あるバーのマスターの話

刹那玻璃

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第2章

『くちびるNetwork』

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 今現在、ともえは一人暮らしをしている。
 実家に戻ることも滅多にない。

 実は、息子の愚行にようやく目が覚めた家族が、いることを思い出した巴をあの手この手で連れ戻そうとしていた。
 会社の行き帰りに待ち伏せしたり、大家に連絡して、実家に電話をするように頼んだり。
 しかし巴は、もう実家を見限っており、そして、義父一家の元で一緒に住むことを楽しみにしている為、実は先輩であり付き合い始めた大輔に相談していた。
 大輔は早めの引越しを勧めたが、今は引越しシーズンで予約が取れず、それに一時的に身を寄せるにも義父の家は仕事の関係で昼夜逆転の上に赤ん坊がいる為、すぐ準備はできず、そして自分の家では駄目だから、誰かの家に移ってはどうかと言って、今日迎えに来ると言ってくれていた。
 荷物を簡単にまとめ、昼食をコンビニに買いに行って戻ってみると、何故か草履があった。
 部屋に駆け込むと、いるはずのない人がいた。
 勝手に入っていたのは着物姿の母である。
 鍵は、何かあった時にと義父にこの間渡しただけで誰にも渡していないのに、どうして、と愕然とする。

「何で来たの? それに勝手に人の家に入らないで!」
「何言ってるの。貴方は靫原ゆぎはら家の者なのよ?」
「こちらが聞きたいわ。今更、何言ってるの? 伯父さんに養女に出したのは誰?」
「お母さんじゃありませんよ。お父さんに聞きなさいな」

 勝手に入ったにもかかわらず悪びれもせず、セリフもそっけない。
 しかも、巴の大事にしていた、留学先で集めた小物などや飾りを、

「こんな安っぽいもの、靫原には似合わないわ。全部捨てなさい。それから、さぁ、今から素敵なお着物を選びに行きましょう」

とぽいっと投げた。

「勝手に部屋に入って、人の宝物をそんな風に扱うの、やめてほしいって言っているの。今更でしょ?」
「何が?」
「お父さんもお母さんもおじいちゃんも、お兄ちゃんが大事だったじゃない。私は彰一しょういち伯父さんやメイドさん達しか知らないわ! お母さんは無視してたでしょ?」
「お母さんは無視なんてしてないわ! 彰一さんね? そんな告げ口をしたのは! あの人は靫原の恥よ! 今なんて……」
「伯父さん……お父さんの悪口を言わないで!」

 大声で言い返す。

「お父さんは私をみてくれた! 私はお父さんの娘よ? 私はいらないからお父さんにあげると言ったのは、お母さん達じゃない!」

 留学中に集めた可愛い小物を取り戻した巴は、母を見る。

「出て行って! 私は靫原巴じゃない! 粟飯原巴あいばらともえです! もうそちらの家とも関係はないです!」
「巴!」

 振り上げられた手から逃れようとする巴。

「何してるんですか?」

 その声にハッとすると、遼一りょういちを抱っこしたはるかである。

「人の娘の家に勝手に上がって、その上、暴力を振るうだなんて! 何を考えているんですか! 巴ちゃん!」

 手を引っ張られたが、自分の背中で巴と遼一を守るようにかばっている。

「大丈夫? 巴ちゃん。怪我をしていない? ごめんなさいね? 来るのが遅くなって、ごめんなさいね!」
「お、お母さん……ありがとう」

 瞳が潤み、抱きつく。

「巴! 貴方の母は私でしょう! こんな、どこの馬の骨とも分からない女を何故、母と呼ぶの!」
「馬の骨だって何かの役に立ちますよね? それに巴ちゃんにとって、馬の骨じゃなく私が母です。ね? 巴ちゃん」
「はい! お母さんは私のお母さんです! このおばさんは知りません!」

