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第一部 星誕
第十三話 知らぬ思いのその色は
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「随分遅かったな?」
二人が都の邸宅に戻ったとき、すでに涼景は東雨を相手に酒を飲みつつ、厨房で待ちくたびれていた。
「俺が手配した籠は、そんなに遅れたか?」
「涼景……」
全てを知っていながら、明らかに冷やかしている涼景の顔を、犀星はまともに見られない。
自分達が何をしてきたのか、誰かに知られることが、こんなにも気まずいものなのだろうか。
「涼景様、何から何まで、ありがとうございます」
玲陽が、犀星の腕に捕まりながら、わずかに礼をした。
「光理様」
東雨が犀星に代わって、玲陽を支え、土間の上がりに横たえる。
「お体、辛くありませんか?」
「大丈夫です、東雨どの」
玲陽はいつもの穏やかな笑みを浮かべる。東雨も、この笑顔が好きだった。普段から、感情を見せない犀星と一緒に暮らしていると、人間としての喜怒哀楽さえ忘れそうになる。そこにきて、人らしい玲陽の仕草は安心できた。
「陽に水を……」
「俺がやろう」
涼景はさっさと自分で動いて、水と薬湯を用意すると、二つの腕を並べて玲陽の前に置いた。
「さて、それじゃ、覚えてもらうとするか」
涼景はいつの間にか、蓋のついた陶器の箱を、厨房の隅に持ち込んでいた。
「陽」
涼景は玲陽の顔の高さに合わせて膝をつくと、少し済まなそうな表情を浮かべた。
「これから、お前の身体に合わせて、料理のようなものを作る」
「料理のようなもの?」
「ああ。お前が食べることができて、栄養価があり、身体を回復させるための『もの』だ。だが、好みは分かれる」
「涼景様を信じています。私は従います」
「ありがたい。あまり、気味のいいものではないが、回復するまで、我慢してくれ」
「はい」
体のためになるならば、と、玲陽は大人しく頷いた。
「星、東雨、お前たちも作り方を覚えておいてくれ。日持ちする物じゃないから、作り置きはできない」
「わかった」
犀星は頷くと、気になっていた陶器の箱を目で示した。
「そいつか?」
「ああ、匂いが強いから、普段はここで保管するといい。これからの季節、虫はつかないと思うが……」
言いながら、涼景は箱の蓋をずらし、中から両手で包めるほどの大きさの瓶を取り出した。
「?」
どこかで、嗅いだことのある匂いが漂う。
「あ!」
一番最初に気づいたのは、玲陽だった。その青ざめた顔を見て、犀星も思い当たる。
「もしかして、それ……」
東雨が、わずかに声を震わせた。
涼景は感情を殺して、
「屠殺場からもらってきた、豚の血だ」
「なんでそんなものっ!」
と、叫んでから、犀星は全身が総毛立った。
栄養価のあるもの、匂い、我慢してくれ……
「お前、それを陽に飲ませる気か!」
「見ていろ」
涼景は敢えて犀星の抗議を無視して、腕を二つ用意すると、そこに血液を半分ほど注いだ。
空気に触れて、一部、固まりかけたその血は、時折、どろりと動く。
「慣れるまでは水で薄めてもいいが、できればそのまま使ってくれ。砂糖を足してから、塩を入れる」
犀星たちに説明するため、涼景は材料を並べ、実際にやって見せた。
「香草を擦って加えることで匂いを弱めることができるが、できるだけ固形物は入れたくないから、そいつは無しだ」
手際よく腕の中をかき混ぜると、血液が固まり始める。
「血が固まれば出来上がりだ。簡単だろ」
簡単、ではある。血液と、砂糖と、塩を混ぜるだけなのだから。
だが、出来上がったものを、どうするか、が、問題なのだ。
犀星は、ちらりと玲陽を見た。
玲陽が嫌がるなら、決して食べさせるつもりなどない。だが、むしろ、玲陽は落ち着いて腕の中を覗くように体を起こした。
「名案ですね」
「え!」
思わず、犀星と東雨の驚きの声が重なった。
「はい?」
玲陽がきょとん、として驚いている二人を見返す。
「血液なら、砂糖水と塩より栄養がありますし、屠殺場では捨てるだけのものですから、毎日、新鮮なものを手に入れられます」
「さすがは、陽。わかっている」
「いや、そういう問題じゃなくて……うっ!」
数歩、涼景に近づいて、ふっと匂ってきた碗の中身に、犀星は吐き気を覚えた。
「結局のところ、豚の血の煮凝りを食わせる、っていうことだろ!」
「本当は、お前の血が欲しいんだ」
涼景は、冗談とも思えない調子で言った。
