく日が過ぎたのかさえ、わからない。
自分の中の傀儡が、その力を弱める気配もない。確実に体力を奪われ、涼景の反応が鈍くなっていく。
このまま死ねたら、どれだけ楽だろう。だが、そんなことになれば、残された部下も、犀星たちも、どんな目に合うか…… その一点で、彼は理性を手放せない。自分で自分を苦しめる。死ぬことさえ、許されない。
蛾蓮衆の一人が、彼の口の中に、甘味を帯びた液体を流し込んだ。
鼻につく、くらくらと視界が回るような、明らかな媚薬だ。
そのようなものを注がれても、すでに身体的に限界を迎えている涼景の性欲を煽ることなど、期待できないというのに……
それでも、弱った体に、強烈な刺激が走り、発狂するような痺れと震えが、涼景を追い詰めていく。
殺してくれ……
彼は心から、そう思った。
もう、壊れる。壊してくれ! 何もかも、めちゃくちゃだ。限界……だ……
入れ替わり立ち替わり、屈強な男たちの餌食にされ、気丈な彼の心は傀儡の重みに悲鳴をあげ、外からも、中からも、体も魂もボロボロに崩れていく。
開かれたままの口の端から白濁した涎がこぼれ、意識のない目が見るとはなしに宙を彷徨う涼景に、宝順は満足そうに自分の着物をたくし上げた。
屹立する、脈打つそれは、太い血管の一本一本が蠢き、すでに幾度も達しているのか、白い液が先端から根本へと垂れている。
「涼景の中に巣食うものを、追い出してくれよう」
宝順は立ち上がると、四つん這いにした涼景の後ろの男と代わった。
もう、十分に使い込まれて、含みきれない液が、肉筒が伸縮するのに合わせて吐き出される。
一笑すると、宝順は涼景の最奥へ一気に突き刺した。
それを合図に、蛾蓮衆たちが涼景から離れる。
自分達の役目は、前戯のみ。
ここからは、帝の食事だ。
涼景の腰を抱え、大きく抜差しを繰り返す。体を支える力もないため、涼景の上半身が、幾人もの精液と自分の涙で滑った石の床に、宝順の動きに合わせて前後に擦り付けられる。
「いやっぁ!!」
自由になった口から、涼景の声か、傀儡の声か、艶めいた悲鳴が響く。
「朕の涼景から出ていけ」
激しい抜差しが繰り返され、涼景の身体は軽々と振り回される。肉襞を擦り上げる宝順の、人とは思われぬ質量を持った男根が、今までの蛾蓮衆の行為など、一瞬で吹き飛ばした。背中から頭蓋まで響く快感が、涼景を発狂へと向かわせる。
違う! 快感などではない! これは、単なる体の反応だ。俺は……
どれほど自分を否定しようとしても、涼景の体を、宝順は知り尽くしている。
人より深いところにある前立腺を激しく刺激すれば、瞬く間に涼景は絶頂に達して、陰茎がまるでのたうつ蛇のように、射精の勢いで左右に精液を撒き散らす。
「好きだろう?」
宝順は激しい攻めとは反対に、冷徹な声で言った。
「お前は肉欲からは逃れられない。どんなに綺麗事を並べたところで、ただの淫乱な玩具よ」
ゼイゼイと喘ぐ喉の音も、痙攣する手足も、弓なりになる体も、何もかも、宝順の意のままだ。
「朕を飲み込んで、こんなにも喜んでいる。お前の中はうねって絡みつくな。あれだけ咥え込んでおきながら、きつく締め上げてくる。やはり、お前は一番具合がいい。これは、傀儡といえども、離れ難いわけだ」
傀儡…… それは、魂に巣食う。肉体の構造など、関係があるはずもない。
宝順は、どこまで知っている?
こいつは、真実をどこまで……まさか、全て……だとしたら、最初から、こうすることが狙いで……
「あああっうう!」
恥知らずだ!
