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A Whole New World ~新たな世界へ
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「ま、待ってくれ! お前、今なんつった?!」
リュウセイは狼狽えて思わずコーヒーを吹き出しそうになりながら叫んだ。
「お前って言うな!」
ユキナはまた彼を指さしながら、怒った顔でそう言った。
「わ、悪い……。 じゃなくて! もう一度言ってくれないか?」
リュウセイは謝りながらも少し落ち着こう、と椅子に深く座り直しながら言って彼女を複雑な顔で見た。
ユキナは両手を広げてやれやれ、というようなポーズをしながら答える。
「……言葉通りよ」
「ま、待ってくれ。 なんだその突然すぎる展開は! ユキナ、だっけ? 俺は君の事を全く知らないし、何がなんだかわからん」
ユキナはふぅ、と小さくため息をつくと、テーブルに肘をついて両手を組むとそこに顎を載せて彼を見つめた。
「まぁ、そうね。 順を追って話さないといきなりそんな事言われてもオジサンも困るよね」
「お、おじさん……」
リュウセイはその呼ばれ方に少々傷つきながらも彼女の様子を窺った。
「ねえリュウセイオジサン。 あなたこの子の言葉はわからないみたいよね?」
ユキナはそう言って膝の上にいるシュレを抱き上げて見せた。
「な? 猫の言葉なんかわかるわけないだろ?」
彼は訝しみながら何を急に言い出すんだと、意外そうな顔になった。
「うん。 まぁ、そうだよね。 そういう段階か……」
彼女はそう独り言のように言ってまた手に顎を載せて少し思案しているようだ。
なにがなんだかわけがわからずリュウセイはひたすら狼狽えて目を白黒させている。
ユキナはしばらく考え込んだあとで胸ポケットに手を入れると何やら紙に包まれた薬のようなものを取り出した。
「まぁ、たぶん体感してもらわないとわからないと思うから。 とりあえず今日はオジサンこれを飲んで休んで。 詳しい事は明日話しましょう」
そしてそう言ってその紙包みを差し出した。
「これは?」
リュウセイが怪しそうに紙包みを指で突つきながら訪ねるとユキナはくすっと笑った。
「大丈夫よ。 毒なんか入ってないから! 私たち一族が話をするにはこれが必要なの」
「一族?」
彼が聞き返すと彼女はこくんと頷いた。
「ええ。 あなたとあたしは親戚同士らしいの」
「な、なんだって? 俺は天涯孤独だぞ? 親類がいるなんて今まで聞いた事もない……」
リュウセイはそう言いながらも、自分と同じ、いやそれ以上の身のこなしの軽さとあの赤く輝く瞳を持った彼女の姿を思い出した。
親戚というのは今のところどうかはわからないが、自分と近しい存在である事はわかる。
「大滝リュウセイ。 あなたのお父さんは大滝貴生、お母さんは繭、で間違いないわね?」
「あ、ああ……。 だが。なぜそれを?」
彼が驚いた顔のまま聞き返すとユキナはうんうん、と頷いた。
「あなたが子供の頃にご両親は亡くなったのよね?」
「その通りだ……」
「そのせいであなたを探し出すのに長い時間がかかってしまったんだ、とお祖母ちゃんは言ってたわ」
