呉の徐整の話その3(後編)
続いて孫皓が即位するが、ここから太常の記録は断片的になる。
267年12月、守丞相孟仁と太常姚信(陸遜甥)を孫和の廟に派遣する(孫和伝)。
276年秋8月、孫皓は兼司徒の薫朝と兼太常周処を派遣して封禅の儀式を行った(孫皓伝)。周処は周魴の子。兼というのは別の職に就いていて、この儀式のために一時的に太常を兼務したということだろうか。周処は後に晋に仕えたようだが、呉の時代の経歴はよくわからない。
280年に太常張キの名が出てくる。彼が呉滅亡時の太常である(孫皓伝)。
ここまでの内容をまとめると
顧雍(225)→(程秉守太常(225))陳化(225~)→潘濬(遅くとも231~239?)(張弥守太常(233))→顧譚(243~245)→(傅常守太常(244))→滕胤(251~256)→全尚(256~258)→濮陽興(258~262)→姚信(267)→(周処兼太常(276))→張キ(280)
となる。
多少空白期間もあるが、濮陽興までわりと断絶なく太常就任者の確認がとれる。
わからなくなるのは孫休の末年から孫皓の代となる。徐整が太常についた可能性が高いのはこの頃ではないか。一説に晋に仕えたというが、この頃の太常なら辻褄があう。
さて、まとめると、呉の徐整は豫章郡南昌県の人。徐穉や徐宗らの一族で、孫休末年か孫皓の代に太常に就任していた。
まあ、そんな可能性があるんじゃないかという話なので、あまり鵜呑みにはしないでください。ただ、自分の作品では徐整をこのぐらいの時代の人物として扱うので、範囲外の学園戦記三国志では登場する予定はないです。
というわけで、三回に渡ってお届けした徐整の話いかがだったでしょうか。今後もこんな人物伝を書くかも知れないのでよろしくお願いします。
そんなのいいからさっさと本編書けとかは言わないでください。
267年12月、守丞相孟仁と太常姚信(陸遜甥)を孫和の廟に派遣する(孫和伝)。
276年秋8月、孫皓は兼司徒の薫朝と兼太常周処を派遣して封禅の儀式を行った(孫皓伝)。周処は周魴の子。兼というのは別の職に就いていて、この儀式のために一時的に太常を兼務したということだろうか。周処は後に晋に仕えたようだが、呉の時代の経歴はよくわからない。
280年に太常張キの名が出てくる。彼が呉滅亡時の太常である(孫皓伝)。
ここまでの内容をまとめると
顧雍(225)→(程秉守太常(225))陳化(225~)→潘濬(遅くとも231~239?)(張弥守太常(233))→顧譚(243~245)→(傅常守太常(244))→滕胤(251~256)→全尚(256~258)→濮陽興(258~262)→姚信(267)→(周処兼太常(276))→張キ(280)
となる。
多少空白期間もあるが、濮陽興までわりと断絶なく太常就任者の確認がとれる。
わからなくなるのは孫休の末年から孫皓の代となる。徐整が太常についた可能性が高いのはこの頃ではないか。一説に晋に仕えたというが、この頃の太常なら辻褄があう。
さて、まとめると、呉の徐整は豫章郡南昌県の人。徐穉や徐宗らの一族で、孫休末年か孫皓の代に太常に就任していた。
まあ、そんな可能性があるんじゃないかという話なので、あまり鵜呑みにはしないでください。ただ、自分の作品では徐整をこのぐらいの時代の人物として扱うので、範囲外の学園戦記三国志では登場する予定はないです。
というわけで、三回に渡ってお届けした徐整の話いかがだったでしょうか。今後もこんな人物伝を書くかも知れないのでよろしくお願いします。
そんなのいいからさっさと本編書けとかは言わないでください。
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登録日 2020.09.05 22:35
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