三十歳を過ぎたあたりからでしょうか、これまでは捕球できていたようなボールに、追いつかなくなってきました。足の衰えが出始めたんですね。そして次第に、たとえば1塁に出塁したときでも、ベンチから盗塁のサインが出ないということが続くようになります。「ベンチにも自分の衰えが見えているんだな」と思いましたね。
そんなときでした。ヤクルトに、青木(宣)が入団してくるんです。それまでも、稲葉(篤)をはじめ、才能豊かな後輩はちらほらいたのですが、青木の登場は決定的でした。
実は、足や肩に明らかな衰えを感じるようになってからも、私はバッティングに関しては「まだまだいける」と思っていました。もともと、速いボールを打つのは得意でしたし、速球への反応の遅れを感じたこともありませんでしたから。まだ自信があったわけです。
でも青木のバッティングレベルは突出していました。明らかに私のそれよりも優れていたんです。「やばいな」と、初めて後輩からのプレッシャーを感じましたね。ただ、1軍に上がってきた春先の青木は、とても好調とは言えないコンディションでした。打率も、確か2割2分程度だったと思います。その頃、私はベンチを温めることが多くなっていたのですが、内心では「俺のほうが(バッティングは)上だろう」と思い、試合に出られないことに抵抗感を覚えていたものです。
しかしその後、彼の才能が開花するんですね。5月には打率3割を超えるようになり、まもなく首位打者になった。そしてこのシーズンは、そのまま200本安打を達成するんです。大したものでしたよ。春先の不調から、やがてどんどん打率を上げていく青木を見ていて「やっぱりすごい、本物だな」素直にそう思いました。
当時の若松(勉)監督も、当初結果を出せなかった青木を、よく我慢して使っていたと思います。なかなか成果を出せない彼を根気よく起用し続けられたのは、期待のルーキーであるということはもちろんあるでしょうが、やはり「守備」と「足」を備えていたことが大きいはずです。なんとか塁に出られれば走塁のチャンスがあるし、しっかり守れるから監督としてはそれなりに使いやすい。青木ほどの才能であれば遅かれ早かれ花開いたとは思いますが、ルーキー時代に粘り強く起用してもらえたからこそ、あれほどのスピードで躍進することができたのでしょう。
さて、こうして青木が安定して起用されるようになって、私はセンターのポジションを事実上失いました。しかし、外野のポジションはあと2つ――レフトとライトがありますからね。私は場面場面に応じてこれらのポジションで使われるようになり、年間250打席(規定打席は420ほど)程度ではありましたが、1軍でのプレーを続けることができたんです。
その後、代打として起用されることが多くなり、気づけば「代打の切り札」のような立ち位置になっていました。そして2007年には、代打の日本記録となる「1シーズン31安打」を達成することになるのですが、そのあたりはまた次回にお話ししていければと思います。
取材協力:高森勇旗