History(歴史)とはHis Story(彼の物語)だという。
では、彼とはだれか。いうまでもなく勝者である。すなわち時の権力者の物語をつづったものが「History」となるのだ。こうしたオモテの歴史を「正史」という。中国には、国の歴史を記録する役割を代々担った家があった。国の歴史とは、すなわち王朝の記録である。
あるとき、先帝を殺して帝位についた君主がいた。史家は「君主は先帝を弑(しい=殺)」したと書いた。君主はこれに怒り、史家を処刑し、その息子を王朝の歴史を記録する役目につけた。しかし、その息子もまた「君主は先帝を弑した」と記述した。君主がその息子を処刑し、一族の別の者が新たにその役目を襲っても、やはり記述は変わらなかった。
三代にわたって史家を処刑した君主は、その次の者も記述を枉(ま)げようとしないことに、ある種のおそれを覚え、ついに自分が先帝を殺し君主となったと記述することを黙認したという。歴史の記録者という使命の重さが、史家代々の誇りであったのだろう。真実を伝えなければ、歴史が消滅するとともに、その誇りも失われる。
正史の編纂は、時の権力に都合よく編まれることが多い。だが、それでも長い間には正しい記録へとアジャストされるのは、こうした記録者の矜持(きょうじ)のおかげだろう。
実用書やビジネス書の作家は、真実から離れることはできない。表現方法でコミック形式をとろうと、図解にしようと、事例を読者の立場に応じて翻案しようと、結論となる真実だけは枉げることはあり得ない。では、真実とは何か。
100人いれば100通りの真実があるといわれる。しかし、自分が信じるひとつの真実を、読者受けをねらって状況や時勢に応じて99通りに使い分けるというような不誠実な文章が、読者の心を動かすことはない。
大先輩から聞いたこんな話がある。Aさんは百貨店の現役部長であり、作家でもあるというマルチな才能の人だった。大先輩は、百貨店で働くこととはどういうことか、単なる就活のための業界案内を超えた本をつくろうと、その原稿をAさんに依頼した。Aさんは百貨店マンとしても作家としても優秀だったので、できあがった本は順調に版を重ねた。
そしてある日、読者から一通の封書が編集部宛に送られてきた。中には400字詰め原稿用紙5枚にAさんの本についての感想がつづられていた。そこには「自分は百貨店業界にあこがれ、そこへ就職を希望する学生だが、この本を読んで百貨店がイヤになった」と失望の言葉が記されていた。Aさんの本は、百貨店のオモテの華やかさだけでなく、そのウラ側で行われていた、メーカーに対する販売員派遣の強要、期末の押し込み販売、仕入先への過剰な値引き要請など、現実の百貨店業界の暗い部分についても正しく書いていたからだ。
しかし、この若い読者は失望に終わることなく、さらに本を読み進めるうち、失望を乗り越えた。読者は続けてこう書いていた。「この本は自分のために書かれた本と思う」。百貨店業界のよいことも、悪いことも、正しく記したAさんの作家としての誠意が、業界で働くことを望む読者をして「自分のために書かれた本」と感じさせたのである。
こういう読者がひとりでもいたならば、だれがなんと言おうと、その本は作家にとって成功作品である。