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7巻
7-3
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機能不全に近い状態だったとしても、パルミラックのコア付近に溜まった瘴気はごく微量だった。それには、パルミラック自体に備わっている浄化機構が関係している。
パルミラックを構成しているキメラダイトの壁は、その構造がところどころ違う。
各部屋や通路の壁はアダマンティンを混ぜたキメラダイト。そしてその一部には魔術の効果を伝えやすいミスリルが使われており、瘴気を感知すると自動で浄化を行うのだ。
壁にコーティングされているオリハルコンもある程度までの瘴気をはらう能力があるので、パルミラック内は瘴気が溜まりにくい構造と言えた。
だが、今回のように大量かつ高濃度の瘴気が一点集中で発生すると、たとえ機能が生きていても浄化は難しい。シュニーの予想は実に的を射ていた。
「他には、めぼしいものはないな。次の部屋に行くか」
最初の部屋の調査を終えて、2人は奥の部屋へと進む。
こちらにもほぼ同数の瘴石が各所に設置されており、部屋がよどんで見えるほどの瘴気が出ていたことが予想できた。
「そういえば、ブルクから何か情報はなかったのですか?」
「本人は正気のつもりらしかったんだが、記憶に欠落も多くてな。儀式のこととか、生け贄のこととか、その辺は覚えてたけど、本部のことや他の幹部のことなんかはかなり曖昧だったんだ。迎えに来るのが金髪の女だってことは覚えてたが、名前とか忘れてたしな」
シンはブルクを尋問する際、精神系のスキルを使用した。強制的に情報を吐かせたわけだが、それでも得られたものは少なかった。
瘴気の影響か、他の要因かは判断がつかないが、もし自分がどうにかなっても情報が漏れないように準備していたようだった。
ただ、スキルで操られていた、アイテムで操られていたなどといった可能性はない。
なぜなら、自分の欲望についてはおかしなくらい饒舌に語ってくれたからだ。やはりというべきか、今の状態になるだけの土壌はあったと言うほかない。
「一緒にいた男、エイラインでしたか。あれは影響を受けていないようでしたが」
「上級選定者って話だし、抵抗力が高かったんじゃないか? アイテムだってそれなりの物を持ってたし、武器は『イクスヴェイン』だしな。といっても、別の意味で影響は受けてたと思うけど」
フィルマの本来の得物ではないとはいえ、『イクスヴェイン』は強力な武器だ。ランクの低い武器に比べれば、瘴気に対する抵抗力を高める一助になっていてもおかしくはない。
ただエイラインの性格の捻じ曲がり方を見ると、それがブルクの教育の成果と瘴気のコンボが炸裂したせいだという気がしてならなかった。
「さて、これで部屋は一通り調べたな。派閥の幹部の割には、めぼしいものがないな」
瘴気が充満していたブルクの私室だが、瘴石以外にこれといったものは発見できなかった。
隠しているわけでもなく、組織に関係していそうなものがまったくない状況を鑑みると、幹部だというブルクの発言に疑いを持たざるを得ない。
「もしかすると、幹部というのは思い込みか瘴気の見せた幻だったのでは?」
「かもしれないな。やってることが、ただの人攫い要員だし」
ブルクは司祭という地位を利用して生け贄を集めるための捨て駒。それがシンたちの予想だった。ただしその所業を考えると、予想が正解でも同情の余地はない。
「後は隠し部屋か」
「何かあるとすれば、そっちでしょうね」
シンは部屋のギミックを発動させて、隠し部屋へ続く通路の扉を開く。
そして、シュバイドたちと同様に漂ってきた異臭に顔をしかめた。
「……くさいとかいうレベルじゃないな」
「ひどい臭いです」
吐き気を誘う臭気に耐えながら、シンとシュニーは通路を進む。突き当たりに着くと躊躇なく扉を開けた。
「返り血って、消えないんだな」
「そのようですね」
先日刺客を訪問した際に、死体は消えるとリリシラから聞いていたシン。てっきり血も消えると思っていたのだが、この部屋の惨状を見るとそれが間違いだと理解できる。
床、壁、そして天井にすら血痕と思しき染みがあった。
「にしてもだ。シュニー、これってやっぱり、何かの絵だよな?」
「血で描かれているというのが、いささか悪趣味ですが」
シンとシュニーの視線の先には、壁一面に、半分に欠けた仮面とそれに巻きつく蛇の絵が描かれていた。
塗料が血だからか、見る者に凄惨な印象を与える。
「どこかで見たことがあるような……」
「これは闇ギルドの紋章です。組織としてはかなり大きかったと記憶しています」
シンが記憶の片隅に引っかかるような感覚に首を捻っていると、シュニーが確信を持って言った。
目の前に広がる不吉な絵に、見覚えがあったのだ。
「ギルド名はわかるか?」
「『蛇円の虚』というギルドです。報酬しだいで、どのような依頼でも受けることで有名ですね。暗殺や窃盗などの犯罪にも手を染める反面、報酬さえ積めば他の闇ギルドを潰したり犯罪者を捕獲したり社会の役に立つこともするので、各国とも扱いに困っている組織です」