ユキナはそう言って彼を見つめた。
「あなたのお母さん、繭さんはお祖母ちゃんの姪なの。 そしてあたしのお母さんはお祖母ちゃんの娘。 つまりあたしたちは『はとこ』って事になるわね」
リュウセイは唖然としながら彼女の言葉を聞いていたが、なぜか胸の奥がじんと痛くなった。
幼い頃に両親を亡くし、ずっと天涯孤独でつらい思いをして生きてきた日々が走馬灯のように思い出される。
それが今になって自分に親戚がいた、などと、自分に血のつながった親族がいたなどと言われたらなんとも言えない思いが彼の胸に去来しているのだ。
「少し……少し待ってくれ……」
彼はかすれたような声でそうやっと言って、その目を押さえて声を殺して泣いてしまった。
こんな年端も行かない少女の目の前で大の男が涙を流すなど恥ずかしい、とも思うがどうしようもなく涙が溢れて止まらなかった。
いい年をした男が泣きじゃくる姿をユキナは少し優し気な顔で黙って眺めていた。
彼が少し落ち着くと、彼女はつつ、と先ほどの錠剤を指先で彼の前へと差し出した。
「そういうわけでとりあえずこれを飲んで?」
リュウセイはタオルを持ってきて顔を拭きながらまじまじとそれを見た。
「それで……この薬は結局なんなんだ?」
彼は紙包みを開きながらそう言った。
それには真っ赤な錠剤がひとつ入っていた。
濃い赤い色をしている、そうまるで血のような。
そしてそれを見た瞬間、リュウセイはまたあの渇きを感じた。
もしかして自分が欲しているのはこれなのか? と思いながらも少し恐怖心を感じる。
だがついついその手をその錠剤に伸ばしてしまう。
「飲めばわかるわ。 なんにせよ、詳しい話は明日……」
ユキナがそう言うのを聞きながらリュウセイはその手を停めた。
「なんで、明日なんだ?」
「それを飲んだら、オジサン今日はたぶんすごく眠くなって話どころじゃないから」
彼女はにんまりと笑いながらいたずらっぽくそう言った。
ごくり、とリュウセイは喉を鳴らしながら恐る恐る錠剤へと手をまた伸ばした。
ええい、ままよ!
彼は覚悟を決めて自分の耐えがたい欲求に従う事にした。
欲しい、この薬が欲しい。
なぜか体がそう叫ぶのだ。
ユキナは怖いほどの真顔になって呟くように彼に命じた。
「お飲みなさい」
彼の全身に怖気が走り、その言葉には到底抗えなかった。
何故なのかはわからない。
彼女の強い言葉には絶対に逆らえないのだ。
理由はわからないがそれだけは確かだった。
リュウセイが錠剤を飲み込むとユキナの言う通りすぐに眩暈のような眠気が襲ってきた。
「こ、これは……なんなんだ……?」
彼が絞り出すように呻くのを聞きながらユキナは彼を見下ろしながら、少し笑った。
「ヒトの血で作った錠剤よ」
なんだと? と消えゆく意識で思いながら彼はそのまま昏睡していった。
昏倒したリュウセイを見下ろしながらユキナは悲し気なような嬉し気なような複雑な表情をして独り言ちた。
「ごめんね。 あなたはもうヒトの世界には戻れなくなるかもしれない……」
翌朝リュウセイは目を覚ますと茫然としながら部屋の天井を眺めた。
やけに寝覚めがよかった。
着替えずに寝てしまったのでワイシャツを着たままだった。
布団に寝ているのはユキナが運んだのだろうか?
