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第一部 星誕

第十六話 桜の絆

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 宮中への門は、朱雀大路の北の端にある。

 その大路を南に向かって少し進んだところに、右手に一本の古い山桜の木が立っている。その手前の脇の小道を行くと、犀星が設計した五亨庵だ。

 親王の御所としては、あまりに宮中の隅に位置し、また、都にも近い。治安を考えれば、このような所に御所を建てること自体、不用心極まりないのだが、犀星自らが求めた土地であったため、それを止める者はいなかった。

 この見落としてしまいそうな小道の目印である山桜は、犀星と縁が深い。彼が宮中に上がった初日、涼景と出会ったのも、この木の下であった。

 また、宮中で玲陽が初めに興味を示したのも、この木だった。

 二人揃って、なぜか、この古木に心惹かれ、それは一つの安らぎに近い感覚を呼び起こした。

 だからであろう。

 二人はよく、仕事の合間に五亨庵を出て、散歩がてら、この木を訪ねた。

 いつしか、犀星は木の声を聞くようになった。傀儡とは違い、頭痛は起きない。

 玲陽も、声は聞こえないものの、よく話しかけては、枝の動きから、木の気持ちを読み取った。

 二人は、この木を、親しみを込めて祇桜(ぎおう)と呼んだ。

 犀星の問いかけに、木が自ら、名乗った名だ。その名を、玲陽はどこかで聞いた気がしたが、思い出せなかった。

 冬の寒さが一瞬遠のいた日、いつものように、二人はこの木に体を預けて、ゆっくりと話をしていた。

 犀星は、これより先の宮中へ、玲陽を行かせることはしない。そこは傀儡の巣窟であり、玲陽にとっては嫌なものが溢れている。また、自分も耳鳴りと思っていたものが、囁き声のように意味を持ってざわざわと聞こえてくる。呪いの言葉が渦巻く場所へ、自然と犀星も足が遠のいた。

 二人はそっと着物の袖の中で指を絡ませ、握り合う。山桜を背にしていれば、宮中の不穏な気配も、薄れるように思われる。

「この冬は厳しそうだ」

 犀星が空を見上げた。色の薄い空に、山桜の老いた枝が模様を描いている。

「陽、決して無理をするな。俺のそばにいろ」

「ふふ。それ、ちょっと矛盾していませんか?」

「どこが?」

「無茶をする兄様のそばにいたら、無理をするに決まってるじゃありませんか」

「……ああ、そうか」

 言って、犀星も声を立てて笑う。

「では、俺も無茶は控えないとな」

「少しだけ、我慢して下さいね。私、必ず治しますから」

「勿論だ。お前とまた、剣の稽古がしたい」

「するな、って叱るくせに」

「今はまだ養生しろ。俺はただ、お前に、生きて、幸せになって欲しいんだ」

 犀星の声が上ずる。​それを感じ取って、玲陽は犀星にわざと肩をぶつけた。促されるように、その肩に、犀星が頭を乗せる。犀星の甘え癖を、玲陽はすっかり把握していた。

 本当なら、抱き合って口付けて、甘い時間を過ごしたい。

 しかし、犀星は玲陽のこととなると、どういうわけか慎重だ。身持ちが硬いのか、玲陽の身体を案じてなのか、待つばかりで玲陽にはもどかしい。昨晩の、熱い時間が蘇る。互いに触れ合いたい欲求を抑えるには限界がある。強引であろうと、時には必要なこと。そう考えて、玲陽は犀星を導く。

「ごめんな」

 突然、犀星が言った。

「俺は、本当に不器用だ。どうしたら、お前を癒せるのか、迷ってばかりいる」

 玲陽は人目がないことを確かめて、犀星の髪に口付けた。

「十分ですよ。あなたが、そばにいてくださるだけで……」

「ありがとう……」

 そのまま、眠ってしまうのではないか、というほど、おっとりとした犀星の口調は、まるで、少年時代に返ったかのように思われた。遊び疲れて、草原で手を繋いで眠った午後があった。白華の滝の裏の洞窟で、二人で明かした夜があった。朝日が差し込む部屋で、本を枕に並んで目覚めた朝があった。