「なるほど、まさに何でも屋か。にしても、その名前どこかで聞いたような」
「……もとはゲーム時代からあるPKギルドですから。シンが壊滅させたギルドの配下たちが結成したんです」
「ああ、道理で」
若干表情を硬くして言うシュニーに、シンは言葉少なに返した。シュニーと比べ、その口調はひどく軽かった。
実際問題として、シンは描かれた絵を見てもなんとなく見たことがあるような気がする程度だった。なぜなら、斬り捨てた後のPKなど覚えている必要性を感じないからだ。
理由もない、信念もない。ただただプレイヤーに害を為す存在であったPKに対して、シンは自身のリソースを最低限しか割り振っていない。
憎しみはある。恨みもある。だが、殺したPKや壊滅させたPKギルドのことまで、覚えておこうという気になれなかった。
命を奪うことに罪悪感はないのか、人を殺しておいて忘れるとは何事だと言われたとしても、欠片も気にしないだろう。
プレイヤーの中にはPKを殺すことに罪悪感を覚える者もいたが、シンにはそれが理解できなかった。
「にしても、さすがに金積まれたって、生け贄集めの手伝いはまずいだろ」
「依頼に見合うだけの報酬があれば、内容は問わないというのを徹底しているようですから。むしろ、彼らが積極的に関与している可能性すらあります。プレイヤーの関係者なら、わざと瘴気を発生させるように導くこともできますし、プレイヤーが阻止しなければ瘴魔が出現してしまうようなクエストもありました。逆に、あえて失敗するように誘導することもできると思います。過去に、実行に移そうとした集団を討伐したこともありますから、ありえなくはないでしょう」
「あったのかよ。まあ、俺が潰したのはプレイヤーだけだし、シュニーのようなサポートキャラが残ってるのは間違いない。ゲーム時代の知識があれば可能か」
PKによるクエスト妨害はゲーム時代も起こったことだ。やりようによっては、わざと強力な瘴魔を発生させる、なんてことも不可能ではない。
『頂の派閥』の方針とズレがあるようにも感じられるが、ブルクの部屋で発生していた瘴気のことを考えると、必ずしも組織が一枚岩とは限らなかった。
「ブルクはブルクでいろいろ動いてたってとこか。『悪徳の贄』なんて裏ギルドともつながりがあったみたいだし」
「そのギルドはもう残っていないのかもしれません。『蛇円の虚』は他ギルドとの多重契約を嫌いますから」
シュニーはかつて『蛇円の虚』と契約していた者が他の闇ギルドとも契約した際に、そのギルドが壊滅させられたと聞いたことがあった。
『蛇円の虚』にとって、他のギルドと契約するということは、組織の実力を疑われたのと同義だという。無論、契約した本人も狙われる。
「さすが大手。やることがでかい」
ため息交じりにシンが言う。笑えない話だった。
「結局、手掛かりはなしか」
「手掛かりはティエラの見た影か、ブルクの言う迎えの使者くらいですか」
「何もないよりはましだな。よし、まずは2日後だ」
少しでも有力な手掛かりを得るため、シンは準備を進めることにした。
†
ブルクの部屋の調査を終えたシンとシュニーは、一旦リリシラの部屋へと戻った。
誰かしらいるかと思ったシンだが、作業が早かったようでまだ誰もいない。
シンがパルミラックの機能を使って検索を行うと、ティエラはミリーやヴィルヘルムたちと同じ部屋にいるのがわかった。
リリシラやシュバイドは居住区にある部屋のひとつに突入するところで、すでにいくつかの部屋を制圧しているようだった。ブルクの仲間と戦っているのだろう。
「とりあえず、みんな大丈夫そうだな」
「リリシラさんにはシュバイドがついていますし、万が一もないでしょう」
シュニーの言葉にうなずいて、シンはティエラたちのもとへ向かう。シンとシュニーが部屋に入ると、気づいたミリーが駆け寄って来た。
「シンにぃ!」
「おっと! 目が覚めたのか。体は大丈夫か?」
「ミリー元気!」
飛びついてきたミリーを受け止めつつ、シンは彼女のステータスを確認する。見たところHP、MPともに全快で、状態異常もない。
ステータス画面ですべてわかるわけではないが、少なくとも目に見える後遺症はないと言っていいだろう。
「ティエラから話は聞いたか?」
「うん」
笑顔でうなずくミリー。ミリーに続く形で歩いてきたティエラも、シンの視線の先でうなずいた。
「なら善は急げだ。ラシアやトリアさんを安心させてやらないとな」
ミリーの頭をなでながら、シンは言う。
移動の途中でビジーには連絡し準備はすませてあるので、すぐにでも移動は可能だった。ビジーには、シンたちが儀式を潰すまでミリーの護衛も頼んでいる。
武装を強化されたヴィルヘルムとビジー、加えて彼女の配下であるエルダードラゴンがいれば、再び敵が手を伸ばしてきても早々にやられることはない。
「行かれるのですか?」
「はい、ミリーを心配している人がいます。守れなかったことをひどく悔んでいましたから」
「そうですか。でしたら、急いだほうがよろしいですね」
ハーミィはそう言って安心したように微笑む。称号が原因で利用されていた経験のあるハーミィは、同じ称号を持つミリーが大切にされているのがうれしいようだった。