理性が叫ぶ。
だが、体は、感情は止まらない。自ら下半身を揺すって、涼景は求めた。
自分でもこうなると、逆らえない。
宝順の言う通りなのかもしれない。
自分は肉欲に溺れた穢れきった愚者なのか。
限り無い寂寥と誰にとも知れない謝罪が、涼景の理性に満ち満ちていく。
だというのに、それに反して少しでも宝順を感じようと、体は更に締まっていく。ようやく手に入れた宝順を離すまいと、奥へと誘う。
「どうした? そんなに欲しいか?」
何日も眠っていない気がする。
遠くに宝順の声がかすかに聞こえる。それ以上に、肉筒に押し込まれた彼の形が大きく挿入を繰り返すたびに、あられもない声が止まらない。
「陛下……っ! ああっ! いいっ! はぁっ!」
「哭け! 教えたようにせがんでみろ」
「あう…っ! もっと……わたくしを……貫いて……はぁっんんんあっ!」
ここまでの責め苦に、自分が再び絶頂を迎えて、だらだらと長い射精の刺激に朦朧と落ちていくのを、涼景自身はやはり客観的に見つめていた。
こうなってしまえば、もう、諦めるより他にない。
表情一つ変えず、何度も絶頂を迎える宝順の体液を、体の奥で受け止める。尽きることない、その熱と量は、最終的に自分を死の直前に追い詰めるまで終わらない。
傀儡を追い出す、など、詭弁もいいところだ。
普段より弱りきった涼景を、宝順は執拗に責めた。知っているのだ。体や感情の裏側で、涼景の理性がもがき苦しんでいることを。それこそ、宝順が見たい、涼景の姿だ。そのために、今まで時をかけ、じっくりと少しずつ飼い慣らし、自分好みに育て上げた。
悪夢は、三日月の晩まで、続いたという。
長く、深い、夢を見ていた。
前にも、こんなことがあった気がする。
そうだ。
あれは、自分が玲陽を殺そうとした時だ。
あの夜、玲陽は自分を守り、そして、許し、受け入れてくれた。
そんなことが、本当にあっただろうか。あれは夢か?
自分が生きてきた時間全てが、走馬灯のように繰り返され、彼は大きな波に揺られている心地がした。
「……う! とう……う!」
目を開けようとした。
だが、忘れてしまった。
瞼の開き方も、声の出し方も、忘れてしまった。
「東雨!」
……とう……う……
「だ……れ……」
息だけで、東雨は訊ねた。聞き覚えのない声だ。
「私は、利巧。仙水様の部下だ」
利巧……知らぬ名だ。だが、仙水……仙水……涼景?
「よかった、一命は取り留めたようだな」
利巧とやらの声が、何を言っているのかよくわからない。
「答えなくていい。黙っていろ。それから、安心しろ。もう、誰もお前を傷つけない」
「…………」
「酷い怪我を負っている。胸の傷は問題ないだろうが、下半身はそうはいかない。酷く痛むだろうが、我慢してくれ」
痛む?
「可哀想だが、拘束させてもらっている。動かれると、傷が開く」
東雨はやはり、ぼんやりとしたまま、その声を聞いていた。
痛みなど、何も感じない。
胸の傷? いつ、ついた?
下半身? 大怪我? どこも痛くないのに……
うつらうつらしながら、東雨はまた、眠りの中へ沈んでいく。
利巧?
何を言っているんだ? 俺は、どこも痛くなどない……
「痛いっ!」
激痛で、叫び声を上げた東雨の口の中に、利巧は手拭いを丸めて詰め込んだ。
「そいつを噛んでろ! 舌を噛み切るよりマシだ」
「死ぬっ!」
滂沱の涙を流して、東雨は利巧の手当に耐えた。
その痛みは、想像を絶した。
頭の芯が痺れて、何も感じなくなるかと思えば、次の瞬間には全身が飛び跳ねるように貫かれた。
手足が寝台に紐で括り付けられ、胴体さえ、身動きが取れないよう、帯で固定されている。
泣こうが喚こうが、動かせる体ではなかった。
「若様ぁ!! 陽様ぁ!!」
泣き叫ぶ東雨の苦しみを、利巧も味わったことがある。
自分の場合は、宦官となるべく、覚悟の上の手順を踏んだが、それでも変わっていく体に絶望を感じた。
ましてや、東雨は十五に成長しており、体は大人と変わらない。しかも、唐突な刀傷だ。せめてもの救いは、宝順が躊躇わずに一気に切れ味の良い刀でさばいてくれたことか……
多数の血管が切り裂かれ、剥き出しにされた体内からのおびただしい出血は、死に直結していた。それが救われたのは、最後まで、東雨が離さなかった、犀星の刀だ。
後に聞かされた話によれば、犀星はあの前夜、刀を自らの血に浸し、手にする者を守れるよう、願をかけていたという。玲陽を守るため、という形で渡した刀は、実は東雨自身を守るためのものであった。
「大丈夫だ! ちゃんと処置している……」