犀星は驚愕に声も出ない。
「仕組みはわからないが、効果が高そうな気がするんでな」
「ダメですよ。余計なことを言っては」
玲陽が涼景をたしなめる。
「兄様のことですから、本当にやりかねません。毎日そんなことをされたら、兄様の方が失血死してしまいます」
「だが、陽。これは人が食べるようなものでは……」
「しかし、他に方法がありますか?」
他に、と問われれば、どうにも答えようのない犀星だが、かと言って自分も口にしたことのないものを、玲陽に食べさせるのは抵抗があった。
「大丈夫です、兄様」
玲陽は落ち着いていた。
「北方のある地方では、実際に豚の血液を料理に用いる地域があります。新鮮であれば心配はありません」
犀星は涼景が用意した椀を一つ、手に取った。明らかに血液の色そのものであり、それが弾力を持って固まった状態になっている。
「新鮮な血は、塩を入れると凝固するんだ」
涼景が差し出した匙で、犀星は椀の中身をつついた。確かに柔らかく、喉の通りも良さそうだが、とにかく初めての代物である。また、匂いにどうしても抵抗を感じる。
玲陽に先に食べさせるわけにはいかない、と、犀星は彼なりに勇気を出して、一口すくい、口へ入れた。
生ぬるく鉄くささが抜けない中に、さらに臭みが強く、数秒、こらえはしたものの、飲み込むことはできなかった。
「水……」
犀星は玲陽の前に置いてあった水を一気に飲み干した。
「駄目だ、認めない!」
「兄様」
「こんなもの、いくら陽に必要だからって……」
「だったらこのまま死なせるのか?」
犀星から顔を背けて、冷ややかに涼景は言った。
「戦場では、食糧がない時、どうやって生き残るか知っているか?」
「…………」
「星、お前は甘いんだ。陽、食ってみろ」
涼景は、犀星が投げ出した椀と匙を玲陽に渡した。
「いただきます」
玲陽はその匂いを嗅いでも、顔色ひとつ変えなかった。ただ、黙って中身をすくい、口へ運ぶ。何度か咀嚼してから、ごくん、と何事もないように飲み込んだ。
「陽、平気なのか?」
「…………いえ」
もう一口、玲陽は飲み込んでから、
「でも、大丈夫です。もっと酷いものを口にして、生きてきましたから」
スッと、犀星の背中が冷える。
玲陽は、自分を安心させるために強がっている訳ではない。
彼の言葉は真実だ。
彼は今まで、見ず知らずの男の精や糞尿を糧としてきた。そうでもしなければ、生きられなかった。
それに比べれば、涼景が考案した血の塊くらい、なんということはない。
自分の浅はかさ、涼景が言った通り、考えの甘い己に悔しさが込み上げてくる。犀星は黙ったまま、拳を握りしめた。玲陽を守る、とは、こういうことなのだ。彼の過去も、同時に背負って行かねばならない。
「涼景、助かった。あとは俺たちでできる」
その口調から、犀星の覚悟を信じたのだろう。涼景は安心したように息をつくと、東雨を庭へ連れ出した。
すでにすっかり日が落ちて、月明かりが周囲を照らしている。
「涼景様? 何かご用ですか?」
東雨はあくまでも犀星の従者であり、涼景に仕えている訳ではない。だが、ことあるごとに巻き込まれる。
涼景は、普段より深刻そうな顔をしている。
「東雨、あの二人から、絶対に目を離すな」
「どういう意味です?」
「危なっかしいんだ」
涼景は不安げな眼差しで月を見上げた。
「紙一重のところに死があるような気がする」
「光理様の容体が良くない、と?」
「今はな。だが、これ以上悪化はしないだろう。あいつが豚の血を食ってくれれば、半年で普通の暮らしに戻れるはずだ」
「それなら、心配はないです。光理様はしっかりなさっていますし」
「いや、心配なのは星の方だ」
「若様はお元気だと思いますけど」
「そうじゃない。気がつかないか?」
涼景は邸宅を振り返った。
「今までのあいつは、感情を表に出さなかった。だからこそ、避けられてきた問題も多い。弱みを握られることもなかった。陥れられずに済んだ」
「光理様がそばにいたら……」
「ああ。たとえそれが自然なことであったとしても、星は変わるだろう。表情も豊かになる。感情も口にする。そして、誰の目にも、陽は星の弱点だとわかる」
「そうならないよう、若様は光理様をお守りするだけの力をつけるため、十年間築いてきたはずです」
「だから、甘いと言っている。今日だって、すでに女たちが二人に群がっていた。どんな形で手を出してくるか、知れたものではない」
「涼景様」
「あいつが思っているほど、宮中は優しくはない。お前だって、知っているだろう」