「すでに準備は出来ています。これから出発させようと思うのですが」
「承知しました」
ハーミィの言葉にうなずいて、シンはヴィルヘルムに目を向ける。
ヴィルヘルムはアイテムボックスも使えるので、準備せずともすぐに出発可能だ。ミリーは着の身着のままで攫われてきたので、荷物などない。
念のためシュバイドたちが戻ってくるのを待ち、合流してから行動することにした。
ミリーたちを送るために、シンたちは一旦ジグルスを出る。
カゲロウの牽引力により少々おかしな速度で進む馬車に乗って荒野を突っ切り、ビジーの待つポイントへと向かう。
本来ならひどい揺れに襲われているところだが、馬車に搭載された衝撃吸収機構がその性能を遺憾なく発揮し搭乗者、とくにミリーが乗り物酔いになることを防いでいた。
「ヴィルにぃヴィルにぃ! お外がすごい! なんかびゅーんてする!」
「はしゃぎすぎて椅子から落ちるなよ」
普通の馬車とは比べ物にならない速度で流れていく景色に目をキラキラさせているミリーを、ヴィルヘルムが注意する。足場への注意がおろそかになっているので、少し強い揺れがあると椅子から転げ落ちかねないのだ。
「こういうのはどこも同じか」
電車ではしゃぐ子供を見ているような気分になったシンは、ついそんなことを口にする。そういえば、ゲームに馴染んでいたころでも、ふとした拍子に現実を思い出すことがあった。
「故郷でも思い出した?」
「ん?」
ミリーに穏やかな視線を向けていたシンに、ティエラが問いかけた。
「あなたの顔、どこか遠くの何かを思う表情をしていたわ。そういう時って、故郷を懐しがってる場合が多いじゃない」
「そんな顔してたか?」
「んと、そういう人が多いってだけだけど、さ。私的には、外してないと思うんだけど?」
「そうだな、当たらずとも遠からず、でいいのかね」
疑問符付きで言うティエラに、シンは首をかしげながら答える。故郷と言えばそうかもしれないが、厳密に言うと少し違う。なにせ別の世界なのだから。
「ま、昔のことを思い出してたのは間違いないか。子供の行動ってやっぱり似るんだな、って思ってな。ミリーと同じようなことしてる子供を見たことがあるんだよ」
「そっか、このくらいが普通だったころがあったのよね」
シンの思い出しているのが『栄華の落日』以前の世界だと勘違いしたティエラ。昔は街を走る辻馬車もこれくらいの速度だったのだろうと考え、納得した。
「時代が違っても、子供の反応って変わらないのね。なんだかちょっとだけ親近感が湧くわ」
「やってることはそんなに変わらないからな。モンスター狩って、武器や防具を作って、建物を建てて、研究して、冒険して、戦って。汚いことするやつだっていたし、まじめに努力してるやつもいた。同じ人間なんだ、そう多くの違いなんてないだろ」
【THE NEW GATE】内においては、プレイスタイル――生き方はまさしく千差万別。人の数だけ違いはあったが、この世界と大きくは変わらなかった。
「お前みたいなハイヒューマンがごろごろいる世界なんざ想像したくねぇなぁ」
「おいおい、俺クラスはそんなにいないぞ。能力も含めて同レベルだったのは、結局6人だけだったし」
「6人もいる時点でどうかしてんだろ。その時代に生まれなくてよかったと心底思うぜ」
足を組み、馬車の背もたれに寄りかかりながら軽い口調でヴィルヘルムが言う。
爆走していても魔術による防音が施された馬車の中は静かなもので、この会話は丸聞こえだ。馬車に乗っている面々はほぼ全員シンがハイヒューマンだと知っていたので、遠慮なく話すことができた。
唯一ミリーには話していなかったが、実は初めて会ったときからわかっていたと言って、シンたちを驚かせていた。
「シンにぃはね。なんかすごい」
「すさまじく曖昧だな。そういえばシュニーに、俺がもうすぐ帰ってくるとか言ったらしいけど、あれも未来が見えてたのか?」
「なんかね、シューねぇがうれしそうにだれかに抱きついてるのが見えたの。なんだかむねがポカポカしたから、いいことだと思ったの」
以前シュニーから、主が戻ってくるのを待っているという話を聞いた後に、その予知を見たという。
当時は能力もかなり不安定だったが、その時だけは妙な確信があり、それをシュニーに伝えたのだ。
ミリーの言った内容にうなずく一同。ただ、ヴィルヘルムを皮切りにシン以外のメンツは別の部分に反応する。
「そういうことだったのか……にしても抱きついた、ねェ」
「我に話してくれたことも同じようなものだったな……ふむ、抱きついたのか」
「不思議な力ね……師匠、抱きついたんですか?」
『くぅ、シュニーお姉ちゃん、シン大好き!』
にやりと笑うヴィルヘルム。うむうむとうなずくシュバイド。真剣な顔のティエラ。普段のシュニーからはなかなか想像できない一面に、一同の興味は完全にミリーの能力から外れていた。
ユズハの心話がシンにしか届いていなかったのが、唯一の救いといえる。
「な、なんですか! そこは追及するところではないでしょう!」
慌てたのは、御者をしていたが故に会話に混ざっていなかったシュニーである。
シュニーがシンと再会した時に、思わず抱きついてしまったことは当人たちとユズハしか知らなかったが、ここにきてまさかの暴露。