利巧は、東雨の傷口を覆っていた紙を、冷やした水を染み込ませた新しいものに張り替え、尿道を確保するための針を差し込む。
「うぐっ!」
予想外の痛みに、東雨は飛び出るほどに目を見開いた。
冬場の時期で、細菌感染の恐れは低いが、ここで失敗すると、確実な死が待っている。切断された尿道が傷と一緒に塞がってしまえば、排尿できなくなり、尿毒で死に至る。尿道を確保しつつ、感染から身を守り、傷口を癒す。
本来であれば、十二歳程度までの子供を対象に、本人の了解を得た上で行う宦官手術である。
それを、体が出来上がった東雨に対して宝順が行ったのは、自分の血を引く子供を残さぬよう、単純に去勢の意味だったのだろう。あっさりと殺せば早いものを、わざとそうしないところが、宝順のより残虐を好むゆえか……
ただでさえ、半数を超える死亡率の手術だ。切り落とされた陰茎と睾丸は、涼景の指示で保管してあるが、それを覚悟なく傷つけられた東雨に返すのは、酷と言えた。本人が望むまでは、黙秘するよう言いつかっている。
宦官の地位は奴隷に等しい。
西方では、逆にその体の特徴を利用して権力を手に入れる者も現れている様だが、この国ではまだ、そこまでの実績はない。
利巧は小さく砕いた飴を、手拭いの間から、東雨の口に含ませた。
「まだ、水は飲めないんだ。もう一日だけ、我慢してれ。念のために、針は太く深くしてある。その分痛いと思うが、生きるためだ」
起き上がることもできない状態で、東雨は、自分の前陰に何が起きているのか、徐々に理解してきていた。
だが、認めたくない。
この身体は、何も持たない東雨にとって、たった一つの持ち物だった。
生き方さえ、狂わされるように傷つけられ、何が残るというのか。
舌先で飴を転がしながら、東雨は静かに涙を流し続けた。
会いたい。
犀星に、玲陽に、そして、涼景……
彼らは、今の自分に何を言ってくれるだろう。
皆、自分を宝順から自由にするため、最善を尽くしてくれた。
利巧から、彼らのその後は聞かされた。
涼景は今も、かつての自分のように、残忍な性虐に身を縛られているという。
犀星と玲陽も、精魂尽き果てて、薬で無理やりに眠らされているという。
なりゆきの中で、若い近衛も一人、命を落とした。自分には無関係だった人間まで、巻き込んでしまった。
自分のせいだ。
自分さえいなければ、誰も、傷つかなかった。
涙が止まらない。
利巧はそっと枕辺に座った。
東雨と面識があったわけではない。ただ、東雨が抱えている事情は涼景から聞いていた。
涼景の部下の中でも、最も若く、また、宦官である彼に、涼景が東雨を任せたのは、その気持ちを察してやれると思ったからだ。
「私は、十七。八歳の時に宦官になった。本当は怖かったけれど、そうすれば、働き口がたくさんあるから、と言われた。うちは、貧乏な小作農家で、家族も多かった。弟たちのためにも、私が都に出るしかないと、そう思った」
突然、利巧が自分のことを話し出す。東雨は、唯一自由になる首を傾けて、その横顔を見た。痛みは続いているが、話に集中することで、気がまぎれるように思われた。
落ち着いた雰囲気のある利巧は、もっと年上だと思っていた。しかも、涼景の子飼いの近衛である。それなりの家の出だろうと考えていたのだが、その素性は予想外だった。
「確かに、働き口はたくさんあった。でも、どこに行っても、扱いは小姓や奴隷。最後に勤めた家は大家で、姫様の世話をさせてもらえた。姫様はお優しかった。でも、それが良くなくて…… 同じ家の使用人に嫌われた」
じっと話を聞いていた東雨の涙が、いつしか乾いている。
「種無しの能無しの家畜以下。そう言われて、姫様の目が届かないところでは……」
と、思い出した様に膝の上で拳を握る。
「運がいいのか悪いのか……姫様に片恋されて、それを断って……旦那様は、俺が手を出そうとしたって誤解して、殺されかけた」
東雨は傷の痛みも忘れて、話に聞き入っている。
「拷問されて怪我をして、それでも必死に屋敷から逃げ出して…… その時、仙水様に救われた。俺の身の上なんて、何も知らないのに、あの人は、追っ手から俺を庇って助けてくれた」
「…………」
「どうして助けてくれたのか? って訊いたら……」
利巧は寂しそうに笑って、
「人ならば、当然のことをしたまで、と」
東雨が嬉しそうに目を細める。利巧がそれに気づいて、東雨の口から手拭いを抜き取った。もう、痛みも落ち着いたようだ。
「涼景様らしいや」
乾いた唇で、東雨は呟いた。
「いいなぁ」