あの華奢な娘がよくも体の大きな彼を寝室まで運んで布団に寝かせたものだ、などと思う。
そこで彼はハッと気づいた。
ユキナ! 彼女はどうしたのだろうかと。
体を起こすとその横に何やらある、というかいるのを感じてリュウセイは布団をめくってみた。
するとユキナが彼の腹あたりにしがみつくように寝ていて、すぅすぅと寝息を立てていた。
「え、えぇと……」
リュウセイはわずかに混乱しながら彼女を起こさないように、そっとその手を自分の体から離すと布団から這い出てひとつ伸びをした。
目覚まし時計を見るとまだ朝の五時すぎである。
えらい早い時間に目を覚ましたものだ、と思いながらくしゃくしゃになったワイシャツを脱いで、同じくしわになったスラックスを脱ぐとひとつ溜息をついた。
取り急ぎジャージの下を履いてTシャツを手に持って洗面所に向かいながら、やけに自分の体が軽い事に気が付いた。
いや、体が軽いというか全身に生気が漲っているような、そんな感じだった。
思わず彼は腕に力を入れて力こぶを作りそのまま振り回してみる。
ベランダに出て朝の心地よい空気を吸いながら、そのままベランダの手すりになんとなくひょい、と飛び乗った。
不思議な感覚だった。
いつものあのぞわぞわと高揚感のある夜とも違う。
もっともっと体に力が溢れているような感じがした。
そもそもこの古いアパートの華奢な手すりに普通に考えて成人男性が乗れるはずがない。
そんな事をすれば体重でひん曲がってしまうだろう。
だがまるでそんな事もなく、ものすごく体が軽い、というかまるで自分の重さがなくなったようだった。
事実手すりはなんともなく、飛び乗った音すらもしないのだ。
ふと彼は思いついたように手すりからわざと足を外すとすとんと落ちた。
ここは三階である、だが彼はそのまま音もなく地面へと降りると、何事もないかのように自らの住む部屋のベランダを見上げた。
「なんだ? これは?」
リュウセイはそう独り言をいいながら、またひょい、と飛び上がるとベランダに戻った。
気持ち悪いほどの身の軽さだ。
やはり音はしない。
そしてなぜそう思ったのかは自分でもわからないまま、そのままなぜか彼はアパートの壁に手を伸ばすと壁面へと移った。
彼は首を捻りながら、なぜかそれをできる、と確信してすっと立ち上がった。
そう、彼は垂直な壁面に……立ち上がった。
彼の体重がない、とかそういう問題ではなかった。
完全に物理法則を無視している。
いくらなんでもおかしい、なんて話ではなかった。
何せ壁面に真横にまっすぐ立っているのだ。
彼はそのまま歩いてベランダに戻るとTシャツを肩に引っかけてなんとも微妙な表情をしながら洗面所へと向かった。
とりあえず歯ブラシに歯磨き粉を練り出してそれを無造作に口に突っ込んでなんとなく鏡を見て彼は目を剥いた。
ただでさえあまり老けずに若く見える方なのだが、そこに映っているのはそれこそ若々しい青年そのものだったからだ。
「はぁぁぁ!?」
思わず声を出しながらマジマジと鏡を覗き込む。
何度見ても若返っていた。
そしてその目は昨晩のようにまるで獣のように赤く輝きを放っていた。
さらに複雑な表情になりながら歯ブラシを手に持って歯を磨こうとして、違和感を感じて手を停めた。
彼は鏡をまた覗き込むと口を開けてみた。
「!!!!」
彼は驚いて後ずさってから、また恐る恐る鏡を覗いて、指で口の横を広げてみた。
彼の犬歯は長く伸びて、それはまさに『牙』のようになっている。
「ど、どういう事だこれは!!」
あまりの驚きに思わず少し大きな声を出すと、後ろでおかしそうな笑い声が聞こえた。
ふり向くとユキナが両手でシュレを抱えるように抱いて今にもひっくり返りそうな勢いで笑っていた。
「お、おい! ユキナ!! どうなってるんだ! 説明してくれ!!」
リュウセイが必死の形相で言うと彼女は目から涙をこぼすほど笑いながら、頷いた。
「うん、順番に説明してあげる!」
彼女がそう言った瞬間にその腕からシュレが飛び降りてリュウセイの足に頭を擦りつけながらまとわりついた。
