<都知事選のニュースはもう、うんざり…?>多すぎる立候補者数、不適切なポスターを減らすシンプルな方法を示そう

2024.06.25 Wedge ONLINE

 候補者の乱立は、有権者が候補者の主張を聞き、候補者同士の論戦を聞いて、自分で判断するという機会を奪う。これこそは民主主義に反するのではないか。

 供託金が高くても、立候補し、関係のない主張をする人はいるだろう。しかし、必ず立候補者は減る。減ること自体が後の作業を楽にし、正当な民主主義の手続きとなり得る。

 

ポスターの規制も言論の自由に反しない

 立候補者が減少しても都政と関係のない内容を記すことは制限できないという反論があるかもしれない。これについても、「議題を設定する」というやり方で対策はでき得る。

 選挙管理委員会が、都政をどうしたらいいのか、知事になって何をするのかを書いていない選挙ポスターは受け付けないとするのは言論の自由に反しない。もちろん、「都の全力を用いて動物愛護に力を割く」というのでも構わない。ヌード画像に「表現の自由を守れ」と書いても良いが、ヌード自体の表現には都迷惑防止条例違反(ひわいな言動)で拒否できる。

 そんな審査が表現の自由に反しないとしても、審査自体に時間がないということになるかもしれない。しかし、そもそも日本の選挙期間が短すぎ、立候補受付の準備期間も短かすぎるという問題がある。

 選挙運動期間が長くなると選挙費用が高くなるというのだろうが、短い選挙運動期間は現職と有名人だけが有利になる制度である。現職は、毎日選挙運動しているようなものである。もちろん、選挙期間が長ければ良いというわけではないだろうから、改めて議論が必要となるだろう。

 そもそも掲示板とかポスターとか選挙カーとか集会とかが時代遅れだという考えもあるだろう。実際に、今回の都知事選の候補者の中には、選挙カーや集会などは行わず、もっぱらオンライン上で選挙戦を展開している人もいる。ただ、言論の自由を保障する日本国憲法第21条には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とある。人が集まって主張することは言論の先にあるのだ。

 筆者の解釈では、言論とは、集まって仲間を作ってするものなのだ。その連関がなくなってしまうのは寂しい。時代の流れと原理原則を照らし合わせることで、民主主義の基本となる選挙を健全に運用できるようになるのではなかろうか。