利巧がまるで鏡の様に、東雨と同じように目を細くする。
「涼景様……って呼ぶのか? 仙水様じゃなくて?」
「前は、涼景、だった」
「え?」
「敵対してたから」
「……そういうことか」
「呼びたいように呼べばいいのに」
「恐れ多くて……」
「あいつ、そんなこと、気にしないよ」
ころん、と小さくなった飴を口の中で転がして、東雨は眼を閉じた。
何日も水を絶っているため、喉がからからで唾液も出ない。舌も乾いてもつれ、うまく話せない。
もどかしかったが、この一つ年上の少年となら、もっと話してみたいと思った。
彼なら、わかってくれるかもしれない。自分が、どうして今、こんなことになっているのか。
全て、自業自得。自らの兄弟を殺めてまで上り詰めようとした末路。
「嫌じゃなければ……」
利巧がそっと、東雨に顔を近づける。何をしようとしているのか察して、東雨は目を閉じた。
二人は静かに唇を重ね、東雨から利巧へと飴玉がうつる。舌を絡めれば、乾いた東雨の口内が、少しずつ利巧の唾液で濡れてゆく。
水を飲むことは許されない治療だが、その辛さを少しでも和らげようという利巧の思い。
東雨はただ、仮そめであっても、誰かに求められ、愛されたいという思い。
少年たちは夢中になってその感触に耽り、いつしか小さくなった飴玉はどちらの中へともなく、消えていった。
どうにか都の邸宅に戻った犀星と玲陽は、一つの褥で深い眠りに落ちていた。
もう、互いに分け合うだけの力も、残されていない。かといって、触れ合っていなければ命を保てないほど、弱りきっている。互いの力を共有し、細く今にも切れそうな糸で、彼らの魂は体に繋がれていた。
蓮章が泊まり込んで、粥や重湯、薬の用意をし、体を清めて甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。
一度、犀星が涼景の様子を尋ねたとき、知らぬ方が良い、と、無表情で答えたきり、蓮章は何も言わない。
東雨の安否も定まらず、未だ、生死の境にいるという。
蓮章は催眠剤を多く用い、とにかく二人を眠らせ続けた。薬がきつく、玲陽は全く目を覚まさない。それでも、口移しに犀星は重湯を与えた。間違えば、一息に魂を吸われて命を落とす。それでもいい。この人を必ず守り抜く。
意識が戻れば、辛い現実と向き合うことになる。今は状況が落ち着くまで、何も知らないままでいて欲しい……
かつて、東雨が拷問を受けた天輝殿の部屋の冷たい石の床に、今は、涼景が倒れ込んでいた。
体内の傀儡は完全に消えてはいない。体力が回復してから、改めて玲陽に頼むつもりでいたが、その暇も無く、翌朝すぐに宝順に呼び出された。心の中に重たい塊が居座り、時折、自分のものではない苦悶の記憶が蘇る。自力では立ち歩くこともできず、嘔吐を繰り返したが、胃の中には、もう、何も残ってはいない。水を飲んでも吐き戻し、咳き込む力もほとんどなく、窒息しそうになりながら、孤立無援で、彼は身体を差し出すしか無かった。
涼景の様子が普段と違い、完全に憑き物が落ちていない状態であること、声を発することもできぬほどに弱っていることを、宝順はむしろ気に入ったらしい。
乱れた着物が手足に絡みつき、自由を束縛する。それがなくても、今、涼景を取り囲んでいるのは、五名の蛾蓮衆の男たちである。万全な状態の涼景ならばいざ知らず、自由も効かず、言葉もままならないほど痛めつけられた上、傀儡の支配に抵抗し続けている現状では、人形も同じだった。逆らうことも、逃げることもできない。
「お前の中にいる傀儡とやらが、朕が召喚した蛾蓮の者たちを殺したのは、紛れもない事実」
宝順は、玉座に深く腰を下ろし、理解しているかもわからない、うつろな目の涼景に告げた。
「朕の可愛い涼景よ。お前に罪はない。お前はただ、操られただけだ。だが、お前の中の傀儡に教えねばならぬ。自分達が死者であり、朕に逆らうことがどういう結末につながるのかを」
そうは言ったところで、責め苦を受けるのは涼景の身体であり、心である。
「涼景。朕がお前を救ってやる」
宝順は今までにないこの状況に、すでに興奮状態にあり、肥大した下半身が着物の上からもわかるほどだ。
「存分に廻せ」
自分では動けない涼景の身体を持ち上げて、蛾蓮衆の男たちは言われた通り、性的虐待を始める。
一人が涼景の口に押し込むと、両脇の二人がそれぞれのものを涼景に握らせる。同時に、もう一人が涼景自身を舌で弄び、最後の一人が前戯もなく、肉輪を押し広げて雁首を差し入れた。
