出版関係者は著作権法という枠の中で仕事をしている。もちろん作家もだ。そもそも著作権法とは作家の権利を守る法律である。そのわりに作家で著作権に神経質な人はあまり見たことがない。概して、著作権についてはあまり気にしていないのが現状だ。作家はそうでも、出版社は違うだろうと思われている人は多いだろう。
たしかに出版社の中でも、法務関連部門の人間はかなり詳しい。ところが「そんなバカな」と思うだろうが、編集者で著作権法に詳しい人はあまりいない。私も現役時代はそれほど気にしていなかった。
そもそも出版契約書をちゃんと読み込んでいる作家、編集者はどれくらいいるだろうか。よく読んでみると、現実にやっていることと合っていないことが書いてあるのがわかる。このへんの話は今回のテーマではないので、また機会を改めるとして、ここで言いたいのは著作権とは何かである。
本には書いた作家の著作権があるというのは、とりあえず正しい。著作権があるから、作家には原稿料なり印税が支払われるのだ。その著作権の対象となるのは、作家の意見や思想である。書いたものならすべて著作権があるということではない。意見や思想は人によって異なるはずだ。逆に他人と異なったものがない、つまり誰が書いても同じというものには著作権は生じない。
有名な川端康成の『雪国』の冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」は、これと同じ文を書けば誰が見てもパクリ、コピペであることは一目瞭然だ。しかし、著作権の侵害として罪に問われることはない。顰蹙(ひんしゅく)を買うだけだ。これほど有名な一文だが、この文には著作権がない。冬に群馬県と新潟県の国境のトンネルを抜けたときの情景を文章にすれば、誰が書いてもこうなるからというのが、その理由である。実際は誰が書いてもこうなるとは思えないが、著作権とはそういうもののようだ。
作家デビューを志す人の原稿を見る機会はいまでも多い。昔は原稿用紙、いまは添付ファイルと形は変わったが、作家の熱意に変わりはない。変わらぬ熱意とともに、新人作家にありがちな原稿の問題も、やはりいまも昔も変わらない。
新人作家の原稿の問題は、前回述べた「熱意のあまり読者を置き去りにしてしまう」ということがひとつ、「表現に凝りすぎてかえって意味をわかりにくくする」ということがひとつ、そして今回取りあげるテーマである、「作家の顔が見えない」という問題がひとつである。
「作家の顔が見えない」とは、作家の意見や思想が本文中に表れていないということだ。つまり著作権の存在も危うい原稿である。ビジネス書は専門書なので、事実や内容の正確さは重要である。しかし、書いた作家の意見や思想が表れていない、すなわち作家の顔が見えないと、読者は本の内容に引き込まれていかない。
本文を読み進めていくうちに、作家の「声」が聞こえてくるような気持ち、「顔」が見えてくるような気持ちにさせるのが、よい本である。税金の本や生産管理の本は、税法や管理手法の説明が主たる内容である。税法や生産管理の手法は誰が書いても、そう内容に違いがあるわけではない。
といって他の本と同じでは、読者は買ってくれない。買ってくれないということは読んでくれないということだ。誰にも読まれない本ほど哀しいものはない。ビジネス書の場合、読者はよりわかりやすい本を買う。わかりやすいといわれる本は、どれも個性的である。平板なものでわかりやすいという評価を受けることは稀だ。わかりやすさとは、作家の個性から生まれるのである。
個性とは意見や思想だ。作家本人の意見や思想が際立ったものが、わかりやすい本となる。逆にいえば、作家の意見や思想があいまいなままであれば、どんなに文章が上手くても、決してわかりやすい本とはならない。
では、意見や思想を表すためにはどういう方法があるか。思い切って自分の考えていることを、余計な深謀(しんぼう)遠慮を排除して率直に述べることだ。言いすぎるくらい言ったほうが、原稿としてはシャープになる。少なくとも何を言っているのかわからい原稿よりはマシになるものだ。
新人作家の原稿を読んでいて一番気になるのはこの点、すなわちはっきりした主張が見えないことである。原稿の上手い下手などは、書くことに慣れれば誰でも一定レベルになる。しかし、作家自身の意見や思想が見えないというのは、時間が経てばどうにかなるというものではない。わかりやすさとは、作家の個性から生まれるのだ。