道を極める

群雄割拠のラーメン戦国時代を駆け抜ける戦略家

2017.11.07 公式 道を極める 第31回 生田智志さん

「煮干しが嫌いな方はご遠慮ください」。店先に踊る衝撃的なメッセージ。明確なコンセプトとこだわりで、業界の常識を次々と破り、国内のみならず海外への出店と、破竹の勢いで快進撃を続ける「ラーメン凪」。独自の経営思想でラーメンへの“愛”と“こだわり”をビジネスに昇華させたのが、凪スピリッツ代表取締役社長の生田智志氏。わずか四畳半から始まったラーメンドリーム。業界の異端児はいかにして生まれたのか。嵐を起こす“規格外戦略”の源流を辿ってきました。

(インタビュー・文/沖中幸太郎

※本連載収録の書籍『“好き”を仕事に変える』発売中

嵐を起こす「ラーメン凪」の現場

生田智志(いくた・さとし)

 

株式会社 凪スピリッツ代表取締役社長

 

1977年7月30日、福岡県北九州市生まれ。某ラーメン店にて店長を経験、関東出店を機に東京5店舗のエリアマネージャーを任される。熊谷正寿の著書「一冊の手帳で夢は必ずかなう」に感銘を受け、将来の地図を作成。ニューヨーク旅行で出会ったさまざまな民族の活気ある姿に、日本人としてのアイデンティティを持った飲食店の開業を決意。

04年8月、28歳で独立。新宿ゴールデン街で『火曜日限定ラーメンバー凪』仮営業開始。06年6月、渋谷本店を創業。現在、国内及び海外(香港、上海、シンガポール、インドネシア、台湾、フィリピン)を直営。さらにアメリカ進出と、常に挑戦を続けている。

【公式サイト】

――「ラーメン凪」の快進撃が続いています。

生田智志氏(以下、生田氏):新店舗の開店情報からイベントまで、都度、SNSにて最新情報を発信しています。直近ですと、埼玉・川口、東京・西池袋、海外・シンガポールの開店や、秋のイベント「大感謝祭」などですね。また、ヴィジュアル系エアバンド『ゴールデンボンバー』の47都道府県別ニューシングル「やんややんやNight ~踊ろよ東京~」(11月8日発売)CDへの広告掲載や、社歴12年目の店長「にぼし悠二郎」のボクシングデビュー戦など、ラーメンに直接関係あることからなさそうなことまで(笑)、“面白い” “他にない”を取っ掛かりに、さまざまな取り組みをおこなっています。

“何もないところから風を吹かせる”のが、私たち凪スピリッツという集団です。その代表である私の立ち位置は、そうした挑戦のための場づくり全般に及びます。週に一度の戦略会議以外はほとんど会社におらず、3ヶ月、1年先に繋がる仕事のために、あちこち飛び回っています。ちょうど先週も、シンガポールの新規開店に合わせて現地に飛んでいました。

海外店舗は現在、フィリピン、台湾、香港、上海、そしてシンガポールと25店舗になっています。会社には、いくつかの段階がありますが、今はまさに成長期。その中で一緒に歩んでいく大切な仲間づくり、空気づくりも私の大切な役割になっていますね。

――壁に貼ってあるのはラーメンの写真ではなく、円グラフのようなものが。

生田氏:これは「エマジェネティックス」といって、社員それぞれの思考特性(黄=コンセプト型、赤=社交型、緑=構造型、青=分析型)を四つの色と、三つの行動特性(自己表現性、柔軟性、自己主張性)で表したものです。それぞれの適正に合った仕事の進め方、接し方を実現するため、各人の特性を可視化すべく取り入れたシステムです。無理をして仕事をこなしていくよりも、自分の特性にあったことの方が効率よく、ミスマッチのない幸せな働き方に繋がると考えているからです。

こうした「働き方」の施策は他にもたくさんあるのですが、一つひとつは私自身が、大手ラーメンチェーン店で働いていた“修業時代”での経験や、その後、四畳半からスタートしたラーメンづくり、間借り経営からの試行錯誤の積み重ねのすべてが元となっています。

私は九州の出身ですが、もともと大のラーメン好きでこの道を志したというわけではなく、自分にできることを少しずつよい方向に向かわせるために、できることをやって来た結果が、考えてもみなかった今の道に繋がりました。

警察官を志望した少年がラーメン業界に入った理由

生田氏:小さい頃から、自分が置かれた環境の中で、どうしたら「少しよくなるか」を工夫し、それを楽しむというクセがありました。“興味のあること”や“やりたいこと”のためには必要な工夫はとことんやる性格で、それは中学からはじまった部活にも表れていました。自分は運動神経がよい方ではなかったのですが、どうせやるなら「活躍したい」。当時、競技人口もそう多くはなかった「テニス」をやろうと考えたんです(丸坊主にしなくてよいということもありましたが)。ただ、自分には優れた運動能力があったわけでもなかったので、周りの人の練習量を試算し、人が1時間走れば2時間を自分に課す、という「活躍するための工夫」をしていました。

――生田さんにとって工夫は、生存戦略でもあった。

生田氏:実は、私が17歳の時に親父が亡くなっているのですが、その時も、置かれた状況下で、自分がどうやって生きていくのか、夢との折り合いをどうつけるのかを考えていました。高校卒業後に私が志したのは、幼いころテレビで見て憧れた「警察官」でしたが、まずは新聞奨学生として働きながら目指すことにしたんです。学費などの経済的な負担はかけられないし、とはいえ勉強しなければ受かりそうにもなかった自分の実力も感じていて、新聞奨学生としてなら、働きながら公務員予備校にも通えるという判断でした。

地元の北九州から、予備校のある福岡へ。新聞奨学生の寮に住み込みで働きました。新聞奨学生という仕事はなかなかハードなもので、その中で勉強の時間を確保するのには苦心しました。いかに効率よく集金するかとか、折り込みチラシの折り方を工夫するだとか(笑)。結局、実家に戻って勉強する方が効率がいいと途中で気づき、そこで生活のためにと働き始めたのが、九州を拠点にした大手ラーメンチェーンだったんです。

――偶然の道が、ラーメンだったと。

生田氏:しかもまだこの頃は、警察官を目指している最中でした。ところが、生活費を稼ぐためだけに始めたこの仕事が、やり始めるととても面白くて。最初、私はアルバイトとして夜の時間帯を任されたのですが、接客だけでなく、いかに店舗環境をよくするかという店舗運営に携わることまでやらせていただいたんです。工夫と進歩に喜びを感じる自分にとって、日々それが体現できる「場」をはじめて与えられて、それが仕事になるということが、何よりの喜びでした。

警察官を目指そうと決めた時、期限は3年と決めていました。けれど心の比重は明らかに、ラーメン店の仕事に傾いていました。どんどんのめり込んで、アルバイトながら店長という責任のある職を任されていくうちに、「ここでとことんやっていきたい」と思うようになりました。それで前々からお誘いを受けていた「社員」として、この世界に入ることになったんです。21歳の頃でした。

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アルファポリスビジネス編集部は厳選した人物にインタビュー取材を行うもので、日本や世界に大きく影響を与える「道」を追求する人物をクローズアップし、その人物の現在だけでなく、過去も未来の展望もインタビュー形式で解き明かしていく主旨である。編集部独自の人選で行うインタビュー企画は、多くの人が知っている人物から、あまり知られることはなくとも1つの「道」で活躍する人物だけをピックアップし、その人物の本当の素晴らしさや面白さを紐解いていく。

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