喉を塞がれ、敏感な箇所をなぶられ、痛みと快楽を教え込まれた奥を突かれ、両手には、剣の代わりに、名も知らぬ男の逸物を握らされ……
声も上げられず、ただ、濡れた音が全身から聞こえてくる。
不規則に、誰かが達して迸ったものが徐々に、涼景の体を汚していく。
咥えているものは飲み込みきれず、気管を塞いでむせ返った。
「ひっ!」
喉が引き攣る音と同時に、喉奥まで突かれる。
呼吸が止まれば簡単に死ねるなど、嘘だ。
涼景はそんなことを思った。
身体は生きようと足掻いた。僅かな隙間から、空気を求めて呼吸し、後孔に押し込まれたものを押し出そうと力をこめる。それがかえって野太い男根を締め上げて、男が達するのを誘う。
無理に握らされた手は、自分で動かすこともできず、男たちがさらにその上から自らの手で自慰に耽り、熱い体液が容赦なく涼景の顔や髪を染めていく。飛び散った滴が片目に入って、嫌悪感から涼景は顔を揺すった。同時に、その刺激で喉奥に射精され、余計に苦しむ結果を産む。
涼景の陰部を舌と手で弄んでいた者は、血管の浮き出た竿の根本を強く握り、達するのを止めた。それでいて、なおも陰嚢を揉みしだき、先端から垂れる液を塗りつけていく。てらてらと、自分の先走りで光るそれを、涼景は体勢を変えさせられ、見せつけられる。
暴力と快感との区別など、涼景にはない。
彼が宝順に教え込まれた感覚は、言葉では表せないものだった。痛みでも、快楽でもなく、忌むべきものであると同時に渇望してやまない。体のどこを触られても、頭が痺れるように視界が真っ白になる。いや、自分で自分の身体を見ることさえ、ためらわれる。こうして、見ず知らずの者たちに肌を蹂躙され、視界に晒されるだけで、意志とは無関係に、涼景の陰茎は膨張し、脈動が内側から突き上げてくる。
自分の肉体さえ、自分の意志に反して彼をいたぶり、恥辱を超えて高まりをもたらす。
感情までが、飢えて崩れていく自分を求め、もっと辱めて欲しいと叫びを上げる。
ただ、なぜか、どうしても理性だけが冷静に彼を縛り付けていた。
完全に狂えない。
狂ってしまえば楽だろうに、それができない。客観的に、肉欲に溺れてむさぼる自分を見ている、もう一人の自分がいる。それが、涼景を何よりも苦しめる。
いつから、自分はこんな体になった? それはゆっくりと、何年もかけて、宝順が彼に施した呪いのようなものだ。逃れることを許されず、解き方もわからない。体も心も、宝順に作り替えられてしまった今の自分は、一体誰なんだ。助けを求めようにも、快楽に追いすがる自分は、それすら本気で考えようとしない。己さえ、己のものではない。
狂いたい。この冷えて、客観的に状況を見ている自分が、憎い。
もう、何がどうなっているのか、彼自身、理解が追いつかない。
男たちは立ち位置を変えながら、順に、涼景の体で次々と絶頂を迎える。その間、涼景自身は達することを許されず、まるでその代わりのように両眼から涙が溢れ、止まらなかった。白い精液を、澄んだ涙が洗い流し、顎の先から糸を引いて垂れ落ちる。
そんな責め苦が果てしなく続く。時折、蛾蓮衆の面子が入れ替わり、また違う男が涼景を犯し続けた。宝順は、涼景に休む時間を与えるつもりはない。宝順に運ばれてきた食事の匂い。酒の匂い。だが、それを数えることも意味がない。
終わりの見えない責め苦だけが、涼景に与えられた全てだった。
眠ることも、気を失うことも許されない、救いという名目の破壊。
窓のないこの部屋では、昼夜はおろか、いく日が過ぎたのかさえ、わからない。
自分の中の傀儡が、その力を弱める気配もない。確実に体力を奪われ、涼景の反応が鈍くなっていく。
このまま死ねたら、どれだけ楽だろう。だが、そんなことになれば、残された部下も、犀星たちも、どんな目に合うか…… その一点で、彼は理性を手放せない。自分で自分を苦しめる。死ぬことさえ、許されない。
蛾蓮衆の一人が、彼の口の中に、甘味を帯びた液体を流し込んだ。
鼻につく、くらくらと視界が回るような、明らかな媚薬だ。
そのようなものを注がれても、すでに身体的に限界を迎えている涼景の性欲を煽ることなど、期待できないというのに……
それでも、弱った体に、強烈な刺激が走り、発狂するような痺れと震えが、涼景を追い詰めていく。
殺してくれ……
彼は心から、そう思った。
もう、壊れる。壊してくれ! 何もかも、めちゃくちゃだ。限界……だ……
入れ替わり立ち替わり、屈強な男たちの餌食にされ、気丈な彼の心は傀儡の重みに悲鳴をあげ、外からも、中からも、体も魂もボロボロに崩れていく。