東雨は突然、自分のことに話を振られて、黙り込んだ。
「お前が、同年代の子供たちと、熾烈な争いの中で勝ち残り、親王の稚児の座を掴んだことを、俺が知らないと思っているのか」
「…………」
「そのために、仲間や兄弟を何人殺した?」
「!」
弾かれたように、東雨は一歩、涼景から離れた。
「お前の素性がどんなものか、知らないのは星くらいなものだ」
「りょ、涼景様…… わ、若様には……」
「安心しろ、言わねぇよ」
星が苦しむようなこと、言える訳がないだろ。
自分のために、何人もの子供たちが、争い、傷つけあったなど、あの感傷的な犀星に耐えられるはずがない。
「涼景様」
東雨は息を整え、姿勢を正した。
「あなたは俺を……」
「信用していない」
きっぱりと涼景は両断した。
「だが、お前が十年間、星を助けてきたことは事実だ。それに賭けているだけだ」
東雨はしばらくじっと涼景を見つめた。
今の自分より幼い頃から、戦場で、血肉千切れる苦境をくぐり抜けてきた涼景の眼差しは、決して、東雨に破れるものではない。
「信用して、頂かなくても結構です」
東雨は開き直った。
「けれど、俺しか、頼れないことも、お忘れなく」
二人の間に、なぜか不思議な関係が生まれつつあった。
敵だ、と、互いが確信した瞬間かもしれない。
だが同時に、今は争う時ではないことも、両者共に知っている。
「後は頼んだ」
涼景はそのまま、屋敷を後にした。
その姿が見えなくなるまで、東雨は目をそらさずに見守る。
「燕涼景。あんた、勘が良すぎるんだ」
東雨の呟きは、月光の中へ静かに霧散していった。
厨房には、空になった椀が二つ、残されていた。主人たちの姿はない。
東雨は厨房から中庭に通じる扉に、内側からしっかりと鍵をかけ、椀を洗って伏せると、簡単にそこらの片付けを済ませた。それから、粥と作り置いてあった簡単な惣菜、二人分の茶を用意して盆に乗せ、犀星の部屋に向かう。さっきの騒動で、玲陽は夕飯代わりのものを食べていたが、犀星は夕餉を済ませていない。
「若様、夕膳をお持ちしました」
部屋の前で、東雨は声をかけると、いつも通り、返事を待たずに扉を開けた。
「こちらに、置いておきますね……」
と、中に一歩踏み込んで、思わず足が止まる。寝台にうつ伏せに寝転んだ玲陽の傍に、犀星が寄り添って座り、玲陽の髪を丁寧に櫛でといていた。
今の玲陽の体調を考えればありえないとは思いつつも、二人の間には情事の気配すらする。
「ん?」
東雨に気づいて、犀星は上体を起こした。
「ああ、済まないな。片付けるのは明日でいいから」
「あ、はい。……なぜ、若様のお部屋に光理様が?」
「今日は色々あって疲れたんだろう。ここで寝かせる」
犀星は自然な様子で、東雨が運んでくれた夕膳の前に座った。
「そ、そうですか……」
「東雨、あの豚の血の薬膳だが……」
「はい……」
「陽が自分で作るそうだ。屠殺場にも自分で行く、と」
「そ、そうですか……」
何を言われても、東雨は上の空だ。
玲陽は眠り込んでいるようで、身動きもしない。
「お前も、休んでいいから」
「は、はい。失礼致します」
東雨はそれ以上何も言えず、部屋を出た。
自分の部屋に向かう間、彼は何か胸の中で嫌なものが渦巻くのを感じ続けていた。
十年間、犀星を支えてきたのは自分だ。たとえそれが、帝からの言いつけであったとしても、決して疑われることがないよう、時として本当に命懸けで彼のために尽くしてきた。そうでもしなければ、信頼を勝ち取ることなど出来はしない。特に、犀星のような簡単に相手を信じないような者の心は得られない。
涼景が言った通り、共に育てられた同年代の子供たちは、皆、心を許せる相手ではなかった。周囲全てが敵であり、競争相手であり、勝者だけが生き残ることができる。そんな世界で、彼は生きてきた。
犀星に会うまでも、会ってからも、彼はずっと孤独の中にいた。誰からも愛されず、信用されず、利用されるだけの存在。それが、自分だ。
それなのに… と、東雨は歯を食いしばった。
玲陽…… 幼馴染み? 嘘だ。
毎日毎日、犀星は彼に宛てた手紙を書いていた。たまに、玲陽の方から手紙が届くこともあった。東雨は両者が書いたその内容を全て知っている。二人が互いに深く想いあい、それが友情を超えた愛であることを知った上で、破り捨て、焼き捨ててきた。歌仙親王を孤独にせよ、という宝順の命令もあったが、それだけではなかった。明らかに、自分の怒り、感情が溢れていた。
どうして、愛される? 自分はこんなに一人だ。
どうして、玲陽だけが、愛される?