「あ、ああ……ごめんな、シュレ。 お前とりあえずご飯だな」
リュウセイが少し落ち着きを取り戻しながらそう言うとシュレは彼を見上げて嬉しそうにしっぽを振った。
「うん、ごしゅじん! ぼくおなかぺっこぺこだよ!」
「そうかそうか、待ってろよ~……」
リュウセイはにこやかにシュレ を抱いて台所に向かう足をぴたり、と停めた。
「しゅ、シュレさん? あなた今なんと?」
彼はシュレを抱き上げてその顔をじっと見つめて恐る恐るそう尋ねた。
「ぼく、おなかぺっこぺこだよ! って言ったの!」
シュレがそう言うとリュウセイは驚きのあまり腰を抜かしそうな勢いでその場に尻もちをついた。
だが、音はしない。
「お、おい!! ユキナ!!!」
彼が叫んで傍らの少女に縋るような目を向けると、彼女はまたそれを見て腹を抱えて笑い出した。
リュウセイは狼狽えて思わずコーヒーを吹き出しそうになりながら叫んだ。
「お前って言うな!」
ユキナはまた彼を指さしながら、怒った顔でそう言った。
「わ、悪い……。 じゃなくて! もう一度言ってくれないか?」
リュウセイは謝りながらも少し落ち着こう、と椅子に深く座り直しながら言って彼女を複雑な顔で見た。
ユキナは両手を広げてやれやれ、というようなポーズをしながら答える。
「……言葉通りよ」
「ま、待ってくれ。 なんだその突然すぎる展開は! ユキナ、だっけ? 俺は君の事を全く知らないし、何がなんだかわからん」
ユキナはふぅ、と小さくため息をつくと、テーブルに肘をついて両手を組むとそこに顎を載せて彼を見つめた。
「まぁ、そうね。 順を追って話さないといきなりそんな事言われてもオジサンも困るよね」
「お、おじさん……」
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「ねえリュウセイオジサン。 あなたこの子の言葉はわからないみたいよね?」
ユキナはそう言って膝の上にいるシュレを抱き上げて見せた。
「な? 猫の言葉なんかわかるわけないだろ?」
彼は訝しみながら何を急に言い出すんだと、意外そうな顔になった。
「うん。 まぁ、そうだよね。 そういう段階か……」
彼女はそう独り言のように言ってまた手に顎を載せて少し思案しているようだ。
なにがなんだかわけがわからずリュウセイはひたすら狼狽えて目を白黒させている。
ユキナはしばらく考え込んだあとで胸ポケットに手を入れると何やら紙に包まれた薬のようなものを取り出した。
「まぁ、たぶん体感してもらわないとわからないと思うから。 とりあえず今日はオジサンこれを飲んで休んで。 詳しい事は明日話しましょう」
そしてそう言ってその紙包みを差し出した。
「これは?」
リュウセイが怪しそうに紙包みを指で突つきながら訪ねるとユキナはくすっと笑った。
「大丈夫よ。 毒なんか入ってないから! 私たち一族が話をするにはこれが必要なの」
「一族?」
彼が聞き返すと彼女はこくんと頷いた。
「ええ。 あなたとあたしは親戚同士らしいの」
「な、なんだって? 俺は天涯孤独だぞ? 親類がいるなんて今まで聞いた事もない……」
リュウセイはそう言いながらも、自分と同じ、いやそれ以上の身のこなしの軽さとあの赤く輝く瞳を持った彼女の姿を思い出した。
親戚というのは今のところどうかはわからないが、自分と近しい存在である事はわかる。
「大滝リュウセイ。 あなたのお父さんは大滝貴生、お母さんは繭、で間違いないわね?」
「あ、ああ……。 だが。なぜそれを?」
彼が驚いた顔のまま聞き返すとユキナはうんうん、と頷いた。
「あなたが子供の頃にご両親は亡くなったのよね?」
「その通りだ……」
「そのせいであなたを探し出すのに長い時間がかかってしまったんだ、とお祖母ちゃんは言ってたわ」
ユキナはそう言って彼を見つめた。
「あなたのお母さん、繭さんはお祖母ちゃんの姪なの。 そしてあたしのお母さんはお祖母ちゃんの娘。 つまりあたしたちは『はとこ』って事になるわね」