普段の様子を知っている者たちからすれば、そんな大胆なことをしたのか!? というレベルの大事件だった。
「浮いた噂ひとつなかったお堅いハイエルフ様がねぇ。抱きつくとはまた大胆なことをしたもんだ」
「なるほど、我の知らぬところでしっかり行動していたか。うむ、よきかなよきかな」
御者の役割を放棄し、らしくもなくわたわたとうろたえるシュニーを見て、ヴィルヘルムとシュバイドの視線が生温かいものに変化する。
出会って間もないというのに、視線と表情だけでコミュニケーションを取りながら、シュニーをいじっていた。
「否定しないってことは、ほんとに?」
少々反応が違ったのはティエラ。シュニーの様子からミリーの言葉が真実だと理解し、同時に胸が少しもやもやしていた。
布団潜り込み事件や月夜の邂逅を知らないティエラは、シュニーがシンに向ける気持ちが忠誠心によるものか、愛情故なのか判断しかねて――というより意図的に保留していたのだが、ここに至っては確信せざるを得ない。
ただ、この胸のもやもやはいったい何なのか。ティエラにはわからなかった。
そういった気持ちを抱くこともなく里を追われ、それからの人生をずっと月の祠で過ごしてきたティエラには、その気持ちに名前をつけることができなかったのだ。
「シュニーをからかうのもほどほどにしとけよ? あとが怖いぞ」
「月の祠のシュニー・ライザーをいじれるなんざ、人生に一度あるかないかだからな。これは逃せねぇだろ」
「我はいじってなどおらんさ。微笑ましいと思ったまでよ」
「く、2人とも、覚えていなさい……」
御者側に背を向けて座っていたシンを挟んで、シュニーは恨みがましい口調で言った。よほど恥ずかしかったのか、長い耳が赤く染まっている。
それを見てニヤニヤが加速するヴィルヘルムとシュバイド。
どうするべきか判断に困るシン。少し面白くないティエラ。
くぅくぅ、ぐるぐる鳴きながら、御者を失った馬車を目的地に向けて方向修正する神獣2匹と、馬車内は混迷を深めていた。
†
「さて、着いたぞ。みんな降りた降りた」
混沌とした空気に耐えること数分。ユズハとカゲロウのおかげで、無事に待ち合わせの場所に到着した。
なんとも形容しがたい空気を一掃するために、シンは早く降りるようにと急かす。
ヴィルヘルムもシュバイドも引き際はわきまえていたようで、さっさとそれに応じた。
「ふ、ふふふ。このお礼は後日しっかりさせてもらいますよ」
まだ耳が少し赤いシュニーが、シンの背後で決意を固めていた。
からかわれることが少ないので、思ったよりダメージがあったようだ。
「ほどほどにな。まあ、なんだ。あー……恥ずかしがってるシュニーも、けっこう、可愛かったぞ?」
「えっ!? あ、と、その……ありがとう、ございます……」
フォローのつもりで慣れないことを言ってみたシン。その効果は本人が思っていたよりも大きかった。
再び顔を真っ赤にするシュニーを見て、「何この可愛い生き物」なんて感想を抱く。
「ええと……こういうのって、言われ慣れてるんじゃないのか?」
「相手によります。す……好きな人に言われたら、その……嬉しいに決まってるじゃないですか……」
消え入りそうな声で言いながら、上目遣いでシンを睨むシュニー。その可愛らしい仕草に、シンの手が自然とシュニーの頭に伸びた。
「ぇ、ぇと……ぁぅ……」
唐突なその行動に、シュニーの口から言葉にならない声が漏れる。シンの手の動きはゆっくりと、主の気持ちをシュニーに伝えてくる。
「ぁ……悪い」
自分が何をしているのか自覚したシンが、はっとした表情で手を引いた。胸の内に湧いた、温かい感情がシンの手を動かしたのだ。
かつてシンが手に入れ、そして失った感情。愛おしい誰かを思う気持ち。
自分の心の動きに、シン自身も少し驚いていた。
だが、今はそれよりも先に確かめなければならないことがある。
恐る恐るシュニーの表情を窺うと、どこか恍惚とした様子で固まっていた。
ひとまず不機嫌にはなっていないようだと、シンは静かに息を吐く。
「あー……と、シュニー?」
「は!? な、なんでしょうか!?」
「いや、なんというか、すまん。つい手が、な」
「いえ、その、嫌ではありませんので」
思春期か! とシンが自分で自分に突っ込みを入れてしまうほど、ぎこちないやり取りだった。だが、シンにそれを厭う気持ちは微塵もない。
自身の気持ちの変化を、実感していた。
「シンにぃとシューねぇは、あつあつなの?」
「っ!?」
すっかり2人だけの世界を作っていたシンとシュニーに、舌足らずな声がかかる。2人が声のしたほうに視線を向けると、じーっと見つめてくるミリーがいた。
「あつあつ?」
「うぇ!? ああっとだな、そ、そうだ。ミリーは、先に行ったんじゃなかったか?」
「2人がなかなか来ないから、よんできてって」
「そうか。すぐに行くから、戻ってていいぞ」
「わかった…………あつあつ?」
「それはもういいから!」
話をそらそうとしたシンだが、ミリーには効かなかった。
ヴィルヘルムのもとへと走っていくミリーの顔は、やはりというべきか、にやりと笑っているようにシンには感じられた。
「……どうやら、早く行ったほうがよさそうだ」
