呉の徐整の話その3(中編)
続いて229年、孫権が皇帝に即位すると、潘濬は少府に任じられ、やがて太常に昇進した(潘濬伝)。潘濬の太常就任が何年かはっきりしないが、遅くても231年には就任していたようだ(呉主伝)。潘濬がいつまで太常に就いていたかはっきりしないが、どうも239年に死去するギリギリまで太常だったようで、歩隲の呂壱弾劾の上表文に太常潘濬が登場する。またこの中で239年の正月27日の地震に触れているので、それ以降に出された文書と思われる(歩隲伝)。
また233年、孫権は公孫淵を燕王に封じるに及び守太常の張弥を派遣して璽綬を授けている(呉主伝註江表伝)。これは璽綬を渡すのは本来太常の役目だが、潘濬が遠く公孫淵のところまで派遣するわけにもいかなかったので、代わりのものに太常の役目を与えて派遣したのだろう。
続いて顧譚(顧雍孫)が顧雍の死去(243年)数ヶ月後に太常に就任するが、全琮らの讒言で流罪となる(245年?)(顧譚伝)。
また244年に陸遜が守太常の傅常より丞相就任の印綬を授けられている(陸遜伝)。これは陸遜が当時荊州にいたから代理の派遣になったのだろう。(顧譚も讒言やらで忙しいし)
251年、孫権の病が篤くなり、滕胤が上京すると、そのまま留められ太常に任じられた。孫亮が即位すると滕胤は衛将軍を加官された(孫亮伝及び滕胤伝)。256年に大司馬に就任すると、後任には全尚(孫亮妻の父)が就いたが、258年に孫亮が廃位されると全尚も零陵へ移り、後に殺害された(孫亮伝及び孫亮全夫人伝)。
258年、孫休即位し、濮陽興を呼び寄せ、太常・衛将軍とする。262年、濮陽興、丞相となる(濮陽興伝)。264年に孫休が死去するが、その間の太常は不明である。
また233年、孫権は公孫淵を燕王に封じるに及び守太常の張弥を派遣して璽綬を授けている(呉主伝註江表伝)。これは璽綬を渡すのは本来太常の役目だが、潘濬が遠く公孫淵のところまで派遣するわけにもいかなかったので、代わりのものに太常の役目を与えて派遣したのだろう。
続いて顧譚(顧雍孫)が顧雍の死去(243年)数ヶ月後に太常に就任するが、全琮らの讒言で流罪となる(245年?)(顧譚伝)。
また244年に陸遜が守太常の傅常より丞相就任の印綬を授けられている(陸遜伝)。これは陸遜が当時荊州にいたから代理の派遣になったのだろう。(顧譚も讒言やらで忙しいし)
251年、孫権の病が篤くなり、滕胤が上京すると、そのまま留められ太常に任じられた。孫亮が即位すると滕胤は衛将軍を加官された(孫亮伝及び滕胤伝)。256年に大司馬に就任すると、後任には全尚(孫亮妻の父)が就いたが、258年に孫亮が廃位されると全尚も零陵へ移り、後に殺害された(孫亮伝及び孫亮全夫人伝)。
258年、孫休即位し、濮陽興を呼び寄せ、太常・衛将軍とする。262年、濮陽興、丞相となる(濮陽興伝)。264年に孫休が死去するが、その間の太常は不明である。
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登録日 2020.09.05 22:34
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