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「今日の叶を見て耐えられなくなったわ。一緒にいても悲しげで、ちっとも楽しそうじゃなかった。だから改めて叶に伝えたいことがあるの」
背中に回されていた腕の力が抜け、遥が距離を取った。正座で座り直して背筋まで伸ばしている。見守っていると、遥が何回か深呼吸した後で、畏まるように両手を畳の上へと並べた。
「どうか私と、結婚を前提にお付き合いしてくれませんか」
遥が畳に手を突いて頭を下げた。突拍子もない光景に驚きを隠せない。あの遥が好きだと言ってくれた。何年もした片想いがついに実った。驚きに言葉を発せず動けなかった。
だけど、驚いただけで心は震えなかった。
好きと言われても心は動かない。付き合ってほしいと言われても心は揺れない。それどころか、遥が千夏に見えて仕方がなかった。
姿形も中身も違う。それなのに笑みも涙も喜怒哀楽まで、全て千夏が覆ってしまう。
ああ、何だ。考えるまでもなかった。遥を見ても千夏のことを考えてしまう。それが答えだったんだ。
私はまだ、千夏を愛している。
千夏への怒りが湧かなかったこと。遥と千夏が重なって見えたこと。遥の愛に何とも思わないこと。それは全て、千夏が胸の奥にいたからだった。
かつて遥へ抱いていた気持ち。そのほとんどが千夏への好きに変わった。遥はもう幼なじみとしか映らない。遥のどんな言葉も心には決して届かない。
「私がそばで叶を支えたいの。叶を必ず幸せにするわ。どうか付き合ってください。お願いします」
顔を伏せている遥の表情は見なくてわかる。きっと今までに見たことがない真剣な表情で言葉を紡いでいるのだろう。
それを一刻も早く終わらせてあげたかった。それは私に向けられていいものではないと伝えたかった。
「ごめん。遥は幼なじみだよ」
遥がはっと息をのむ。沈黙し、黙りこくった遥が心配になって手を伸ばそうとして、すぐに引っ込めた。
今の遥に触れる権利を私は捨てた。ただじっと耐えなければならない。私を救ってくれたのに、恩を仇で返した罪を償わないといけない。
「そう」
顔を上げた遥に表情はなく、生気を感じられない。のっそりと立ち上がり、逃げるように立ち去る姿はとても痛々しい。自分がつけた傷の大きさを、まざまざと見せつけられた。
これでいいんだ。
片や、華道の未来を背負った次期家元。
片や、記憶と一緒に何もかもを失った居候。
そんな二人が幸せにはなれない。急に体の力が抜け、今まで息を潜めていた睡魔が襲い掛かってきた。今なら深く考え込まずに眠れそう。遥が開けっ放しにした襖を閉めようと立ち上がり、そっと廊下に顔を出した。
遥の姿はすでにない。冷え切った廊下では鳩時計が時を刻んでいるだけ。その不気味な静寂に飲み込まれる前に、布団へと戻った。
目を閉じれば、遥が頭を下げる光景がまぶたの裏に焼き付いている。あんな姿はもう二度と見たくないけれど、遥なら何日かして立ち直ってしまうかもしれない。そしてまた告白を……。
その時に断れるか。遥の懸命な姿に同情してしまわないか。そうならないためにやることは一つだろう。
襲いくる睡魔を跳ね除け、枕元のスマホに手を伸ばす。いつか耳にした不動産サイトの名前を検索欄に打ち込み、淡い希望を並べていった。
幸いにも一週間ほど調べれば、引っ越し先は見付かった。
「まだ来てないか」
三十分おきにメールアプリを開いてみるも、昨夜送った内見の連絡はまだ来ない。三月の中旬という繁忙期に引っ越そうと決意した私が悪いものの、なるべく早くここを出ていきたい。
穏やかな日差しが差し込む縁側。横になって目をつむった。このまま何もしなければ意識を手放してしまいそう。
とりあえず暇を潰そうと、スマホの電源を入れた。ホーム画面に並ぶアプリから適当に……ふと、カメラアプリが目に付いた。
アイコンをタップすれば、膨大な数の写真が表示された。どれほどスクロールしても、千夏との写真が並ぶだけ。それほどまでに想っていた。残念ながらそれは今も変わらない。けれどこの気持ちにも整理をつけないといけない。
このまま醜い片想いをしても傷付くだけ。それなら想いを告げて離れ離れになった方がいい。何も言わずに姿を消すという選択肢もあるけれど、きっと後悔してしまう。
その練習とばかりに、カメラアプリ内にある写真全てを選択し、削除という項目に触れた。