開かれたままの口の端から白濁した涎がこぼれ、意識のない目が見るとはなしに宙を彷徨う涼景に、宝順は満足そうに自分の着物をたくし上げた。
屹立する、脈打つそれは、太い血管の一本一本が蠢き、すでに幾度も達しているのか、白い液が先端から根本へと垂れている。
「涼景の中に巣食うものを、追い出してくれよう」
宝順は立ち上がると、四つん這いにした涼景の後ろの男と代わった。
もう、十分に使い込まれて、含みきれない液が、肉筒が伸縮するのに合わせて吐き出される。
一笑すると、宝順は涼景の最奥へ一気に突き刺した。
それを合図に、蛾蓮衆たちが涼景から離れる。
自分達の役目は、前戯のみ。
ここからは、帝の食事だ。
涼景の腰を抱え、大きく抜差しを繰り返す。体を支える力もないため、涼景の上半身が、幾人もの精液と自分の涙で滑った石の床に、宝順の動きに合わせて前後に擦り付けられる。
「いやっぁ!!」
自由になった口から、涼景の声か、傀儡の声か、艶めいた悲鳴が響く。
「朕の涼景から出ていけ」
激しい抜差しが繰り返され、涼景の身体は軽々と振り回される。肉襞を擦り上げる宝順の、人とは思われぬ質量を持った男根が、今までの蛾蓮衆の行為など、一瞬で吹き飛ばした。背中から頭蓋まで響く快感が、涼景を発狂へと向かわせる。
違う! 快感などではない! これは、単なる体の反応だ。俺は……
どれほど自分を否定しようとしても、涼景の体を、宝順は知り尽くしている。
人より深いところにある前立腺を激しく刺激すれば、瞬く間に涼景は絶頂に達して、陰茎がまるでのたうつ蛇のように、射精の勢いで左右に精液を撒き散らす。
「好きだろう?」
宝順は激しい攻めとは反対に、冷徹な声で言った。
「お前は肉欲からは逃れられない。どんなに綺麗事を並べたところで、ただの淫乱な玩具よ」
ゼイゼイと喘ぐ喉の音も、痙攣する手足も、弓なりになる体も、何もかも、宝順の意のままだ。
「朕を飲み込んで、こんなにも喜んでいる。お前の中はうねって絡みつくな。あれだけ咥え込んでおきながら、きつく締め上げてくる。やはり、お前は一番具合がいい。これは、傀儡といえども、離れ難いわけだ」
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宝順は、どこまで知っている?
こいつは、真実をどこまで……まさか、全て……だとしたら、最初から、こうすることが狙いで……
「あああっうう!」
恥知らずだ!
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だが、体は、感情は止まらない。自ら下半身を揺すって、涼景は求めた。
自分でもこうなると、逆らえない。
宝順の言う通りなのかもしれない。
自分は肉欲に溺れた穢れきった愚者なのか。
限り無い寂寥と誰にとも知れない謝罪が、涼景の理性に満ち満ちていく。
だというのに、それに反して少しでも宝順を感じようと、体は更に締まっていく。ようやく手に入れた宝順を離すまいと、奥へと誘う。
「どうした? そんなに欲しいか?」
何日も眠っていない気がする。
遠くに宝順の声がかすかに聞こえる。それ以上に、肉筒に押し込まれた彼の形が大きく挿入を繰り返すたびに、あられもない声が止まらない。
「陛下……っ! ああっ! いいっ! はぁっ!」
「哭け! 教えたようにせがんでみろ」
「あう…っ! もっと……わたくしを……貫いて……はぁっんんんあっ!」
ここまでの責め苦に、自分が再び絶頂を迎えて、だらだらと長い射精の刺激に朦朧と落ちていくのを、涼景自身はやはり客観的に見つめていた。
こうなってしまえば、もう、諦めるより他にない。
表情一つ変えず、何度も絶頂を迎える宝順の体液を、体の奥で受け止める。尽きることない、その熱と量は、最終的に自分を死の直前に追い詰めるまで終わらない。
傀儡を追い出す、など、詭弁もいいところだ。
普段より弱りきった涼景を、宝順は執拗に責めた。知っているのだ。体や感情の裏側で、涼景の理性がもがき苦しんでいることを。それこそ、宝順が見たい、涼景の姿だ。そのために、今まで時をかけ、じっくりと少しずつ飼い慣らし、自分好みに育て上げた。
悪夢は、三日月の晩まで、続いたという。
長く、深い、夢を見ていた。
前にも、こんなことがあった気がする。
そうだ。
あれは、自分が玲陽を殺そうとした時だ。
あの夜、玲陽は自分を守り、そして、許し、受け入れてくれた。
そんなことが、本当にあっただろうか。あれは夢か?