 大好きな、仲良しの義母の遼を、馬の骨と罵る実母を睨みつける。

「出て行って下さい! 勝手に入ってきたって通報しますよ!」
「あ、もう通報した~巴」

 入ってきたのは、巴が必死に書き上げた企画を認めてくれ、それをそのまま企画会議に提出してくれた大輔。
 大変だったのはその後。
 未熟な自分の企画をもっと大々的にすると言い、大輔は親友でカナダ支店にいる理央りおうと、他の支店の社員とやり取りをして、大口の仕事を立ち上げた。
 ちなみに後で聞くと、他の会社の友人の宣子のりことその婚約者の雄洋たけひろ、理央の婚約者の祐実ゆみの会社にまで手を広げ、あれこれと立ち回り、某会社に大損害を与えたのだという。

「こんにちは、靫原の社長夫人ですか? 自分の旦那が大損したからって、他社の人間に暴力とは、最悪ですね」
「何ですって!」
「そうでしょう? 靫原の社長が金だけ吸い上げてた中小企業団体があって、俺が調べてその中小企業に話を持ち込んで、YUGIHARAから手を切って、うちや他社と契約を結んだ。俺は谷本大輔。その企画の代表です」
「あ、あ、あの、貴方だったの! このYUGIHARAの名を失墜させたのは!」

 赤黒く紅潮する顔は、巴にとって恐怖でしかない。
 この顔で、この女は……。

「お前のような男が、私に恥をかかせたのね! 許せないわ! 巴! 来なさい! 来ないと!」

 着物の帯に挟んでいたのは、こうがい
 中国でも日本でも用いられる、髪を結い上げまげを作ったり、頭がかゆい時に形を崩さないように用いる。
 しかし、もう一つは、日本刀の大刀だいとうの付属品としての笄。
 こちらは、小柄こずかに似ているが、女性が身に帯びる事ができる細く小さい刀。
 それをちらつかせ、しかも子供を抱いた遼にふりかざそうとしている。

「撮ってますよ」

 雄洋がビデオカメラを手に、姿を見せ遼を庇った。
 同じくカメラを構えた宣子が、巴を引き寄せる。

「靫原の社長夫人が、赤ん坊を抱いた女性を傷つけようとするなんて……恐ろしいね。宣子」
「本当……巴ちゃん大丈夫だった? この人って自分の思い通りにならないと、お手伝いさんに暴力を振るったりを度々してるって。特に一人娘を普段はいないものと無視して、何かカッとなると暴力を振るうんだって、その奥様方には有名な鬼嫁なんですって」
「なっ……」

 蒼白になる靫原夫人に、宣子は、

「私の義母、つまり夫のお母様は、貴方の旦那様と同級生でよく知っているそうですわぁ。女性を度々つまみ食いする夫にではなく、女性に暴力を振るって、靫原の名前を振りかざして黙らせていたそうですね。自分の夫が一番悪いのに」

言い放つ。

「今回も自分の思い通りにならないから? 冗談じゃないわ。巴ちゃんは人形でも何でもないの! 靫原の人間でもないって言ったのは貴方達でしょ? 今更、縛りつけようとしないでよ! 巴ちゃんをこれ以上傷つけないで頂戴!」
「巴は!」

 叫ぼうとした女の声に、遼の腕の中で眠っていた遼一が目を覚まし、顔をくしゃくしゃにすると、

「ぎゃぁぁぁ~! マンマ~! まぁま~! にゃぁぁ!」

泣きじゃくり始める。
 すると、女は片方の耳を押さえ叫び始める。

「うるさい! 何なの一体! 叫ぶな! 泣くな! 叩くわよ!」

 笄を振り回す女に、大輔は安全な場所に誘導しながら、

「赤ん坊は敏感なんだ! 自分を守ってくれる母を、一番愛してくれると理解する。でも、あんたは赤ん坊にとって危害を加える存在なんだな? 巴にとってもそうだって事だ!」

すると、バタバタと数人の警察官が現れ、

「どうしましたか?」

大輔が示す。

「あの人が、私の会社の後輩のこの家に勝手に侵入し、あんなものを持って暴れています」
「刃物!」
「ち、違うわ!」

 慌てて床に投げるが、証拠品にしかならない。

「申し訳ありませんが、警察に……」
「嫌よ! 私は娘の家に来ただけ! 私は靫原財閥の社長夫人よ! 靫原に楯突いていいと思っているの?」
「悪党の逃げる時のセリフみたいだな」