リュウセイは唖然としながら彼女の言葉を聞いていたが、なぜか胸の奥がじんと痛くなった。
幼い頃に両親を亡くし、ずっと天涯孤独でつらい思いをして生きてきた日々が走馬灯のように思い出される。
それが今になって自分に親戚がいた、などと、自分に血のつながった親族がいたなどと言われたらなんとも言えない思いが彼の胸に去来しているのだ。
「少し……少し待ってくれ……」
彼はかすれたような声でそうやっと言って、その目を押さえて声を殺して泣いてしまった。
こんな年端も行かない少女の目の前で大の男が涙を流すなど恥ずかしい、とも思うがどうしようもなく涙が溢れて止まらなかった。
いい年をした男が泣きじゃくる姿をユキナは少し優し気な顔で黙って眺めていた。
彼が少し落ち着くと、彼女はつつ、と先ほどの錠剤を指先で彼の前へと差し出した。
「そういうわけでとりあえずこれを飲んで?」
リュウセイはタオルを持ってきて顔を拭きながらまじまじとそれを見た。
「それで……この薬は結局なんなんだ?」
彼は紙包みを開きながらそう言った。
それには真っ赤な錠剤がひとつ入っていた。
濃い赤い色をしている、そうまるで血のような。
そしてそれを見た瞬間、リュウセイはまたあの渇きを感じた。
もしかして自分が欲しているのはこれなのか? と思いながらも少し恐怖心を感じる。
だがついついその手をその錠剤に伸ばしてしまう。
「飲めばわかるわ。 なんにせよ、詳しい話は明日……」
ユキナがそう言うのを聞きながらリュウセイはその手を停めた。
「なんで、明日なんだ?」
「それを飲んだら、オジサン今日はたぶんすごく眠くなって話どころじゃないから」
彼女はにんまりと笑いながらいたずらっぽくそう言った。
ごくり、とリュウセイは喉を鳴らしながら恐る恐る錠剤へと手をまた伸ばした。
ええい、ままよ!
彼は覚悟を決めて自分の耐えがたい欲求に従う事にした。
欲しい、この薬が欲しい。
なぜか体がそう叫ぶのだ。
ユキナは怖いほどの真顔になって呟くように彼に命じた。
「お飲みなさい」
彼の全身に怖気が走り、その言葉には到底抗えなかった。
何故なのかはわからない。
彼女の強い言葉には絶対に逆らえないのだ。
理由はわからないがそれだけは確かだった。
リュウセイが錠剤を飲み込むとユキナの言う通りすぐに眩暈のような眠気が襲ってきた。
「こ、これは……なんなんだ……?」
彼が絞り出すように呻くのを聞きながらユキナは彼を見下ろしながら、少し笑った。
「ヒトの血で作った錠剤よ」
なんだと? と消えゆく意識で思いながら彼はそのまま昏睡していった。
昏倒したリュウセイを見下ろしながらユキナは悲し気なような嬉し気なような複雑な表情をして独り言ちた。
「ごめんね。 あなたはもうヒトの世界には戻れなくなるかもしれない……」
翌朝リュウセイは目を覚ますと茫然としながら部屋の天井を眺めた。
やけに寝覚めがよかった。
着替えずに寝てしまったのでワイシャツを着たままだった。
布団に寝ているのはユキナが運んだのだろうか?
あの華奢な娘がよくも体の大きな彼を寝室まで運んで布団に寝かせたものだ、などと思う。
そこで彼はハッと気づいた。
ユキナ! 彼女はどうしたのだろうかと。
体を起こすとその横に何やらある、というかいるのを感じてリュウセイは布団をめくってみた。
するとユキナが彼の腹あたりにしがみつくように寝ていて、すぅすぅと寝息を立てていた。
「え、えぇと……」
リュウセイはわずかに混乱しながら彼女を起こさないように、そっとその手を自分の体から離すと布団から這い出てひとつ伸びをした。
目覚まし時計を見るとまだ朝の五時すぎである。
えらい早い時間に目を覚ましたものだ、と思いながらくしゃくしゃになったワイシャツを脱いで、同じくしわになったスラックスを脱ぐとひとつ溜息をついた。
取り急ぎジャージの下を履いてTシャツを手に持って洗面所に向かいながら、やけに自分の体が軽い事に気が付いた。