『本当に削除しますか?』
背中に回されていた腕の力が抜け、遥が距離を取った。正座で座り直して背筋まで伸ばしている。見守っていると、遥が何回か深呼吸した後で、畏まるように両手を畳の上へと並べた。
「どうか私と、結婚を前提にお付き合いしてくれませんか」
遥が畳に手を突いて頭を下げた。突拍子もない光景に驚きを隠せない。あの遥が好きだと言ってくれた。何年もした片想いがついに実った。驚きに言葉を発せず動けなかった。
だけど、驚いただけで心は震えなかった。
好きと言われても心は動かない。付き合ってほしいと言われても心は揺れない。それどころか、遥が千夏に見えて仕方がなかった。
姿形も中身も違う。それなのに笑みも涙も喜怒哀楽まで、全て千夏が覆ってしまう。
ああ、何だ。考えるまでもなかった。遥を見ても千夏のことを考えてしまう。それが答えだったんだ。
私はまだ、千夏を愛している。
千夏への怒りが湧かなかったこと。遥と千夏が重なって見えたこと。遥の愛に何とも思わないこと。それは全て、千夏が胸の奥にいたからだった。
かつて遥へ抱いていた気持ち。そのほとんどが千夏への好きに変わった。遥はもう幼なじみとしか映らない。遥のどんな言葉も心には決して届かない。
「私がそばで叶を支えたいの。叶を必ず幸せにするわ。どうか付き合ってください。お願いします」
顔を伏せている遥の表情は見なくてわかる。きっと今までに見たことがない真剣な表情で言葉を紡いでいるのだろう。
それを一刻も早く終わらせてあげたかった。それは私に向けられていいものではないと伝えたかった。
「ごめん。遥は幼なじみだよ」
遥がはっと息をのむ。沈黙し、黙りこくった遥が心配になって手を伸ばそうとして、すぐに引っ込めた。
今の遥に触れる権利を私は捨てた。ただじっと耐えなければならない。私を救ってくれたのに、恩を仇で返した罪を償わないといけない。
「そう」
顔を上げた遥に表情はなく、生気を感じられない。のっそりと立ち上がり、逃げるように立ち去る姿はとても痛々しい。自分がつけた傷の大きさを、まざまざと見せつけられた。
これでいいんだ。
片や、華道の未来を背負った次期家元。
片や、記憶と一緒に何もかもを失った居候。
そんな二人が幸せにはなれない。急に体の力が抜け、今まで息を潜めていた睡魔が襲い掛かってきた。今なら深く考え込まずに眠れそう。遥が開けっ放しにした襖を閉めようと立ち上がり、そっと廊下に顔を出した。
遥の姿はすでにない。冷え切った廊下では鳩時計が時を刻んでいるだけ。その不気味な静寂に飲み込まれる前に、布団へと戻った。
目を閉じれば、遥が頭を下げる光景がまぶたの裏に焼き付いている。あんな姿はもう二度と見たくないけれど、遥なら何日かして立ち直ってしまうかもしれない。そしてまた告白を……。
その時に断れるか。遥の懸命な姿に同情してしまわないか。そうならないためにやることは一つだろう。
襲いくる睡魔を跳ね除け、枕元のスマホに手を伸ばす。いつか耳にした不動産サイトの名前を検索欄に打ち込み、淡い希望を並べていった。
幸いにも一週間ほど調べれば、引っ越し先は見付かった。
「まだ来てないか」
三十分おきにメールアプリを開いてみるも、昨夜送った内見の連絡はまだ来ない。三月の中旬という繁忙期に引っ越そうと決意した私が悪いものの、なるべく早くここを出ていきたい。
穏やかな日差しが差し込む縁側。横になって目をつむった。このまま何もしなければ意識を手放してしまいそう。
とりあえず暇を潰そうと、スマホの電源を入れた。ホーム画面に並ぶアプリから適当に……ふと、カメラアプリが目に付いた。
アイコンをタップすれば、膨大な数の写真が表示された。どれほどスクロールしても、千夏との写真が並ぶだけ。それほどまでに想っていた。残念ながらそれは今も変わらない。けれどこの気持ちにも整理をつけないといけない。
このまま醜い片想いをしても傷付くだけ。それなら想いを告げて離れ離れになった方がいい。何も言わずに姿を消すという選択肢もあるけれど、きっと後悔してしまう。
その練習とばかりに、カメラアプリ内にある写真全てを選択し、削除という項目に触れた。
『本当に削除しますか?』
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