付き合いの長い涼景でさえ、玲陽のために忙しい仕事の合間を縫って奔走する。そして、自分のことは信じない、とはっきりと言い切った。
どんなに尽くしても、それが偽りだからか?
何もしなくても、玲陽はどうして、周囲を惹き込んでいく?
今まで、感じたことのない、心の曇り、罪悪感でもなく、迷いでもない。恨みに近い、これは、嫉妬。
嫉妬。
その言葉の意味を、東雨は身をもって味わった。
自分は玲陽に嫉妬している?
そうでありながら、東雨もまた、彼の魅力に惹かれてもいる。嫌いになどなれない。
自分はどうしたいのか、自分でもわからない。
東雨の苦悶は、まだ、始まったばかりだった。
二人が都の邸宅に戻ったとき、すでに涼景は東雨を相手に酒を飲みつつ、厨房で待ちくたびれていた。
「俺が手配した籠は、そんなに遅れたか?」
「涼景……」
全てを知っていながら、明らかに冷やかしている涼景の顔を、犀星はまともに見られない。
自分達が何をしてきたのか、誰かに知られることが、こんなにも気まずいものなのだろうか。
「涼景様、何から何まで、ありがとうございます」
玲陽が、犀星の腕に捕まりながら、わずかに礼をした。
「光理様」
東雨が犀星に代わって、玲陽を支え、土間の上がりに横たえる。
「お体、辛くありませんか?」
「大丈夫です、東雨どの」
玲陽はいつもの穏やかな笑みを浮かべる。東雨も、この笑顔が好きだった。普段から、感情を見せない犀星と一緒に暮らしていると、人間としての喜怒哀楽さえ忘れそうになる。そこにきて、人らしい玲陽の仕草は安心できた。
「陽に水を……」
「俺がやろう」
涼景はさっさと自分で動いて、水と薬湯を用意すると、二つの腕を並べて玲陽の前に置いた。
「さて、それじゃ、覚えてもらうとするか」
涼景はいつの間にか、蓋のついた陶器の箱を、厨房の隅に持ち込んでいた。
「陽」
涼景は玲陽の顔の高さに合わせて膝をつくと、少し済まなそうな表情を浮かべた。
「これから、お前の身体に合わせて、料理のようなものを作る」
「料理のようなもの?」
「ああ。お前が食べることができて、栄養価があり、身体を回復させるための『もの』だ。だが、好みは分かれる」
「涼景様を信じています。私は従います」
「ありがたい。あまり、気味のいいものではないが、回復するまで、我慢してくれ」
「はい」
体のためになるならば、と、玲陽は大人しく頷いた。
「星、東雨、お前たちも作り方を覚えておいてくれ。日持ちする物じゃないから、作り置きはできない」
「わかった」
犀星は頷くと、気になっていた陶器の箱を目で示した。
「そいつか?」
「ああ、匂いが強いから、普段はここで保管するといい。これからの季節、虫はつかないと思うが……」
言いながら、涼景は箱の蓋をずらし、中から両手で包めるほどの大きさの瓶を取り出した。
「?」
どこかで、嗅いだことのある匂いが漂う。
「あ!」
一番最初に気づいたのは、玲陽だった。その青ざめた顔を見て、犀星も思い当たる。
「もしかして、それ……」
東雨が、わずかに声を震わせた。
涼景は感情を殺して、
「屠殺場からもらってきた、豚の血だ」
「なんでそんなものっ!」
と、叫んでから、犀星は全身が総毛立った。
栄養価のあるもの、匂い、我慢してくれ……
「お前、それを陽に飲ませる気か!」
「見ていろ」
涼景は敢えて犀星の抗議を無視して、腕を二つ用意すると、そこに血液を半分ほど注いだ。
空気に触れて、一部、固まりかけたその血は、時折、どろりと動く。
「慣れるまでは水で薄めてもいいが、できればそのまま使ってくれ。砂糖を足してから、塩を入れる」
犀星たちに説明するため、涼景は材料を並べ、実際にやって見せた。
「香草を擦って加えることで匂いを弱めることができるが、できるだけ固形物は入れたくないから、そいつは無しだ」
手際よく腕の中をかき混ぜると、血液が固まり始める。
「血が固まれば出来上がりだ。簡単だろ」
簡単、ではある。血液と、砂糖と、塩を混ぜるだけなのだから。
だが、出来上がったものを、どうするか、が、問題なのだ。
犀星は、ちらりと玲陽を見た。
玲陽が嫌がるなら、決して食べさせるつもりなどない。だが、むしろ、玲陽は落ち着いて腕の中を覗くように体を起こした。