自分が生きてきた時間全てが、走馬灯のように繰り返され、彼は大きな波に揺られている心地がした。
「……う! とう……う!」
目を開けようとした。
だが、忘れてしまった。
瞼の開き方も、声の出し方も、忘れてしまった。
「東雨!」
……とう……う……
「だ……れ……」
息だけで、東雨は訊ねた。聞き覚えのない声だ。
「私は、利巧。仙水様の部下だ」
利巧……知らぬ名だ。だが、仙水……仙水……涼景?
「よかった、一命は取り留めたようだな」
利巧とやらの声が、何を言っているのかよくわからない。
「答えなくていい。黙っていろ。それから、安心しろ。もう、誰もお前を傷つけない」
「…………」
「酷い怪我を負っている。胸の傷は問題ないだろうが、下半身はそうはいかない。酷く痛むだろうが、我慢してくれ」
痛む?
「可哀想だが、拘束させてもらっている。動かれると、傷が開く」
東雨はやはり、ぼんやりとしたまま、その声を聞いていた。
痛みなど、何も感じない。
胸の傷? いつ、ついた?
下半身? 大怪我? どこも痛くないのに……
うつらうつらしながら、東雨はまた、眠りの中へ沈んでいく。
利巧?
何を言っているんだ? 俺は、どこも痛くなどない……
「痛いっ!」
激痛で、叫び声を上げた東雨の口の中に、利巧は手拭いを丸めて詰め込んだ。
「そいつを噛んでろ! 舌を噛み切るよりマシだ」
「死ぬっ!」
滂沱の涙を流して、東雨は利巧の手当に耐えた。
その痛みは、想像を絶した。
頭の芯が痺れて、何も感じなくなるかと思えば、次の瞬間には全身が飛び跳ねるように貫かれた。
手足が寝台に紐で括り付けられ、胴体さえ、身動きが取れないよう、帯で固定されている。
泣こうが喚こうが、動かせる体ではなかった。
「若様ぁ!! 陽様ぁ!!」
泣き叫ぶ東雨の苦しみを、利巧も味わったことがある。
自分の場合は、宦官となるべく、覚悟の上の手順を踏んだが、それでも変わっていく体に絶望を感じた。
ましてや、東雨は十五に成長しており、体は大人と変わらない。しかも、唐突な刀傷だ。せめてもの救いは、宝順が躊躇わずに一気に切れ味の良い刀でさばいてくれたことか……
多数の血管が切り裂かれ、剥き出しにされた体内からのおびただしい出血は、死に直結していた。それが救われたのは、最後まで、東雨が離さなかった、犀星の刀だ。
後に聞かされた話によれば、犀星はあの前夜、刀を自らの血に浸し、手にする者を守れるよう、願をかけていたという。玲陽を守るため、という形で渡した刀は、実は東雨自身を守るためのものであった。
「大丈夫だ! ちゃんと処置している……」
利巧は、東雨の傷口を覆っていた紙を、冷やした水を染み込ませた新しいものに張り替え、尿道を確保するための針を差し込む。
「うぐっ!」
予想外の痛みに、東雨は飛び出るほどに目を見開いた。
冬場の時期で、細菌感染の恐れは低いが、ここで失敗すると、確実な死が待っている。切断された尿道が傷と一緒に塞がってしまえば、排尿できなくなり、尿毒で死に至る。尿道を確保しつつ、感染から身を守り、傷口を癒す。
本来であれば、十二歳程度までの子供を対象に、本人の了解を得た上で行う宦官手術である。
それを、体が出来上がった東雨に対して宝順が行ったのは、自分の血を引く子供を残さぬよう、単純に去勢の意味だったのだろう。あっさりと殺せば早いものを、わざとそうしないところが、宝順のより残虐を好むゆえか……
ただでさえ、半数を超える死亡率の手術だ。切り落とされた陰茎と睾丸は、涼景の指示で保管してあるが、それを覚悟なく傷つけられた東雨に返すのは、酷と言えた。本人が望むまでは、黙秘するよう言いつかっている。
宦官の地位は奴隷に等しい。
西方では、逆にその体の特徴を利用して権力を手に入れる者も現れている様だが、この国ではまだ、そこまでの実績はない。
利巧は小さく砕いた飴を、手拭いの間から、東雨の口に含ませた。
「まだ、水は飲めないんだ。もう一日だけ、我慢してれ。念のために、針は太く深くしてある。その分痛いと思うが、生きるためだ」
起き上がることもできない状態で、東雨は、自分の前陰に何が起きているのか、徐々に理解してきていた。
だが、認めたくない。
この身体は、何も持たない東雨にとって、たった一つの持ち物だった。