 あの頃の思い出は、辛かった日々の自分を支えてくれた。それは、犀星も玲陽もそれぞれに同じだ。

 どちらからともなく、視線を合わせ、額の炎の刻印を重ねる。空いていたもう片方の手を繋ぎ、互いの温もりと息遣いを感じて、微笑を浮かべる。鏡に映った像のように、二人の呼吸が重なり、そこだけが、別の空間であるかのように、周囲から切り離され、傀儡の喧騒は遠のき、柔らかな風が包み込む。

 長い間、二人はじっと動かなかった。

 そのゆるゆるとしたまどろみを破ったのは、気まずそうな咳払いだった。

「悪いんだが」

 涼景は、すぐには離れようとしない二人に近づいた。

「誰に見られるかわからない。そういうことは、隠れてやってくれないか」

 眠たそうに、玲陽が顔を上げる。犀星はそのまま、玲陽の肩にもたれて目を閉じたままだ。

「すみません、つい……」

「つい、で、噂を立てられてもいいのか」

 あきれたように涼景が言う。

「すみません。なんか、自然と……」

「もういい」

 涼景は怒ったわけではなく、単に諦めている。玲陽がどうするか、というよりも、犀星の心の問題の方が大きい。玲陽に完全に依存してしまって、離れると精神的に不安定になる。このままでは、玲陽の身に何かあった時、犀星もまた、致命的な損傷を受けるだろう。

「涼景様、何かご用でしょうか」

「そこにいる、甘ったれの親王に呼ばれた」

 涼景は恨めしそうに犀星を目で指した。

「兄様?」

「ああ、俺が呼んだ」

「寒空に人を呼びつけたのは、惚気っぷりを見せるためか?」

「いや」

 犀星は、まだ眠い子供が、無理やり起こされたような顔で、涼景を見た。長年、犀星の面倒を見てきた涼景だが、警戒心のない犀星を見ることは少なかった。常に周囲に対して、近づき難い雰囲気をまとっていた犀星が、ここまで無防備になっているのは、かなり際どい。玲陽との関係を利用されれば、容易に陰謀に巻き込まれる。涼景には、それが心配でならない。