「そのようですね。でもすみません、20秒だけ待ってください」
赤くなっているのを自覚しているシュニーが、落ち着くのを待ってシンも馬車を降りた。
パルミラックを構成しているキメラダイトの壁は、その構造がところどころ違う。
各部屋や通路の壁はアダマンティンを混ぜたキメラダイト。そしてその一部には魔術の効果を伝えやすいミスリルが使われており、瘴気を感知すると自動で浄化を行うのだ。
壁にコーティングされているオリハルコンもある程度までの瘴気をはらう能力があるので、パルミラック内は瘴気が溜まりにくい構造と言えた。
だが、今回のように大量かつ高濃度の瘴気が一点集中で発生すると、たとえ機能が生きていても浄化は難しい。シュニーの予想は実に的を射ていた。
「他には、めぼしいものはないな。次の部屋に行くか」
最初の部屋の調査を終えて、2人は奥の部屋へと進む。
こちらにもほぼ同数の瘴石が各所に設置されており、部屋がよどんで見えるほどの瘴気が出ていたことが予想できた。
「そういえば、ブルクから何か情報はなかったのですか?」
「本人は正気のつもりらしかったんだが、記憶に欠落も多くてな。儀式のこととか、生け贄のこととか、その辺は覚えてたけど、本部のことや他の幹部のことなんかはかなり曖昧だったんだ。迎えに来るのが金髪の女だってことは覚えてたが、名前とか忘れてたしな」
シンはブルクを尋問する際、精神系のスキルを使用した。強制的に情報を吐かせたわけだが、それでも得られたものは少なかった。
瘴気の影響か、他の要因かは判断がつかないが、もし自分がどうにかなっても情報が漏れないように準備していたようだった。
ただ、スキルで操られていた、アイテムで操られていたなどといった可能性はない。
なぜなら、自分の欲望についてはおかしなくらい饒舌に語ってくれたからだ。やはりというべきか、今の状態になるだけの土壌はあったと言うほかない。
「一緒にいた男、エイラインでしたか。あれは影響を受けていないようでしたが」
「上級選定者って話だし、抵抗力が高かったんじゃないか? アイテムだってそれなりの物を持ってたし、武器は『イクスヴェイン』だしな。といっても、別の意味で影響は受けてたと思うけど」
フィルマの本来の得物ではないとはいえ、『イクスヴェイン』は強力な武器だ。ランクの低い武器に比べれば、瘴気に対する抵抗力を高める一助になっていてもおかしくはない。
ただエイラインの性格の捻じ曲がり方を見ると、それがブルクの教育の成果と瘴気のコンボが炸裂したせいだという気がしてならなかった。
「さて、これで部屋は一通り調べたな。派閥の幹部の割には、めぼしいものがないな」
瘴気が充満していたブルクの私室だが、瘴石以外にこれといったものは発見できなかった。
隠しているわけでもなく、組織に関係していそうなものがまったくない状況を鑑みると、幹部だというブルクの発言に疑いを持たざるを得ない。
「もしかすると、幹部というのは思い込みか瘴気の見せた幻だったのでは?」
「かもしれないな。やってることが、ただの人攫い要員だし」
ブルクは司祭という地位を利用して生け贄を集めるための捨て駒。それがシンたちの予想だった。ただしその所業を考えると、予想が正解でも同情の余地はない。
「後は隠し部屋か」
「何かあるとすれば、そっちでしょうね」
シンは部屋のギミックを発動させて、隠し部屋へ続く通路の扉を開く。
そして、シュバイドたちと同様に漂ってきた異臭に顔をしかめた。
「……くさいとかいうレベルじゃないな」
「ひどい臭いです」
吐き気を誘う臭気に耐えながら、シンとシュニーは通路を進む。突き当たりに着くと躊躇なく扉を開けた。
「返り血って、消えないんだな」
「そのようですね」
先日刺客を訪問した際に、死体は消えるとリリシラから聞いていたシン。てっきり血も消えると思っていたのだが、この部屋の惨状を見るとそれが間違いだと理解できる。
床、壁、そして天井にすら血痕と思しき染みがあった。
「にしてもだ。シュニー、これってやっぱり、何かの絵だよな?」
「血で描かれているというのが、いささか悪趣味ですが」
シンとシュニーの視線の先には、壁一面に、半分に欠けた仮面とそれに巻きつく蛇の絵が描かれていた。
塗料が血だからか、見る者に凄惨な印象を与える。
「どこかで見たことがあるような……」
「これは闇ギルドの紋章です。組織としてはかなり大きかったと記憶しています」
シンが記憶の片隅に引っかかるような感覚に首を捻っていると、シュニーが確信を持って言った。
目の前に広がる不吉な絵に、見覚えがあったのだ。
「ギルド名はわかるか?」
「『蛇円の虚』というギルドです。報酬しだいで、どのような依頼でも受けることで有名ですね。暗殺や窃盗などの犯罪にも手を染める反面、報酬さえ積めば他の闇ギルドを潰したり犯罪者を捕獲したり社会の役に立つこともするので、各国とも扱いに困っている組織です」
「なるほど、まさに何でも屋か。にしても、その名前どこかで聞いたような」
「……もとはゲーム時代からあるPKギルドですから。シンが壊滅させたギルドの配下たちが結成したんです」
「ああ、道理で」
若干表情を硬くして言うシュニーに、シンは言葉少なに返した。シュニーと比べ、その口調はひどく軽かった。