「名案ですね」
「え!」
思わず、犀星と東雨の驚きの声が重なった。
「はい?」
玲陽がきょとん、として驚いている二人を見返す。
「血液なら、砂糖水と塩より栄養がありますし、屠殺場では捨てるだけのものですから、毎日、新鮮なものを手に入れられます」
「さすがは、陽。わかっている」
「いや、そういう問題じゃなくて……うっ!」
数歩、涼景に近づいて、ふっと匂ってきた碗の中身に、犀星は吐き気を覚えた。
「結局のところ、豚の血の煮凝りを食わせる、っていうことだろ!」
「本当は、お前の血が欲しいんだ」
涼景は、冗談とも思えない調子で言った。
犀星は驚愕に声も出ない。
「仕組みはわからないが、効果が高そうな気がするんでな」
「ダメですよ。余計なことを言っては」
玲陽が涼景をたしなめる。
「兄様のことですから、本当にやりかねません。毎日そんなことをされたら、兄様の方が失血死してしまいます」
「だが、陽。これは人が食べるようなものでは……」
「しかし、他に方法がありますか?」
他に、と問われれば、どうにも答えようのない犀星だが、かと言って自分も口にしたことのないものを、玲陽に食べさせるのは抵抗があった。
「大丈夫です、兄様」
玲陽は落ち着いていた。
「北方のある地方では、実際に豚の血液を料理に用いる地域があります。新鮮であれば心配はありません」
犀星は涼景が用意した椀を一つ、手に取った。明らかに血液の色そのものであり、それが弾力を持って固まった状態になっている。
「新鮮な血は、塩を入れると凝固するんだ」
涼景が差し出した匙で、犀星は椀の中身をつついた。確かに柔らかく、喉の通りも良さそうだが、とにかく初めての代物である。また、匂いにどうしても抵抗を感じる。
玲陽に先に食べさせるわけにはいかない、と、犀星は彼なりに勇気を出して、一口すくい、口へ入れた。
生ぬるく鉄くささが抜けない中に、さらに臭みが強く、数秒、こらえはしたものの、飲み込むことはできなかった。
「水……」
犀星は玲陽の前に置いてあった水を一気に飲み干した。
「駄目だ、認めない!」
「兄様」
「こんなもの、いくら陽に必要だからって……」
「だったらこのまま死なせるのか?」
犀星から顔を背けて、冷ややかに涼景は言った。
「戦場では、食糧がない時、どうやって生き残るか知っているか?」
「…………」
「星、お前は甘いんだ。陽、食ってみろ」
涼景は、犀星が投げ出した椀と匙を玲陽に渡した。
「いただきます」
玲陽はその匂いを嗅いでも、顔色ひとつ変えなかった。ただ、黙って中身をすくい、口へ運ぶ。何度か咀嚼してから、ごくん、と何事もないように飲み込んだ。
「陽、平気なのか?」
「…………いえ」
もう一口、玲陽は飲み込んでから、
「でも、大丈夫です。もっと酷いものを口にして、生きてきましたから」
スッと、犀星の背中が冷える。
玲陽は、自分を安心させるために強がっている訳ではない。
彼の言葉は真実だ。
彼は今まで、見ず知らずの男の精や糞尿を糧としてきた。そうでもしなければ、生きられなかった。
それに比べれば、涼景が考案した血の塊くらい、なんということはない。
自分の浅はかさ、涼景が言った通り、考えの甘い己に悔しさが込み上げてくる。犀星は黙ったまま、拳を握りしめた。玲陽を守る、とは、こういうことなのだ。彼の過去も、同時に背負って行かねばならない。
「涼景、助かった。あとは俺たちでできる」
その口調から、犀星の覚悟を信じたのだろう。涼景は安心したように息をつくと、東雨を庭へ連れ出した。
すでにすっかり日が落ちて、月明かりが周囲を照らしている。
「涼景様? 何かご用ですか?」
東雨はあくまでも犀星の従者であり、涼景に仕えている訳ではない。だが、ことあるごとに巻き込まれる。
涼景は、普段より深刻そうな顔をしている。
「東雨、あの二人から、絶対に目を離すな」
「どういう意味です?」
「危なっかしいんだ」
涼景は不安げな眼差しで月を見上げた。
「紙一重のところに死があるような気がする」
「光理様の容体が良くない、と?」
「今はな。だが、これ以上悪化はしないだろう。あいつが豚の血を食ってくれれば、半年で普通の暮らしに戻れるはずだ」