「陽の傷を見てやって欲しい」

「昨夜、治療したばかりだろう?」

「それが……傷口が何箇所か開いたようなんだ。さらしに血が滲んでいる」

「そんなことで、お忙しい涼景様を呼びつけたんですか?」

 玲陽が申し訳なさそうに涼景に向き直る。

「大丈夫です。もう、痛みは落ち着きましたし、たいしたことはありません」

「駄目だ」

 意外にも、涼景がそれを否定した。

「陽、俺と来い。今夜は非番だ。俺の屋敷に泊まっていけ」

「え?」

 犀星が眠気から一気に覚める。

「待て。それなら俺も……」

「星、お前が一緒じゃ、また、同じことの繰り返しだ」

 涼景は、なぜ玲陽の傷が開いたのか、おおよその見当がついているようだった。

「仲睦まじいことが悪いとは言わない。だが、少し辛抱しろ」

「涼景様、私が悪いんです。兄様を煽るようなことをしたから……」

「どっちがどうでも、関係ない。とにかく、今は少しでも痕が残らないように、最善を尽くしたいんだ」

「……わかった」

 犀星はわずかに頬を赤らめて、顔を背けた。

「陽、俺の髪は持っているな?」

「はい」

「涼景、万が一、何かあったら、すぐに俺に知らせろ」

「わかっている。代わりに俺のを飲ませたりはしない」

 かぁっと、耳まで赤くして、犀星は言葉に詰まった。

「では、歌仙親王殿下、お従兄弟君の御身、この燕涼景が、しかとお守り致します」

 正式な礼儀をわざと再現して、涼景は片目を瞑ってみせた。クスリと笑って、玲陽は犀星の側を離れると、涼景の隣に立った。

「兄様、涼景様が一緒ですから、私は大丈夫です。兄様の方こそ、お気をつけて」

「俺は平気だ」

 犀星は身を正すと、

「涼景、すまない。陽を頼む」

「ああ。しっかり預からせてもらう。お前の命だからな」

「!」

 さらに照れた犀星を見て、涼景は微笑した。

 危険と隣り合わせとはいえ、やはり、この二人には、お互いが必要なのだ。緊張しっぱなしの犀星を見慣れてきた涼景には、感情を見せ、心の動きに自分でも戸惑いながら、それでも変わろうと必死になる犀星もまた、愛おしい。

「行こう」

 涼景は玲陽を抱き抱えると、横向きに馬の背に乗せた。自分もその後ろにまたがり、玲陽を抱き抱えるように手綱を握る。

「星、明日の正午に五亨庵まで送る。それでいいか?」

「わかった。ここで待っている」

「まさか、一晩中待つ気じゃないだろうな」

 茶化すように涼景が言う。犀星は首を振って笑った。

「余計な心配をかけて悪い。俺は大丈夫だから」

「兄様」

「うん?」

「刀を、手放さないでください。眠る時もです」

「わかった」

 玲陽は身体を支えるために、涼景の腰に腕を回した。

 玲陽の準備ができると、涼景は犀星と頷きあい、都の自分の邸宅へと馬を進めた。



 涼景の屋敷は、宮中と犀星たちの屋敷の中間にある。とは言っても、幾つもある屋敷のうちの一つだが。

「ここが一番、五亨庵にも近いから」

 と、玲陽の体調を考え、長距離の移動を避けた涼景の配慮である。

 すでに屋敷には玲陽を迎えるための準備が整えられ、温められた部屋が用意されていた。格別の待遇に、玲陽は逆に戸惑ってしまう。

「この部屋を使ってくれ。逃げ道を伝えておく。今通ってきた廊下が正式だが、左手奥をまっすぐ行けば、裏木戸から表通りに逃げられる。万が一、何かあった時はそうしろ。それも無理なら……」

 と、涼景は部屋の壁沿いに置かれていた物入れの一番下の扉を開けた。

「ここの底板が外れるようになっている。下は地下道だ。降りてすぐの足元に、蝋燭と火打ち石が置いてある。地下道を道なりに進めば、お前たちの邸宅の厨房横の食糧庫の床下につながっている」

「ええ!」

 驚いて、玲陽は涼景を見た。犀星の邸宅は、涼景が貸したものだと聞いていたが、裏にそんな仕掛けがあったとは。

「これは、星にも言っていない。黙っていてくれ」

「どうして、そこまで……」

「俺には、あいつを守るという使命がある。それは、勅命よりも重い」

 言いながら、涼景は寝台の横に治療道具を広げた。

「さっさと終わらせよう。お前の方にも、話があるんだろう?」

「…………」

「さっき、言っていたな。眠る時にも刀を手放すな、と」

「……涼景様が、どうして兄様を守り通すことができたのか、よくわかりました」

 涼景に劣らず、玲陽も相手の言葉や表情に敏感な方だ。そうやって、周囲に敵を作らないようにして生き延びてきた。玲陽がやむを得ずそのような能力を伸ばしたのに対し、涼景は天性の勘に恵まれている。

 この人は、王の器だな、と、玲陽は思った。

 そんな涼景が、自分達にこれだけ親身になってくれることを、心底ありがたく思う。

「服を脱いで座れ」

 玲陽は言われた通り、普段より一枚多く着込んでいた着物を脱いだ。

 それからゆっくりと自分でさらしを解く。できることは自分でするのが、玲陽の考えだ。独立心が強く、あの犀星が頼り切ってしまうほどの人物である。外見は線の細い、どこか女性的な美しさを持っているが、その内面はおそらく、誰よりも肝が座っている。すでに、人知を超えて、物事を達観してしまったがゆえ、涼景にはそんな玲陽が、時に冷酷にさえ感じられた。確かに人当たりは良いし、性格も穏やかな麗人ではあるが、腹の中に抱えているものは、自分よりも堅固で強い意志だ。