 大輔は嗤う。

「財閥だか何だか知んねえけど、あんたは赤ん坊を抱いた母親と、攻撃するすべもない女性に、武器を振り回した犯罪者だよ。本当に……」

 大輔は巴と遼、遼一の頭を撫でる。

「遼さんは、マスターがいないので。巴は……よく頑張ったな。偉い偉い」

 連れて行かれる母だった人を見送り、巴はガタガタと震え始める。

「こ、怖い……だ、大丈夫……大輔さんやお母さんがいる……でも、あぁ……」
「巴、落ち着け! 大丈夫。俺や皆がお前を守る!」
「ほ、本当ですか? 大輔さん……」
「あぁ」

 大輔が抱きしめると、巴は意識を失ったのだった。



 巴が意識を取り戻すと、昔のアイドルの曲が流れてくる。
 最近リバイバルしているが、この曲はあまり聞いた事がない。
 いや、小さい頃、母が暴れて殴られたり、笄で切られた巴を病院に連れて行ってくれた義父の彰一の車の中で、かけられていた曲の一つである。

「この曲は? 伯父様」
「岡田有希子さんというアイドルの遺した歌でね? 若くして亡くなったんだ。とても歌がうまかったから残念だったなぁ」
「じゃぁ、巴、練習して伯父様に歌うね? 聞いてくれる?」
「そうだね。おじさんは嬉しいよ。でも、この曲はきっと巴の一番好きになった人に聞いて貰った方がいいよ」

 ハンドルを握り、赤信号の時、助手席の巴に笑いかける。

「大好きだよ、可愛い私の娘。その時にね?……」



 あぁ、この曲だ……。
 お父さんが、大好きな人に歌ってあげなさいと言っていたのは……。

「巴、大丈夫かい?」

 声がかかる。
 その場所は前に掃除の手伝いに来た、お父さんの仕事場の休憩室。

「お、お父さん! お母さんは? 遼一君は?」
「大丈夫だよ。それよりも起きられるかな?」
「はい!」

 身体を起こし、簡単に身支度を整えると、出て行く。
 すると、大輔と雄洋、宣子がお酒を飲んでいた。

「大丈夫? 巴ちゃん!」
「はい! 宣子さんも雄洋さんも大丈夫でしたか?」
「大丈夫。一応映像のコピーを提出しておいたわ」
「……あの人は、昔から機嫌が悪いとあぁやって……」

 目を伏せる。
 娘をいたわるように、

「巴? 覚えているかな?」

お父さんに微笑んだ巴は、コソコソっと耳打ちする。

 ふふふ……

楽しげに笑った彰一は、何かの準備を始める。
 出来上がったカクテルを、巴に渡し、巴はゆっくりとカクテルを大輔の元に持っていく。

「ん? これは?」
「今日はありがとうございます。大輔さん。えっと、これはカシスソーダです」
「えっと、よく注文するから解るけど……って、俺じゃないぞ! 宣子さんや理央や祐実さんだ!」
「えと……大輔さん! 貴方はこのカクテルみたいです! 大好きです! 結婚して下さい!」

 そのセリフに、ガンッとテーブルに頭をぶつけた大輔に、巴は瞳を潤ませる。

「だ、ダメです……よね。急に言って、ごめんなさい」
「ち、違う!」

 大輔はポケットを探り、小さな箱を取り出し、

「お、俺も、いつ言おうかと……思っていたんだ。先に言われるなんて、びっくりした。ありがとう……」
「大輔さん……」
「……大輔さん。娘をよろしくお願いしますよ。ちなみに、本当は男性から女性にカシスソーダを勧めるのが良いんです。カクテル言葉は『君は魅力的』という意味なので」
「ま、マスター……俺、ものすごく情けない気がする」

大輔の声に、周囲は笑い出した。
 そして、大輔も一緒に笑い、カクテルを飲み干したのだった。
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