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第一部 星誕

第十三話 知らぬ思いのその色は

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「随分遅かったな?」

 二人が都の邸宅に戻ったとき、すでに涼景は東雨を相手に酒を飲みつつ、厨房で待ちくたびれていた。

「俺が手配した籠は、そんなに遅れたか?」

「涼景……」

 全てを知っていながら、明らかに冷やかしている涼景の顔を、犀星はまともに見られない。

 自分達が何をしてきたのか、誰かに知られることが、こんなにも気まずいものなのだろうか。

「涼景様、何から何まで、ありがとうございます」

 玲陽が、犀星の腕に捕まりながら、わずかに礼をした。

「光理様」

 東雨が犀星に代わって、玲陽を支え、土間の上がりに横たえる。

「お体、辛くありませんか?」

「大丈夫です、東雨どの」

 玲陽はいつもの穏やかな笑みを浮かべる。東雨も、この笑顔が好きだった。普段から、感情を見せない犀星と一緒に暮らしていると、人間としての喜怒哀楽さえ忘れそうになる。そこにきて、人らしい玲陽の仕草は安心できた。

「陽に水を……」

「俺がやろう」

 涼景はさっさと自分で動いて、水と薬湯を用意すると、二つの腕を並べて玲陽の前に置いた。

「さて、それじゃ、覚えてもらうとするか」

 涼景はいつの間にか、蓋のついた陶器の箱を、厨房の隅に持ち込んでいた。

「陽」

 涼景は玲陽の顔の高さに合わせて膝をつくと、少し済まなそうな表情を浮かべた。

「これから、お前の身体に合わせて、料理のようなものを作る」

「料理のようなもの?」

「ああ。お前が食べることができて、栄養価があり、身体を回復させるための『もの』だ。だが、好みは分かれる」

「涼景様を信じています。私は従います」

「ありがたい。あまり、気味のいいものではないが、回復するまで、我慢してくれ」

「はい」

 体のためになるならば、と、玲陽は大人しく頷いた。

「星、東雨、お前たちも作り方を覚えておいてくれ。日持ちする物じゃないから、作り置きはできない」

「わかった」

 犀星は頷くと、気になっていた陶器の箱を目で示した。

「そいつか?」

「ああ、匂いが強いから、普段はここで保管するといい。これからの季節、虫はつかないと思うが……」

 言いながら、涼景は箱の蓋をずらし、中から両手で包めるほどの大きさの瓶を取り出した。

「?」

 どこかで、嗅いだことのある匂いが漂う。

「あ!」

 一番最初に気づいたのは、玲陽だった。その青ざめた顔を見て、犀星も思い当たる。

「もしかして、それ……」

 東雨が、わずかに声を震わせた。

 涼景は感情を殺して、

「屠殺場からもらってきた、豚の血だ」

「なんでそんなものっ!」

 と、叫んでから、犀星は全身が総毛立った。

 栄養価のあるもの、匂い、我慢してくれ……

「お前、それを陽に飲ませる気か!」

「見ていろ」

 涼景は敢えて犀星の抗議を無視して、腕を二つ用意すると、そこに血液を半分ほど注いだ。

 空気に触れて、一部、固まりかけたその血は、時折、どろりと動く。

「慣れるまでは水で薄めてもいいが、できればそのまま使ってくれ。砂糖を足してから、塩を入れる」

 犀星たちに説明するため、涼景は材料を並べ、実際にやって見せた。

「香草を擦って加えることで匂いを弱めることができるが、できるだけ固形物は入れたくないから、そいつは無しだ」

 手際よく腕の中をかき混ぜると、血液が固まり始める。

「血が固まれば出来上がりだ。簡単だろ」

 簡単、ではある。血液と、砂糖と、塩を混ぜるだけなのだから。