 世が世であり、不遇に生まれついたが、もし彼が然るべき立場にあったなら、宝順などとっくに排除されていたかもしれない。

 皮肉なものだな、と涼景はため息をついた。

「涼景様」

「うん?」

「昨日の夜のこと、あれは本当に私が悪いのです」

「いや」

 涼景は、血や薬で汚れたさらしを回収しながら、

「どちらも悪くない。愛しい人が欲しくなる。当然のことだ」

「涼景様……」

「しかも、相手があの星ではな。お前から動かなければ、一生、仲は進まないだろう」

「…………あの……」

「何だ?」

「一つ、はっきりさせたいことが」

「言ってみろ」

 玲陽は慎重に言葉を選びながら、

「私の体は、兄様を受け入れることはできますか?」

 単刀直入に、玲陽は尋ねた。しばし迷ってから、涼景は腹をくくった。

「うつ伏せて横になれ。確かめる」

 涼景に言われた通りに、玲陽は寝台に身を横たえた。

「触るぞ」

「……はい」

 涼景は傷に気をつけながら、そっと玲陽の肛門に触れた。周囲の皮膚の硬さや伸縮性を確かめる。いくつものしこりのように凹凸がつき、あの桜の木肌のように、硬い感触が何箇所にもある。不自然な治り方をしたり、雑菌による膿が溜まったり、さらにそれが破られて新たな傷になったり、と、憐れな形状に歪んでいる。

「陽、中を調べていいか」

「! ……はい」

 玲陽はぐっと両手で敷布を握りしめた。

「力を抜け」

「……はい」

 涼景は第二指で穴の周りを丁寧にほぐし、出血や傷がないことを確かめてから、秘所に舌を差し入れ、唾液を押し込む。その感触に、玲陽は思わず腰を浮かせたが、涼景は気にしなかった。自らの指を舐めて濡らすと、ゆっくりと奥へ差し入れる。

「いやっ!」

 玲陽は本能的に腰を引いて逃げようとする。当然のことだろう。今まで、散々に弄ばれてきた体は、もう、刺激に対して嫌悪感しか抱かない。それは、涼景自身にも覚えがある。自分もまた、宝順に犯され続けている身だ。

「少しの我慢だ」

「……はい……」

 涼景の指をきつく締め付けてくるのは、玲陽の意図ではない。もう、それ以上、体が柔軟性を失っているのだ。広げるように動かしてみたが、玲陽の苦痛のうめき声に耐えきれず、涼景は指を抜いた。

 わずかな間の出来事だったが、玲陽はすっかり怯えて、震えている。

「すみません、こんなこと、頼んで……」

「知りたくて当然だ」

 涼景は手拭いで玲陽の秘所と、自らの手を拭きながら、

「はっきり言って、無理だな」

「やっぱり……そうですか」

「ああ。男の指なら、二本入れただけで裂けるだろう。ましてや……」

「わかりました」

 涼景は辛そうに玲陽の顔を覗き込んだ。

「陽……何と言っていいか……」

「いいえ、大丈夫です」

 玲陽の白い顔から、さらに血の気が失せたようで、涼景はそっと髪を撫でた。

 出会ってから日が浅いというのに、彼のことは、犀星同様、大切な存在になっている。それは、犀星が愛する相手だからではない。玲陽という一人の人間の存在が、急速に自分の中で大きなものへと成長した。