「それなら、心配はないです。光理様はしっかりなさっていますし」
「いや、心配なのは星の方だ」
「若様はお元気だと思いますけど」
「そうじゃない。気がつかないか?」
涼景は邸宅を振り返った。
「今までのあいつは、感情を表に出さなかった。だからこそ、避けられてきた問題も多い。弱みを握られることもなかった。陥れられずに済んだ」
「光理様がそばにいたら……」
「ああ。たとえそれが自然なことであったとしても、星は変わるだろう。表情も豊かになる。感情も口にする。そして、誰の目にも、陽は星の弱点だとわかる」
「そうならないよう、若様は光理様をお守りするだけの力をつけるため、十年間築いてきたはずです」
「だから、甘いと言っている。今日だって、すでに女たちが二人に群がっていた。どんな形で手を出してくるか、知れたものではない」
「涼景様」
「あいつが思っているほど、宮中は優しくはない。お前だって、知っているだろう」
東雨は突然、自分のことに話を振られて、黙り込んだ。
「お前が、同年代の子供たちと、熾烈な争いの中で勝ち残り、親王の稚児の座を掴んだことを、俺が知らないと思っているのか」
「…………」
「そのために、仲間や兄弟を何人殺した?」
「!」
弾かれたように、東雨は一歩、涼景から離れた。
「お前の素性がどんなものか、知らないのは星くらいなものだ」
「りょ、涼景様…… わ、若様には……」
「安心しろ、言わねぇよ」
星が苦しむようなこと、言える訳がないだろ。
自分のために、何人もの子供たちが、争い、傷つけあったなど、あの感傷的な犀星に耐えられるはずがない。
「涼景様」
東雨は息を整え、姿勢を正した。
「あなたは俺を……」
「信用していない」
きっぱりと涼景は両断した。
「だが、お前が十年間、星を助けてきたことは事実だ。それに賭けているだけだ」
東雨はしばらくじっと涼景を見つめた。
今の自分より幼い頃から、戦場で、血肉千切れる苦境をくぐり抜けてきた涼景の眼差しは、決して、東雨に破れるものではない。
「信用して、頂かなくても結構です」
東雨は開き直った。
「けれど、俺しか、頼れないことも、お忘れなく」
二人の間に、なぜか不思議な関係が生まれつつあった。
敵だ、と、互いが確信した瞬間かもしれない。
だが同時に、今は争う時ではないことも、両者共に知っている。
「後は頼んだ」
涼景はそのまま、屋敷を後にした。
その姿が見えなくなるまで、東雨は目をそらさずに見守る。
「燕涼景。あんた、勘が良すぎるんだ」
東雨の呟きは、月光の中へ静かに霧散していった。
厨房には、空になった椀が二つ、残されていた。主人たちの姿はない。
東雨は厨房から中庭に通じる扉に、内側からしっかりと鍵をかけ、椀を洗って伏せると、簡単にそこらの片付けを済ませた。それから、粥と作り置いてあった簡単な惣菜、二人分の茶を用意して盆に乗せ、犀星の部屋に向かう。さっきの騒動で、玲陽は夕飯代わりのものを食べていたが、犀星は夕餉を済ませていない。
「若様、夕膳をお持ちしました」
部屋の前で、東雨は声をかけると、いつも通り、返事を待たずに扉を開けた。
「こちらに、置いておきますね……」
と、中に一歩踏み込んで、思わず足が止まる。寝台にうつ伏せに寝転んだ玲陽の傍に、犀星が寄り添って座り、玲陽の髪を丁寧に櫛でといていた。
今の玲陽の体調を考えればありえないとは思いつつも、二人の間には情事の気配すらする。
「ん?」
東雨に気づいて、犀星は上体を起こした。
「ああ、済まないな。片付けるのは明日でいいから」
「あ、はい。……なぜ、若様のお部屋に光理様が?」
「今日は色々あって疲れたんだろう。ここで寝かせる」
犀星は自然な様子で、東雨が運んでくれた夕膳の前に座った。
「そ、そうですか……」
「東雨、あの豚の血の薬膳だが……」
「はい……」
「陽が自分で作るそうだ。屠殺場にも自分で行く、と」
「そ、そうですか……」
何を言われても、東雨は上の空だ。
玲陽は眠り込んでいるようで、身動きもしない。
「お前も、休んでいいから」
「は、はい。失礼致します」
東雨はそれ以上何も言えず、部屋を出た。
自分の部屋に向かう間、彼は何か胸の中で嫌なものが渦巻くのを感じ続けていた。