いや、体が軽いというか全身に生気が漲っているような、そんな感じだった。
思わず彼は腕に力を入れて力こぶを作りそのまま振り回してみる。
ベランダに出て朝の心地よい空気を吸いながら、そのままベランダの手すりになんとなくひょい、と飛び乗った。
不思議な感覚だった。
いつものあのぞわぞわと高揚感のある夜とも違う。
もっともっと体に力が溢れているような感じがした。
そもそもこの古いアパートの華奢な手すりに普通に考えて成人男性が乗れるはずがない。
そんな事をすれば体重でひん曲がってしまうだろう。
だがまるでそんな事もなく、ものすごく体が軽い、というかまるで自分の重さがなくなったようだった。
事実手すりはなんともなく、飛び乗った音すらもしないのだ。
ふと彼は思いついたように手すりからわざと足を外すとすとんと落ちた。
ここは三階である、だが彼はそのまま音もなく地面へと降りると、何事もないかのように自らの住む部屋のベランダを見上げた。
「なんだ? これは?」
リュウセイはそう独り言をいいながら、またひょい、と飛び上がるとベランダに戻った。
気持ち悪いほどの身の軽さだ。
やはり音はしない。
そしてなぜそう思ったのかは自分でもわからないまま、そのままなぜか彼はアパートの壁に手を伸ばすと壁面へと移った。
彼は首を捻りながら、なぜかそれをできる、と確信してすっと立ち上がった。
そう、彼は垂直な壁面に……立ち上がった。
彼の体重がない、とかそういう問題ではなかった。
完全に物理法則を無視している。
いくらなんでもおかしい、なんて話ではなかった。
何せ壁面に真横にまっすぐ立っているのだ。
彼はそのまま歩いてベランダに戻るとTシャツを肩に引っかけてなんとも微妙な表情をしながら洗面所へと向かった。
とりあえず歯ブラシに歯磨き粉を練り出してそれを無造作に口に突っ込んでなんとなく鏡を見て彼は目を剥いた。
ただでさえあまり老けずに若く見える方なのだが、そこに映っているのはそれこそ若々しい青年そのものだったからだ。
「はぁぁぁ!?」
思わず声を出しながらマジマジと鏡を覗き込む。
何度見ても若返っていた。
そしてその目は昨晩のようにまるで獣のように赤く輝きを放っていた。
さらに複雑な表情になりながら歯ブラシを手に持って歯を磨こうとして、違和感を感じて手を停めた。
彼は鏡をまた覗き込むと口を開けてみた。
「!!!!」
彼は驚いて後ずさってから、また恐る恐る鏡を覗いて、指で口の横を広げてみた。
彼の犬歯は長く伸びて、それはまさに『牙』のようになっている。
「ど、どういう事だこれは!!」
あまりの驚きに思わず少し大きな声を出すと、後ろでおかしそうな笑い声が聞こえた。
ふり向くとユキナが両手でシュレを抱えるように抱いて今にもひっくり返りそうな勢いで笑っていた。
「お、おい! ユキナ!! どうなってるんだ! 説明してくれ!!」
リュウセイが必死の形相で言うと彼女は目から涙をこぼすほど笑いながら、頷いた。
「うん、順番に説明してあげる!」
彼女がそう言った瞬間にその腕からシュレが飛び降りてリュウセイの足に頭を擦りつけながらまとわりついた。
「あ、ああ……ごめんな、シュレ。 お前とりあえずご飯だな」
リュウセイが少し落ち着きを取り戻しながらそう言うとシュレは彼を見上げて嬉しそうにしっぽを振った。
「うん、ごしゅじん! ぼくおなかぺっこぺこだよ!」
「そうかそうか、待ってろよ~……」
リュウセイはにこやかにシュレ を抱いて台所に向かう足をぴたり、と停めた。
「しゅ、シュレさん? あなた今なんと?」
彼はシュレを抱き上げてその顔をじっと見つめて恐る恐るそう尋ねた。
「ぼく、おなかぺっこぺこだよ! って言ったの!」
シュレがそう言うとリュウセイは驚きのあまり腰を抜かしそうな勢いでその場に尻もちをついた。
だが、音はしない。
「お、おい!! ユキナ!!!」
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