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初めて自分を曝け出して笑ってしまう。廊下に出ただけでこれ。私の世界はなんてちっぽけで素晴らしいのだろう。
階段を降りて日の下に出ただけで、まるで遊園地に訪れたような気分。これからどこへ行こう。右か左か真っすぐか。駅まで向かうのも面白そう。
「にゃあ」
蝉の大合唱に混じり、かわいい声が飛び込んだ。からっと晴れた青空の下、声の主は細い路地の入口にいた。艶のある毛並みの黒猫が、尻尾を立ててこちらを見ている。
呼んでくれたのだろうか。もう一声ほしいと観察すれば、黒猫が短く鳴いた。早く来て。そう聞こえた気がする。一挙手一投足を見守っていると、路地の奥へと踵を返していった。
弾む心を止められず、路地へと入った。すでに黒猫の姿はない。置いて行かれちゃったか。肩をすくませ、辺りを見渡した。
細い路地を囲み、ひしめき合う古びた一軒家の群れ。何軒かはゴミで玄関がふさがれている。長居できるほどの居心地はない。路地の先に黒猫がいることを祈りながら、急いで通り抜けた。
「ここ、確か……」
覚えのある通学路に飛び出した。このまま左へ進めば小学校だったような。ついこの間、駅へ行く際に校門を見掛けたからよく覚えている。今日は探検がてら右側へ進んでみよう。
消えた黒猫の影を探しながらのんびり進む。すぐに住宅街の終わりが見えてきた。交差点の向こうには飲食店が立ち並び、平日の昼間だというのに多くの人で賑わっている。
衰えない日差しで浮いた汗を拭いつつ、喧騒に紛れていると商店街にたどり着いた。古びたシャッターと真新しい看板。もの悲しさと賑わいっぷり。その二つが同居する姿に目を奪われた。
その視界に大きな時計が映り込んだ。アパートから十五分しかたっていない。思わず左腕に視線を向けるも、そこには何もなかった。
「あ、忘れた」
代わりにポケットからスマホを取り出す。時間は合っている。この近さなら何度か訪れていたかもしれない。どこかに顔見知りでもいればいいけれど。
淡い期待を抱きながら商店街を練り歩く。シャッター、和菓子屋、八百屋、シャッター、シャッター。実際見て歩くと寂しさの方が多かった。
それに商店街は意外と短かった。百メートルほどで端に着き、大通りで分断された向こうにあったのは真新しいビル群。思いの外、店数は少ないのね。
ため息を連れて踵を返す。来た道を一直線に戻ろうとして、死角になって見えなかった花屋に目が留まった。
店先で咲き誇る花々。店内はガラスが湿気で曇ってよく見えない。とりあえず、入ってみよう。
湿っぽい店内を見渡し、一面の花を視界に入れた。以前の私なら天国のような場所だろう。時間を忘れて、ちーちゃんからの連絡がくるまで外の暗さに気付かないほどに。
それが今はどうだろう。どの花を見ても心に何も湧かない。ただそこにきれいな花がある。それだけ。
まさか記憶と一緒に、花への情熱も忘れてしまったの? これを皮切りに記憶がバラバラになってしまうとしたら……。
立ち眩みのようなふらつきに、思わず店を出た。霞む世界をあてもなくただ歩く。自分をなくさないようにと、眩いアスファルトに目を向けてひたすらに歩みを進める。
しかし勢いはすぐになくなった。日差しと精神的なショックで体が重く、空腹まで襲い掛かってきた。少し、休憩しよう。ちょうどお昼時だし、適当にお昼ご飯を……。
「四川、ろう?」
真っ赤な下地に黄色で書かれた『四川樓』という看板。目を引く看板から視線を落とせば、赤過ぎる食品サンプルがずらりと並んでいる。想像もできない辛さに口元が引きつった。
本来なら嫌悪感を抱いて足早に立ち去るべき。はる姉は辛い物が食べられないと言われ、そう振舞ってきた私なら。
特に気になる麻婆豆腐から視線を外した。一歩下がって左右に目をやる。ちーちゃんの姿はもちろんない。誰もが昼下がりの商店街を通り過ぎていく。
これはチャンスとばかりに、そそくさとガラス戸を開いた。一人分の隙間から吹く冷えた風。隙間に体をねじ込むと、店の中は黒を基調としたシックな内装になっていた。