十年間、犀星を支えてきたのは自分だ。たとえそれが、帝からの言いつけであったとしても、決して疑われることがないよう、時として本当に命懸けで彼のために尽くしてきた。そうでもしなければ、信頼を勝ち取ることなど出来はしない。特に、犀星のような簡単に相手を信じないような者の心は得られない。
涼景が言った通り、共に育てられた同年代の子供たちは、皆、心を許せる相手ではなかった。周囲全てが敵であり、競争相手であり、勝者だけが生き残ることができる。そんな世界で、彼は生きてきた。
犀星に会うまでも、会ってからも、彼はずっと孤独の中にいた。誰からも愛されず、信用されず、利用されるだけの存在。それが、自分だ。
それなのに… と、東雨は歯を食いしばった。
玲陽…… 幼馴染み? 嘘だ。
毎日毎日、犀星は彼に宛てた手紙を書いていた。たまに、玲陽の方から手紙が届くこともあった。東雨は両者が書いたその内容を全て知っている。二人が互いに深く想いあい、それが友情を超えた愛であることを知った上で、破り捨て、焼き捨ててきた。歌仙親王を孤独にせよ、という宝順の命令もあったが、それだけではなかった。明らかに、自分の怒り、感情が溢れていた。
どうして、愛される? 自分はこんなに一人だ。
どうして、玲陽だけが、愛される?
付き合いの長い涼景でさえ、玲陽のために忙しい仕事の合間を縫って奔走する。そして、自分のことは信じない、とはっきりと言い切った。
どんなに尽くしても、それが偽りだからか?
何もしなくても、玲陽はどうして、周囲を惹き込んでいく?
今まで、感じたことのない、心の曇り、罪悪感でもなく、迷いでもない。恨みに近い、これは、嫉妬。
嫉妬。
その言葉の意味を、東雨は身をもって味わった。
自分は玲陽に嫉妬している?
そうでありながら、東雨もまた、彼の魅力に惹かれてもいる。嫌いになどなれない。
自分はどうしたいのか、自分でもわからない。
東雨の苦悶は、まだ、始まったばかりだった。
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【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
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永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
フローブルー
とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。
高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。
黄色い水仙を君に贈る
えんがわ
BL
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「ねぇ、別れよっか……俺たち……。」
「ああ、そうだな」
「っ……ばいばい……」
俺は……ただっ……
「うわああああああああ!」
君に愛して欲しかっただけなのに……
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
目が覚めたら囲まれてました
るんぱっぱ
BL
燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。
燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。
そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。
チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。
不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で!
独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。
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