 だが、出来上がったものを、どうするか、が、問題なのだ。

 犀星は、ちらりと玲陽を見た。

 玲陽が嫌がるなら、決して食べさせるつもりなどない。だが、むしろ、玲陽は落ち着いて腕の中を覗くように体を起こした。

「名案ですね」

「え!」

 思わず、犀星と東雨の驚きの声が重なった。

「はい?」

 玲陽がきょとん、として驚いている二人を見返す。

「血液なら、砂糖水と塩より栄養がありますし、屠殺場では捨てるだけのものですから、毎日、新鮮なものを手に入れられます」

「さすがは、陽。わかっている」

「いや、そういう問題じゃなくて……うっ!」

 数歩、涼景に近づいて、ふっと匂ってきた碗の中身に、犀星は吐き気を覚えた。

「結局のところ、豚の血の煮凝りを食わせる、っていうことだろ!」

「本当は、お前の血が欲しいんだ」

 涼景は、冗談とも思えない調子で言った。

 犀星は驚愕に声も出ない。

「仕組みはわからないが、効果が高そうな気がするんでな」

「ダメですよ。余計なことを言っては」

 玲陽が涼景をたしなめる。

​「兄様のことですから、本当にやりかねません。毎日そんなことをされたら、兄様の方が失血死してしまいます」

​「だが、陽。これは人が食べるようなものでは……」

「しかし、他に方法がありますか?」

 他に、と問われれば、どうにも答えようのない犀星だが、かと言って自分も口にしたことのないものを、玲陽に食べさせるのは抵抗があった。

「大丈夫です、兄様」

 玲陽は落ち着いていた。

「北方のある地方では、実際に豚の血液を料理に用いる地域があります。新鮮であれば心配はありません」

 犀星は涼景が用意した椀を一つ、手に取った。明らかに血液の色そのものであり、それが弾力を持って固まった状態になっている。

​「新鮮な血は、塩を入れると凝固するんだ」

 涼景が差し出した匙で、犀星は椀の中身をつついた。確かに柔らかく、喉の通りも良さそうだが、とにかく初めての代物である。また、匂いにどうしても抵抗を感じる。

 玲陽に先に食べさせるわけにはいかない、と、犀星は彼なりに勇気を出して、一口すくい、口へ入れた。

 生ぬるく鉄くささが抜けない中に、さらに臭みが強く、数秒、こらえはしたものの、飲み込むことはできなかった。

「水……」

 犀星は玲陽の前に置いてあった水を一気に飲み干した。

「駄目だ、認めない!」

「兄様」

「こんなもの、いくら陽に必要だからって……」

「だったらこのまま死なせるのか?」

 犀星から顔を背けて、冷ややかに涼景は言った。

「戦場では、食糧がない時、どうやって生き残るか知っているか?」

「…………」

「星、お前は甘いんだ。陽、食ってみろ」

 涼景は、犀星が投げ出した椀と匙を玲陽に渡した。

「いただきます」

 玲陽はその匂いを嗅いでも、顔色ひとつ変えなかった。ただ、黙って中身をすくい、口へ運ぶ。何度か咀嚼してから、ごくん、と何事もないように飲み込んだ。

「陽、平気なのか?」

「…………いえ」

 もう一口、玲陽は飲み込んでから、

「でも、大丈夫です。もっと酷いものを口にして、生きてきましたから」

 スッと、犀星の背中が冷える。

 玲陽は、自分を安心させるために強がっている訳ではない。

 彼の言葉は真実だ。

 彼は今まで、見ず知らずの男の精や糞尿を糧としてきた。そうでもしなければ、生きられなかった。

 それに比べれば、涼景が考案した血の塊くらい、なんということはない。

 自分の浅はかさ、涼景が言った通り、考えの甘い己に悔しさが込み上げてくる。犀星は黙ったまま、拳を握りしめた。玲陽を守る、とは、こういうことなのだ。彼の過去も、同時に背負って行かねばならない。