階段を降りて日の下に出ただけで、まるで遊園地に訪れたような気分。これからどこへ行こう。右か左か真っすぐか。駅まで向かうのも面白そう。
「にゃあ」
蝉の大合唱に混じり、かわいい声が飛び込んだ。からっと晴れた青空の下、声の主は細い路地の入口にいた。艶のある毛並みの黒猫が、尻尾を立ててこちらを見ている。
呼んでくれたのだろうか。もう一声ほしいと観察すれば、黒猫が短く鳴いた。早く来て。そう聞こえた気がする。一挙手一投足を見守っていると、路地の奥へと踵を返していった。
弾む心を止められず、路地へと入った。すでに黒猫の姿はない。置いて行かれちゃったか。肩をすくませ、辺りを見渡した。
細い路地を囲み、ひしめき合う古びた一軒家の群れ。何軒かはゴミで玄関がふさがれている。長居できるほどの居心地はない。路地の先に黒猫がいることを祈りながら、急いで通り抜けた。
「ここ、確か……」
覚えのある通学路に飛び出した。このまま左へ進めば小学校だったような。ついこの間、駅へ行く際に校門を見掛けたからよく覚えている。今日は探検がてら右側へ進んでみよう。
消えた黒猫の影を探しながらのんびり進む。すぐに住宅街の終わりが見えてきた。交差点の向こうには飲食店が立ち並び、平日の昼間だというのに多くの人で賑わっている。
衰えない日差しで浮いた汗を拭いつつ、喧騒に紛れていると商店街にたどり着いた。古びたシャッターと真新しい看板。もの悲しさと賑わいっぷり。その二つが同居する姿に目を奪われた。
その視界に大きな時計が映り込んだ。アパートから十五分しかたっていない。思わず左腕に視線を向けるも、そこには何もなかった。
「あ、忘れた」
代わりにポケットからスマホを取り出す。時間は合っている。この近さなら何度か訪れていたかもしれない。どこかに顔見知りでもいればいいけれど。
淡い期待を抱きながら商店街を練り歩く。シャッター、和菓子屋、八百屋、シャッター、シャッター。実際見て歩くと寂しさの方が多かった。
それに商店街は意外と短かった。百メートルほどで端に着き、大通りで分断された向こうにあったのは真新しいビル群。思いの外、店数は少ないのね。
ため息を連れて踵を返す。来た道を一直線に戻ろうとして、死角になって見えなかった花屋に目が留まった。
店先で咲き誇る花々。店内はガラスが湿気で曇ってよく見えない。とりあえず、入ってみよう。
湿っぽい店内を見渡し、一面の花を視界に入れた。以前の私なら天国のような場所だろう。時間を忘れて、ちーちゃんからの連絡がくるまで外の暗さに気付かないほどに。
それが今はどうだろう。どの花を見ても心に何も湧かない。ただそこにきれいな花がある。それだけ。
まさか記憶と一緒に、花への情熱も忘れてしまったの? これを皮切りに記憶がバラバラになってしまうとしたら……。
立ち眩みのようなふらつきに、思わず店を出た。霞む世界をあてもなくただ歩く。自分をなくさないようにと、眩いアスファルトに目を向けてひたすらに歩みを進める。
しかし勢いはすぐになくなった。日差しと精神的なショックで体が重く、空腹まで襲い掛かってきた。少し、休憩しよう。ちょうどお昼時だし、適当にお昼ご飯を……。
「四川、ろう?」
真っ赤な下地に黄色で書かれた『四川樓』という看板。目を引く看板から視線を落とせば、赤過ぎる食品サンプルがずらりと並んでいる。想像もできない辛さに口元が引きつった。
本来なら嫌悪感を抱いて足早に立ち去るべき。はる姉は辛い物が食べられないと言われ、そう振舞ってきた私なら。
特に気になる麻婆豆腐から視線を外した。一歩下がって左右に目をやる。ちーちゃんの姿はもちろんない。誰もが昼下がりの商店街を通り過ぎていく。
これはチャンスとばかりに、そそくさとガラス戸を開いた。一人分の隙間から吹く冷えた風。隙間に体をねじ込むと、店の中は黒を基調としたシックな内装になっていた。
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