 自分達三人は、出会い、共に生きる運命だった。

 最初から、そう、定められていた。

 犀遠から聞いた、記憶にない遠い日に、未来は約束されていたのだ。

「陽」

 涼景に呼ばれて、玲陽は目を見開いた。その声は、まるで犀星が自分を呼ぶかのように、優しく、温もりに溢れていた。思わず、涼景の顔をじっと見つめる。そこにいたのは、将軍でも、医者でもなく、友としての涼景だった。

「俺に遠慮する必要なんかない。俺にとって、お前と星とは同等だ。過ごした時間の長さなんて関係ない。想いの深さを知って欲しい」

「涼景様……どうしてそこまで……」

「わからない。だが、直感が告げている。俺たち三人の絆は、断ち切れないものであると」

「……はい」

 玲陽は、大きく頷いた。

 涼景の治療を受けながら、玲陽は今まで以上に安心感と、まどろみの中にいた。

 先ほど、触れられた奥が熱くうずいたが、今はもう、嫌悪感を感じない。自分の求めに応じ、いたわりながら触れてくれた涼景に対する思慕だけが残る。

「……陽、聞いていいか?」

「何でもどうぞ」

 涼景は手当を続けながら、言いにくそうに、

「お前は、星に抱かれたかったのか?」

「……随分、出し抜けに訊きますね」

「何でもどうぞ、と言っただろ」

「そうですけど……」

 玲陽はぼんやりとした声で、

「よく、わからないのです」

「わからない?」

「はい。元々、男同士ですることじゃないですし……それに、兄様は親王ですから、妃をめとらないといけない。私は邪魔者です」

「馬鹿を言え」

 涼景は鼻で笑った。

「あの星に女が抱けるとは思えん」

「私も同感ですけれど、形だけでも……」

「冗談じゃない。お前がいるのに、そんなことはさせない」

「涼景様、私は兄様の妃にも妾にもなれません」

 その言葉に、思わず涼景は手を止めて、吹き出した。

「星に妾? そりゃ、傑作だ!」

「涼景様、そこまで笑わなくても……」

「あいつのことだ、きっと、名前も顔も覚えないぞ」

「そんな……ありそうですね」

「だろ?」

 涼景はどうにか笑いを抑えてから、

「あいつの中は、お前のことでいっぱいだ。他の者が入り込む余地などない」

「そう、だと、困るんですけれど」

「何だ? お前、嬉しくないのか?」

「嬉しいですよ。でも、立場を考えれば、いずれは、と覚悟しなければ……」

「お前も強情だな。もっと素直になれ。ほら……」

 と、唐突に涼景は玲陽の前を撫で上げた。

「ひゃん!」

 驚きと快感とで、玲陽の声が弾む。

「身体は素直なのに」

「涼景様!」

「悪かった、そう睨むな」

 涼景は、ぐっと玲陽に顔を近づけた。

「お前に睨まれるとゾクゾクして、俺までその気になる」

「!」

 本気で困った表情を浮かべた玲陽を見て、涼景はまた、笑った。

「冗談だ。そんなことをしたら、星に殺される」

「死ぬより酷い目に遭わせますよ、まずは私が」

「そりゃ、怖いな」

 涼景が自分をからかっていることは、玲陽にもわかっている。だが、身体がたかぶってしまったのも事実だ。

「もう、普段のお硬い暁将軍様が、どうしてこうも変わるのか……」

「お前たちの前だけだ」

 一通り、治療を終えて、涼景は丁寧に新しいさらしを巻いた。

「全身、これでは、動きづらいだろ」

「この季節は、意外と暖かくて、ちょっと助かってます」

「なるほど、前向きだな」

「そうでも思わないと、情けなくて」

「心配するな。あと、二、三日すれば、こんな全身の処置をしなくても済む。最後まで残るのは、背中の傷の手当だな」

「そんなに、酷いんですか? 自分ではわからないから」

「……なぁ、陽。火傷を負わされたことがあるだろ」

「ありますけど、場所や回数なんて覚えていません」

「それが……背中に、焼き印があるんだ」

「え?」

 玲陽は首を傾げた。