「涼景、助かった。あとは俺たちでできる」

 その口調から、犀星の覚悟を信じたのだろう。涼景は安心したように息をつくと、東雨を庭へ連れ出した。

 すでにすっかり日が落ちて、月明かりが周囲を照らしている。

「涼景様? 何かご用ですか?」

 東雨はあくまでも犀星の従者であり、涼景に仕えている訳ではない。だが、ことあるごとに巻き込まれる。

 涼景は、普段より深刻そうな顔をしている。

「東雨、あの二人から、絶対に目を離すな」

「どういう意味です?」

「危なっかしいんだ」

 涼景は不安げな眼差しで月を見上げた。

「紙一重のところに死があるような気がする」

「光理様の容体が良くない、と?」

「今はな。だが、これ以上悪化はしないだろう。あいつが豚の血を食ってくれれば、半年で普通の暮らしに戻れるはずだ」

「それなら、心配はないです。光理様はしっかりなさっていますし」

「いや、心配なのは星の方だ」

「若様はお元気だと思いますけど」

「そうじゃない。気がつかないか?」

 涼景は邸宅を振り返った。

「今までのあいつは、感情を表に出さなかった。だからこそ、避けられてきた問題も多い。弱みを握られることもなかった。陥れられずに済んだ」

「光理様がそばにいたら……」

「ああ。たとえそれが自然なことであったとしても、星は変わるだろう。表情も豊かになる。感情も口にする。そして、誰の目にも、陽は星の弱点だとわかる」

「そうならないよう、若様は光理様をお守りするだけの力をつけるため、十年間築いてきたはずです」

「だから、甘いと言っている。今日だって、すでに女たちが二人に群がっていた。どんな形で手を出してくるか、知れたものではない」

「涼景様」

「あいつが思っているほど、宮中は優しくはない。お前だって、知っているだろう」

 東雨は突然、自分のことに話を振られて、黙り込んだ。

「お前が、同年代の子供たちと、熾烈な争いの中で勝ち残り、親王の稚児の座を掴んだことを、俺が知らないと思っているのか」

「…………」

「そのために、仲間や兄弟を何人殺した?」

「!」

 弾かれたように、東雨は一歩、涼景から離れた。

「お前の素性がどんなものか、知らないのは星くらいなものだ」

「りょ、涼景様…… わ、若様には……」

「安心しろ、言わねぇよ」

 星が苦しむようなこと、言える訳がないだろ。

 自分のために、何人もの子供たちが、争い、傷つけあったなど、あの感傷的な犀星に耐えられるはずがない。

「涼景様」

 東雨は息を整え、姿勢を正した。

「あなたは俺を……」

「信用していない」

 きっぱりと涼景は両断した。

「だが、お前が十年間、星を助けてきたことは事実だ。それに賭けているだけだ」

 東雨はしばらくじっと涼景を見つめた。

 今の自分より幼い頃から、戦場で、血肉千切れる苦境をくぐり抜けてきた涼景の眼差しは、決して、東雨に破れるものではない。

「信用して、頂かなくても結構です」

 東雨は開き直った。

「けれど、俺しか、頼れないことも、お忘れなく」

 二人の間に、なぜか不思議な関係が生まれつつあった。

 敵だ、と、互いが確信した瞬間かもしれない。

 だが同時に、今は争う時ではないことも、両者共に知っている。

「後は頼んだ」

 涼景はそのまま、屋敷を後にした。

 その姿が見えなくなるまで、東雨は目をそらさずに見守る。

「燕涼景。あんた、勘が良すぎるんだ」

 東雨の呟きは、月光の中へ静かに霧散していった。



 厨房には、空になった椀が二つ、残されていた。主人たちの姿はない。

 東雨は厨房から中庭に通じる扉に、内側からしっかりと鍵をかけ、椀を洗って伏せると、簡単にそこらの片付けを済ませた。それから、粥と作り置いてあった簡単な惣菜、二人分の茶を用意して盆に乗せ、犀星の部屋に向かう。さっきの騒動で、玲陽は夕飯代わりのものを食べていたが、犀星は夕餉を済ませていない。

「若様、夕膳をお持ちしました」

 部屋の前で、東雨は声をかけると、いつも通り、返事を待たずに扉を開けた。

「こちらに、置いておきますね……」

 と、中に一歩踏み込んで、思わず足が止まる。寝台にうつ伏せに寝転んだ玲陽の傍に、犀星が寄り添って座り、玲陽の髪を丁寧に櫛でといていた。

 今の玲陽の体調を考えればありえないとは思いつつも、二人の間には情事の気配すらする。

「ん?」

 東雨に気づいて、犀星は上体を起こした。

「ああ、済まないな。片付けるのは明日でいいから」

「あ、はい。……なぜ、若様のお部屋に光理様が?」

「今日は色々あって疲れたんだろう。ここで寝かせる」

 犀星は自然な様子で、東雨が運んでくれた夕膳の前に座った。

「そ、そうですか……」

「東雨、あの豚の血の薬膳だが……」

「はい……」

「陽が自分で作るそうだ。屠殺場にも自分で行く、と」

「そ、そうですか……」

 何を言われても、東雨は上の空だ。

 玲陽は眠り込んでいるようで、身動きもしない。

「お前も、休んでいいから」

「は、はい。失礼致します」

 東雨はそれ以上何も言えず、部屋を出た。

 自分の部屋に向かう間、彼は何か胸の中で嫌なものが渦巻くのを感じ続けていた。

 十年間、犀星を支えてきたのは自分だ。たとえそれが、帝からの言いつけであったとしても、決して疑われることがないよう、時として本当に命懸けで彼のために尽くしてきた。そうでもしなければ、信頼を勝ち取ることなど出来はしない。特に、犀星のような簡単に相手を信じないような者の心は得られない。

 涼景が言った通り、共に育てられた同年代の子供たちは、皆、心を許せる相手ではなかった。周囲全てが敵であり、競争相手であり、勝者だけが生き残ることができる。そんな世界で、彼は生きてきた。

 犀星に会うまでも、会ってからも、彼はずっと孤独の中にいた。誰からも愛されず、信用されず、利用されるだけの存在。それが、自分だ。

 それなのに… と、東雨は歯を食いしばった。

 玲陽…… 幼馴染み? 嘘だ。

 毎日毎日、犀星は彼に宛てた手紙を書いていた。たまに、玲陽の方から手紙が届くこともあった。東雨は両者が書いたその内容を全て知っている。二人が互いに深く想いあい、それが友情を超えた愛であることを知った上で、破り捨て、焼き捨ててきた。歌仙親王を孤独にせよ、という宝順の命令もあったが、それだけではなかった。明らかに、自分の怒り、感情が溢れていた。

 どうして、愛される? 自分はこんなに一人だ。

 どうして、玲陽だけが、愛される?

 付き合いの長い涼景でさえ、玲陽のために忙しい仕事の合間を縫って奔走する。そして、自分のことは信じない、とはっきりと言い切った。

 どんなに尽くしても、それが偽りだからか?

 何もしなくても、玲陽はどうして、周囲を惹き込んでいく?

 今まで、感じたことのない、心の曇り、罪悪感でもなく、迷いでもない。恨みに近い、これは、嫉妬。

 嫉妬。

 その言葉の意味を、東雨は身をもって味わった。

 自分は玲陽に嫉妬している?

 そうでありながら、東雨もまた、彼の魅力に惹かれてもいる。嫌いになどなれない。

​ 自分はどうしたいのか、自分でもわからない。

 東雨の苦悶は、まだ、始まったばかりだった。
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