生き方さえ、狂わされるように傷つけられ、何が残るというのか。
舌先で飴を転がしながら、東雨は静かに涙を流し続けた。
会いたい。
犀星に、玲陽に、そして、涼景……
彼らは、今の自分に何を言ってくれるだろう。
皆、自分を宝順から自由にするため、最善を尽くしてくれた。
利巧から、彼らのその後は聞かされた。
涼景は今も、かつての自分のように、残忍な性虐に身を縛られているという。
犀星と玲陽も、精魂尽き果てて、薬で無理やりに眠らされているという。
なりゆきの中で、若い近衛も一人、命を落とした。自分には無関係だった人間まで、巻き込んでしまった。
自分のせいだ。
自分さえいなければ、誰も、傷つかなかった。
涙が止まらない。
利巧はそっと枕辺に座った。
東雨と面識があったわけではない。ただ、東雨が抱えている事情は涼景から聞いていた。
涼景の部下の中でも、最も若く、また、宦官である彼に、涼景が東雨を任せたのは、その気持ちを察してやれると思ったからだ。
「私は、十七。八歳の時に宦官になった。本当は怖かったけれど、そうすれば、働き口がたくさんあるから、と言われた。うちは、貧乏な小作農家で、家族も多かった。弟たちのためにも、私が都に出るしかないと、そう思った」
突然、利巧が自分のことを話し出す。東雨は、唯一自由になる首を傾けて、その横顔を見た。痛みは続いているが、話に集中することで、気がまぎれるように思われた。
落ち着いた雰囲気のある利巧は、もっと年上だと思っていた。しかも、涼景の子飼いの近衛である。それなりの家の出だろうと考えていたのだが、その素性は予想外だった。
「確かに、働き口はたくさんあった。でも、どこに行っても、扱いは小姓や奴隷。最後に勤めた家は大家で、姫様の世話をさせてもらえた。姫様はお優しかった。でも、それが良くなくて…… 同じ家の使用人に嫌われた」
じっと話を聞いていた東雨の涙が、いつしか乾いている。
「種無しの能無しの家畜以下。そう言われて、姫様の目が届かないところでは……」
と、思い出した様に膝の上で拳を握る。
「運がいいのか悪いのか……姫様に片恋されて、それを断って……旦那様は、俺が手を出そうとしたって誤解して、殺されかけた」
東雨は傷の痛みも忘れて、話に聞き入っている。
「拷問されて怪我をして、それでも必死に屋敷から逃げ出して…… その時、仙水様に救われた。俺の身の上なんて、何も知らないのに、あの人は、追っ手から俺を庇って助けてくれた」
「…………」
「どうして助けてくれたのか? って訊いたら……」
利巧は寂しそうに笑って、
「人ならば、当然のことをしたまで、と」
東雨が嬉しそうに目を細める。利巧がそれに気づいて、東雨の口から手拭いを抜き取った。もう、痛みも落ち着いたようだ。
「涼景様らしいや」
乾いた唇で、東雨は呟いた。
「いいなぁ」
利巧がまるで鏡の様に、東雨と同じように目を細くする。
「涼景様……って呼ぶのか? 仙水様じゃなくて?」
「前は、涼景、だった」
「え?」
「敵対してたから」
「……そういうことか」
「呼びたいように呼べばいいのに」
「恐れ多くて……」
「あいつ、そんなこと、気にしないよ」
ころん、と小さくなった飴を口の中で転がして、東雨は眼を閉じた。
何日も水を絶っているため、喉がからからで唾液も出ない。舌も乾いてもつれ、うまく話せない。
もどかしかったが、この一つ年上の少年となら、もっと話してみたいと思った。
彼なら、わかってくれるかもしれない。自分が、どうして今、こんなことになっているのか。
全て、自業自得。自らの兄弟を殺めてまで上り詰めようとした末路。
「嫌じゃなければ……」
利巧がそっと、東雨に顔を近づける。何をしようとしているのか察して、東雨は目を閉じた。
二人は静かに唇を重ね、東雨から利巧へと飴玉がうつる。舌を絡めれば、乾いた東雨の口内が、少しずつ利巧の唾液で濡れてゆく。
水を飲むことは許されない治療だが、その辛さを少しでも和らげようという利巧の思い。
東雨はただ、仮そめであっても、誰かに求められ、愛されたいという思い。
少年たちは夢中になってその感触に耽り、いつしか小さくなった飴玉はどちらの中へともなく、消えていった。
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