実際問題として、シンは描かれた絵を見てもなんとなく見たことがあるような気がする程度だった。なぜなら、斬り捨てた後のPKなど覚えている必要性を感じないからだ。
理由もない、信念もない。ただただプレイヤーに害を為す存在であったPKに対して、シンは自身のリソースを最低限しか割り振っていない。
憎しみはある。恨みもある。だが、殺したPKや壊滅させたPKギルドのことまで、覚えておこうという気になれなかった。
命を奪うことに罪悪感はないのか、人を殺しておいて忘れるとは何事だと言われたとしても、欠片も気にしないだろう。
プレイヤーの中にはPKを殺すことに罪悪感を覚える者もいたが、シンにはそれが理解できなかった。
「にしても、さすがに金積まれたって、生け贄集めの手伝いはまずいだろ」
「依頼に見合うだけの報酬があれば、内容は問わないというのを徹底しているようですから。むしろ、彼らが積極的に関与している可能性すらあります。プレイヤーの関係者なら、わざと瘴気を発生させるように導くこともできますし、プレイヤーが阻止しなければ瘴魔が出現してしまうようなクエストもありました。逆に、あえて失敗するように誘導することもできると思います。過去に、実行に移そうとした集団を討伐したこともありますから、ありえなくはないでしょう」
「あったのかよ。まあ、俺が潰したのはプレイヤーだけだし、シュニーのようなサポートキャラが残ってるのは間違いない。ゲーム時代の知識があれば可能か」
PKによるクエスト妨害はゲーム時代も起こったことだ。やりようによっては、わざと強力な瘴魔を発生させる、なんてことも不可能ではない。
『頂の派閥』の方針とズレがあるようにも感じられるが、ブルクの部屋で発生していた瘴気のことを考えると、必ずしも組織が一枚岩とは限らなかった。
「ブルクはブルクでいろいろ動いてたってとこか。『悪徳の贄』なんて裏ギルドともつながりがあったみたいだし」
「そのギルドはもう残っていないのかもしれません。『蛇円の虚』は他ギルドとの多重契約を嫌いますから」
シュニーはかつて『蛇円の虚』と契約していた者が他の闇ギルドとも契約した際に、そのギルドが壊滅させられたと聞いたことがあった。
『蛇円の虚』にとって、他のギルドと契約するということは、組織の実力を疑われたのと同義だという。無論、契約した本人も狙われる。
「さすが大手。やることがでかい」
ため息交じりにシンが言う。笑えない話だった。
「結局、手掛かりはなしか」
「手掛かりはティエラの見た影か、ブルクの言う迎えの使者くらいですか」
「何もないよりはましだな。よし、まずは2日後だ」
少しでも有力な手掛かりを得るため、シンは準備を進めることにした。
†
ブルクの部屋の調査を終えたシンとシュニーは、一旦リリシラの部屋へと戻った。
誰かしらいるかと思ったシンだが、作業が早かったようでまだ誰もいない。
シンがパルミラックの機能を使って検索を行うと、ティエラはミリーやヴィルヘルムたちと同じ部屋にいるのがわかった。
リリシラやシュバイドは居住区にある部屋のひとつに突入するところで、すでにいくつかの部屋を制圧しているようだった。ブルクの仲間と戦っているのだろう。
「とりあえず、みんな大丈夫そうだな」
「リリシラさんにはシュバイドがついていますし、万が一もないでしょう」
シュニーの言葉にうなずいて、シンはティエラたちのもとへ向かう。シンとシュニーが部屋に入ると、気づいたミリーが駆け寄って来た。
「シンにぃ!」
「おっと! 目が覚めたのか。体は大丈夫か?」
「ミリー元気!」
飛びついてきたミリーを受け止めつつ、シンは彼女のステータスを確認する。見たところHP、MPともに全快で、状態異常もない。
ステータス画面ですべてわかるわけではないが、少なくとも目に見える後遺症はないと言っていいだろう。
「ティエラから話は聞いたか?」
「うん」
笑顔でうなずくミリー。ミリーに続く形で歩いてきたティエラも、シンの視線の先でうなずいた。
「なら善は急げだ。ラシアやトリアさんを安心させてやらないとな」
ミリーの頭をなでながら、シンは言う。
移動の途中でビジーには連絡し準備はすませてあるので、すぐにでも移動は可能だった。ビジーには、シンたちが儀式を潰すまでミリーの護衛も頼んでいる。
武装を強化されたヴィルヘルムとビジー、加えて彼女の配下であるエルダードラゴンがいれば、再び敵が手を伸ばしてきても早々にやられることはない。
「行かれるのですか?」
「はい、ミリーを心配している人がいます。守れなかったことをひどく悔んでいましたから」
「そうですか。でしたら、急いだほうがよろしいですね」
ハーミィはそう言って安心したように微笑む。称号が原因で利用されていた経験のあるハーミィは、同じ称号を持つミリーが大切にされているのがうれしいようだった。
「すでに準備は出来ています。これから出発させようと思うのですが」
「承知しました」
ハーミィの言葉にうなずいて、シンはヴィルヘルムに目を向ける。
ヴィルヘルムはアイテムボックスも使えるので、準備せずともすぐに出発可能だ。ミリーは着の身着のままで攫われてきたので、荷物などない。