「炎で炙られたり、油を塗られて火をつけられたり、種火を押し付けられたことはありますけど……」

「それ、拷問だろ。今は宮中でもよほどのことがなければ、そんな真似はしないぞ」

 涼景は何でもない、というように軽く口にする玲陽に、同情しかなかった。だが、玲陽にとっては、それが日常だったのだから、凄まじい。

「……あ! 一度、火で焼いた鉄を背中に押し付けられたことがあります。確か、心臓の裏がどうの、って……」

「左肩甲骨の下あたりだ」

「そこです」

「相手は?」

「名前はわかりません。あれは、最初の夜で……私も、薬を飲まされていて、記憶が曖昧で……でも、知らない人でした。兄上たちではない……確か、若君、と呼ばれていました」

「どこかの狂った御曹司か…… おそらく、家紋か文字だと思う。見たことのないものだ」

「涼景様、それ、どこの誰かわかっても、絶対に兄様に言わないで下さい」

「わかっている。星が逆上するのは間違いないからな。だが、あいつのことだ。とっくに調べ始めているんじゃないか?」

「私も気をつけて見ています。……どこの誰だろうと、もう、どうでもいいことです」

 玲陽は苦しげに呟いた。

「本当は……何もかも、兄様にもらって欲しかった……」

 着物を羽織り、寝台に腰掛けて、玲陽はうつ向いた。

「お前が、あいつの全てを受け取ればいい」

 隣に座って、涼景が慰める。

「何にせよ、もう、お前たちの邪魔をする者は……」

 と、言いかけて、涼景は言葉を飲み込んだ。

 玲陽も、思い出したように涼景を振り返った。

「そのことで、涼景様にご相談が」

「おそらく、同じ人物のことだろう」

「兄様には言えません。裏切られていたと知ったらどうなるか……」

「あいつは、それでも信じるのだろうな。東雨は騙されていただけだ、と」

「ええ。だからこそ、辛い」

「陽、お前はどうして、東雨が怪しいと思った?」

「私が初めて五亨庵に行った時、炉の中に、燃え残った紙の束があったんです。兄様には黙って持ち帰って調べたのですが、確かに、私の書いた手紙でした。私の名前が、兄様の筆跡で書かれた断片もありました。私たちの手紙を止めていたのは、郵送を担当していた五亨庵の人間。兄様に確認したら、それは東雨どのだと……」

「なるほどな」

「涼景様は、最初からご存知だったんですか?」

「よくあることなんだ。貴人に自分の部下を側近としてつけて、動向を逐一報告させる。そうやって弱みを握ったり、いざという時の切り札を用意する」

「宝順帝が兄様につけた間者が、東雨どの……」

「陽、東雨には気を許すな」

「わかっています。けれど、どうにかして、東雨どのを、本当の兄様の味方にはできませんか?」

「帝を裏切り、こちらに引き込むと」

「それができないのならば、せめて、真実よりも虚構のまま、東雨どのを遠ざけること…… 兄様は、お心の温かい方です。全てを知ったとき、どれほど傷つくか……それだけは、何があっても避けなければなりません」

 玲陽は空を見つめたまま、静かに言った。それは、犀星のことを想うからではあるが、裏には、東雨の生死すら問わないという冷酷ささえ滲み出ている。

「陽、お前は動くな。何があろうと、星を守る。そして、東雨も、だ」

「東雨どのも?」

「あいつは、利用されているだけだ。逆らえば殺される。裏切れば地獄を見る。生きていても、時が来れば始末される」

「そんなの、酷い……」

「陽、もし、次に動くとすれば、東雨はお前を狙ってくる」

「私を?」

「お前を支配できれば、星を操ることなど簡単だ。屈するな。何があろうと」

「……わかりました」

 玲陽は頷くと、ため息をついた。

「願わくば、誰も傷つくことなく、全てが慈愛のもとに行われることを祈ります」
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