そんな思いを抱えながら迎えた夏のある日、私は2軍監督に言いました。「私に1軍へ戻れる可能性がないなら、2軍での出場機会を若手に譲ってあげてほしい」と。チーム全体のことを考えると、先がない私を試合に出すより、未来ある若手を起用したほうがいい、そう思ったからです。もちろん、「俺だってまだまだやれる」という思いもありましたよ。だから前記のようなことを監督に言ったのは、「俺を使う気はあるのか? どうなんだ?」と首脳陣に本音を問いたかったということでもあるんでしょうね。
それから少し経って、9月になった頃でした。球団側から「来季は契約をしない」と告げられました。戦力外通告です。覚悟していたつもりでしたが、いざ目の前に突きつけられると受け入れがたいものがあり、すぐに返事はできませんでした。「ちょっと考えさせてください」そう言って、数日間考え抜いたんです。
この間、「俺はまだできるはずだ」という意地と、「そろそろ潮時かな」という思いが頭の中で錯綜していました。悩みましたよ。大学を卒業してプロ入りし、先輩たちのレベルの高さに圧倒され、それでも石にかじりつくような努力で1軍レギュラーの座をようやく獲得し、それなりの活躍もして、やがて才能ある若手の台頭もあって代打に移り、2軍落ちして……プロ野球の世界でこれまで歩んできた道のりが、否が応でも頭に浮かんでくるんですね。
やっぱり選手ですから、いくつになっても試合に出たい、活躍したい。もちろん「若手のために席を譲る」という気持ちに嘘はありません。強いチームであるために、世代交代は常に模索されるべきですから。でも、「まだやれるんだ」という思いも、本心なんです。だからすぐに答えは出せませんでした。
それでも、悩みに悩んだ末――受け入れました。引退を決めたんです。他球団に移る選択肢もあったものの、ずっとヤクルトひと筋でやってきたわけですから、ヤクルトで締めくくるのがいいだろう、と。
そして2008年10月12日、神宮球場で私の引退試合をやっていただきました。相手チームは横浜ベイスターズです。実は、はじめに引退試合実施の提案をもらったとき、「やらなくていいですよ」と断ったんですね。引退試合という慣行そのものを否定するつもりはないのですが、自分がその中心になるというのは、恥ずかしさもあってどうも乗り気になれなくて。でも、お世話になった球団関係者たちが説得してくださり、最終的にやっていただくことにしました。今では、引退試合はやってよかったと思っています。考えてみれば、人生の中で自分が中心となって大勢の人に祝われる機会なんて、結婚式と引退試合くらいですからね(笑)
引退試合が始まる直前、グラウンドに足を踏み入れたときの球場の雰囲気には、さすがに目頭が熱くなりました。ファンの方々も、関係者も、「お疲れさま」と声をかけてくれるんです。選手としてもう必要とされていないという悔しさを感じながらも、それ以上に、「ああ、これで引退なんだな」という感極まった思いに包まれました。
最後の打席は「真っ向勝負」でした。これは事前にリクエストしていたんです。引退試合ではときどき、引退する選手に厚意で花を持たせるような場面を目にすることがあるんですが、私は最後までプロとして真剣勝負をしてほしかった。相手は牛田(成)投手でした。ストレート2球で追い込まれて、フォークボールをマークしていたら、最後もストレートで結局三振しちゃったんですけどね。でも、後悔はしていません。思いきりバットを振り切って、清々しい気持ちだったのを覚えています。
こうして、私のプロ野球人生は幕を閉じました。振り返ってみれば不思議なものです。幼少期にもらい物のグローブで野球を始めて以来、ことあるごとに「もう野球はいいかな」と思ってきた自分が、いつの間にかプロを目指すようになり、そして本当にプロになって、それなりに活躍することができた。今までの人生で味わったさまざまな経験は、野球なくしては得られなかったものです。だから、野球には本当に感謝しています。
選手としての役目を終えたことに対し、名残惜しさはありました。それでも、引退した直後は、何か大きなものから解放されたような気分でした。終わりのない緊張から、ようやく解き放たれたという感じがしたんです。
でも結局――チームを率いる監督として、今また「緊張の日々」の中に身を置いていますね。
取材協力:高森勇旗