念のためシュバイドたちが戻ってくるのを待ち、合流してから行動することにした。
ミリーたちを送るために、シンたちは一旦ジグルスを出る。
カゲロウの牽引力により少々おかしな速度で進む馬車に乗って荒野を突っ切り、ビジーの待つポイントへと向かう。
本来ならひどい揺れに襲われているところだが、馬車に搭載された衝撃吸収機構がその性能を遺憾なく発揮し搭乗者、とくにミリーが乗り物酔いになることを防いでいた。
「ヴィルにぃヴィルにぃ! お外がすごい! なんかびゅーんてする!」
「はしゃぎすぎて椅子から落ちるなよ」
普通の馬車とは比べ物にならない速度で流れていく景色に目をキラキラさせているミリーを、ヴィルヘルムが注意する。足場への注意がおろそかになっているので、少し強い揺れがあると椅子から転げ落ちかねないのだ。
「こういうのはどこも同じか」
電車ではしゃぐ子供を見ているような気分になったシンは、ついそんなことを口にする。そういえば、ゲームに馴染んでいたころでも、ふとした拍子に現実を思い出すことがあった。
「故郷でも思い出した?」
「ん?」
ミリーに穏やかな視線を向けていたシンに、ティエラが問いかけた。
「あなたの顔、どこか遠くの何かを思う表情をしていたわ。そういう時って、故郷を懐しがってる場合が多いじゃない」
「そんな顔してたか?」
「んと、そういう人が多いってだけだけど、さ。私的には、外してないと思うんだけど?」
「そうだな、当たらずとも遠からず、でいいのかね」
疑問符付きで言うティエラに、シンは首をかしげながら答える。故郷と言えばそうかもしれないが、厳密に言うと少し違う。なにせ別の世界なのだから。
「ま、昔のことを思い出してたのは間違いないか。子供の行動ってやっぱり似るんだな、って思ってな。ミリーと同じようなことしてる子供を見たことがあるんだよ」
「そっか、このくらいが普通だったころがあったのよね」
シンの思い出しているのが『栄華の落日』以前の世界だと勘違いしたティエラ。昔は街を走る辻馬車もこれくらいの速度だったのだろうと考え、納得した。
「時代が違っても、子供の反応って変わらないのね。なんだかちょっとだけ親近感が湧くわ」
「やってることはそんなに変わらないからな。モンスター狩って、武器や防具を作って、建物を建てて、研究して、冒険して、戦って。汚いことするやつだっていたし、まじめに努力してるやつもいた。同じ人間なんだ、そう多くの違いなんてないだろ」
【THE NEW GATE】内においては、プレイスタイル――生き方はまさしく千差万別。人の数だけ違いはあったが、この世界と大きくは変わらなかった。
「お前みたいなハイヒューマンがごろごろいる世界なんざ想像したくねぇなぁ」
「おいおい、俺クラスはそんなにいないぞ。能力も含めて同レベルだったのは、結局6人だけだったし」
「6人もいる時点でどうかしてんだろ。その時代に生まれなくてよかったと心底思うぜ」
足を組み、馬車の背もたれに寄りかかりながら軽い口調でヴィルヘルムが言う。
爆走していても魔術による防音が施された馬車の中は静かなもので、この会話は丸聞こえだ。馬車に乗っている面々はほぼ全員シンがハイヒューマンだと知っていたので、遠慮なく話すことができた。
唯一ミリーには話していなかったが、実は初めて会ったときからわかっていたと言って、シンたちを驚かせていた。
「シンにぃはね。なんかすごい」
「すさまじく曖昧だな。そういえばシュニーに、俺がもうすぐ帰ってくるとか言ったらしいけど、あれも未来が見えてたのか?」
「なんかね、シューねぇがうれしそうにだれかに抱きついてるのが見えたの。なんだかむねがポカポカしたから、いいことだと思ったの」
以前シュニーから、主が戻ってくるのを待っているという話を聞いた後に、その予知を見たという。
当時は能力もかなり不安定だったが、その時だけは妙な確信があり、それをシュニーに伝えたのだ。
ミリーの言った内容にうなずく一同。ただ、ヴィルヘルムを皮切りにシン以外のメンツは別の部分に反応する。
「そういうことだったのか……にしても抱きついた、ねェ」
「我に話してくれたことも同じようなものだったな……ふむ、抱きついたのか」
「不思議な力ね……師匠、抱きついたんですか?」
『くぅ、シュニーお姉ちゃん、シン大好き!』
にやりと笑うヴィルヘルム。うむうむとうなずくシュバイド。真剣な顔のティエラ。普段のシュニーからはなかなか想像できない一面に、一同の興味は完全にミリーの能力から外れていた。
ユズハの心話がシンにしか届いていなかったのが、唯一の救いといえる。
「な、なんですか! そこは追及するところではないでしょう!」
慌てたのは、御者をしていたが故に会話に混ざっていなかったシュニーである。
シュニーがシンと再会した時に、思わず抱きついてしまったことは当人たちとユズハしか知らなかったが、ここにきてまさかの暴露。
普段の様子を知っている者たちからすれば、そんな大胆なことをしたのか!? というレベルの大事件だった。
「浮いた噂ひとつなかったお堅いハイエルフ様がねぇ。抱きつくとはまた大胆なことをしたもんだ」
「なるほど、我の知らぬところでしっかり行動していたか。うむ、よきかなよきかな」
御者の役割を放棄し、らしくもなくわたわたとうろたえるシュニーを見て、ヴィルヘルムとシュバイドの視線が生温かいものに変化する。
出会って間もないというのに、視線と表情だけでコミュニケーションを取りながら、シュニーをいじっていた。
「否定しないってことは、ほんとに?」
少々反応が違ったのはティエラ。シュニーの様子からミリーの言葉が真実だと理解し、同時に胸が少しもやもやしていた。
布団潜り込み事件や月夜の邂逅を知らないティエラは、シュニーがシンに向ける気持ちが忠誠心によるものか、愛情故なのか判断しかねて――というより意図的に保留していたのだが、ここに至っては確信せざるを得ない。
ただ、この胸のもやもやはいったい何なのか。ティエラにはわからなかった。
そういった気持ちを抱くこともなく里を追われ、それからの人生をずっと月の祠で過ごしてきたティエラには、その気持ちに名前をつけることができなかったのだ。
「シュニーをからかうのもほどほどにしとけよ? あとが怖いぞ」
「月の祠のシュニー・ライザーをいじれるなんざ、人生に一度あるかないかだからな。これは逃せねぇだろ」
「我はいじってなどおらんさ。微笑ましいと思ったまでよ」
「く、2人とも、覚えていなさい……」
御者側に背を向けて座っていたシンを挟んで、シュニーは恨みがましい口調で言った。よほど恥ずかしかったのか、長い耳が赤く染まっている。
それを見てニヤニヤが加速するヴィルヘルムとシュバイド。
どうするべきか判断に困るシン。少し面白くないティエラ。
くぅくぅ、ぐるぐる鳴きながら、御者を失った馬車を目的地に向けて方向修正する神獣2匹と、馬車内は混迷を深めていた。
†
「さて、着いたぞ。みんな降りた降りた」
混沌とした空気に耐えること数分。ユズハとカゲロウのおかげで、無事に待ち合わせの場所に到着した。
なんとも形容しがたい空気を一掃するために、シンは早く降りるようにと急かす。
ヴィルヘルムもシュバイドも引き際はわきまえていたようで、さっさとそれに応じた。
「ふ、ふふふ。このお礼は後日しっかりさせてもらいますよ」
まだ耳が少し赤いシュニーが、シンの背後で決意を固めていた。
からかわれることが少ないので、思ったよりダメージがあったようだ。
「ほどほどにな。まあ、なんだ。あー……恥ずかしがってるシュニーも、けっこう、可愛かったぞ?」
「えっ!? あ、と、その……ありがとう、ございます……」
フォローのつもりで慣れないことを言ってみたシン。その効果は本人が思っていたよりも大きかった。
再び顔を真っ赤にするシュニーを見て、「何この可愛い生き物」なんて感想を抱く。
「ええと……こういうのって、言われ慣れてるんじゃないのか?」
「相手によります。す……好きな人に言われたら、その……嬉しいに決まってるじゃないですか……」
消え入りそうな声で言いながら、上目遣いでシンを睨むシュニー。その可愛らしい仕草に、シンの手が自然とシュニーの頭に伸びた。
「ぇ、ぇと……ぁぅ……」
唐突なその行動に、シュニーの口から言葉にならない声が漏れる。シンの手の動きはゆっくりと、主の気持ちをシュニーに伝えてくる。
「ぁ……悪い」
自分が何をしているのか自覚したシンが、はっとした表情で手を引いた。胸の内に湧いた、温かい感情がシンの手を動かしたのだ。
かつてシンが手に入れ、そして失った感情。愛おしい誰かを思う気持ち。
自分の心の動きに、シン自身も少し驚いていた。
だが、今はそれよりも先に確かめなければならないことがある。
恐る恐るシュニーの表情を窺うと、どこか恍惚とした様子で固まっていた。
ひとまず不機嫌にはなっていないようだと、シンは静かに息を吐く。
「あー……と、シュニー?」
「は!? な、なんでしょうか!?」
「いや、なんというか、すまん。つい手が、な」
「いえ、その、嫌ではありませんので」
思春期か! とシンが自分で自分に突っ込みを入れてしまうほど、ぎこちないやり取りだった。だが、シンにそれを厭う気持ちは微塵もない。
自身の気持ちの変化を、実感していた。
「シンにぃとシューねぇは、あつあつなの?」
「っ!?」
すっかり2人だけの世界を作っていたシンとシュニーに、舌足らずな声がかかる。2人が声のしたほうに視線を向けると、じーっと見つめてくるミリーがいた。
「あつあつ?」
「うぇ!? ああっとだな、そ、そうだ。ミリーは、先に行ったんじゃなかったか?」
「2人がなかなか来ないから、よんできてって」
「そうか。すぐに行くから、戻ってていいぞ」
「わかった…………あつあつ?」
「それはもういいから!」
話をそらそうとしたシンだが、ミリーには効かなかった。
ヴィルヘルムのもとへと走っていくミリーの顔は、やはりというべきか、にやりと笑っているようにシンには感じられた。
「……どうやら、早く行ったほうがよさそうだ」
「そのようですね。でもすみません、20秒だけ待ってください」
赤くなっているのを自覚しているシュニーが、落ち着くのを待ってシンも馬車を降りた。
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