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6巻
6-3
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「どうぞ」
「あ、ああ。なあシュニー、今のは一体」
「『真月』に私の魔力を込めました。こうした方がいいような気がして。少しはシンの助けになればいいのですが」
「いや、むしろ礼を言わなくちゃならない。これで足りなかったものが埋まったのは間違いない」
『真月』を見ながらシンは言う。
今のシュニーの行動に間違いはないと、シンは直感していた。
そして同時に理解する。あと3つだと。
「まだ完全じゃないが、どうすればいいのかわかった。ありがとな」
「そう言っていただけると、嬉しいです」
優しく微笑むシュニーは、本当に綺麗だった。
その微笑にシンは息を呑む。人を惹きつけてやまないのに、触れることを躊躇わせるような、言葉にできない美しさがあった。
「――っ、えっと、シュニー、はこの後どうするんだ?」
「できるなら、一緒に月を見ていたいです」
「……まあ、そのくらいお安い御用だが」
「では」
「っ!」
シュニーはそう言って、シンに体を寄せてきた。
肩に重さを感じるのは、シュニーが密着した状態で頭を乗せているからだろう。
「……あー、シュニーさん? これは」
「少しだけ、こうさせてください」
「……了解だ」
シンが肯定すると、肩にかかる重さが増した。
シュニーがその身のすべてを、シンに預けてきたからだろう。最初からそうしなかったのは、断られるかもしれないと思ったからか、それとも照れか。
「…………」
ほんの一時、2人は無言で月を見上げていた。
降り注ぐ月明かりが、縁側に影を形作る。
2人が部屋に戻るまで、寄り添い合う影が離れることはなかった。
†
翌朝、シンたちはキルモントへ向けて出発した。
バルメルで共に戦ったひびねこたちにも挨拶をして回ったので、一般の商人や冒険者よりも若干遅い出発だ。おかげで馬車の周りにはほとんど人がいない。
ティエラが窓の外を見ながらつぶやく。
「なんて言うか、すごくゆっくりに感じるわ」
「さすがに街の近くでかっ飛ばすわけにはいかないからな」
カゲロウの引く馬車は、一般的な馬車と大差ない速度で走っている。
かつてファルニッドへ行った際、馬車による高速移動を体験したティエラにはかなり遅く感じられたようだ。
「本来はこのくらいが普通なんですけどね」
「シンと会ってから、ほんとに感覚が変わってきてるわ……」
シュニーの一言に、ティエラの肩が若干下がる。
「ええと、そこは落ち込むとこなのか?」
「あれが普通と思うのはだめでしょ」
広く普及している馬車では不可能な速度を、当然と考えるのはおかしいと、ティエラはシンに呆れの混ざった視線を送る。
シンは「ですよねー」と応じながら、飾りでしかない手綱を握り直した。
目指す先は竜皇国『キルモント』。
シュバイドと合流するため、シンたちの旅が始まろうとしていた。
「人通りもないし、少しだけスピードアップを……ってメッセージ? ヴィルヘルムから!」
しかし、そんな一同の思惑とは関係なく、1通のメッセージがシンに届く。
ヴィルヘルムが些細なことでメッセージを飛ばしてくるとは思えなかったシンは、すぐに内容を確かめる。
「マジか!?」
「シン? どうかしたのですか?」
シュニーの声を無視して、シンは素早くアイテムカードを取り出しメッセージカードに添付する。
そして「使え」と、ただそれだけを書いて即座にヴィルヘルムに送り返した。
「シン?」
「どうしたのよ」
「くぅ?」
慌てた様子のシンに、シュニーだけでなくティエラやユズハも声をかけてくる。
シンは額にしわを寄せながら、ヴィルヘルムから届いたメッセージの内容を告げた。
――ラシアが刺されたと。
†
よく晴れた日のことだった。
シスターのラシアはいつもと同じ時間に起床し、祈り、子供たちを起こし、教会の仕事に精を出していた。
「では、行ってきます。後のことは頼みましたよ」
「はい、任せてください」
教会で冠婚葬祭が行われるのは珍しくない。今日はある人物の葬儀の打ち合わせに、トリアが出向くことになっていた。
こういうことはよくあるので、ラシアも気負うことはない。
「では治療しますからね。リラックスしてください」
「いつもすまないねぇ」
「気になさらないでください。これもシスターとしての職務ですから」
「あんなに小さかったラシアちゃんが、立派になったもんだよ。これなら、ここも安泰さね」
「トリアさんには苦労を掛けてしまいましたけど、これからは私も頑張りますよ」
教会の近くに住む老婆を相手に、ラシアは小さくガッツポーズを決める。
亡霊平原での一件を経てレベルも上がり、治癒能力も大きく上昇した。今まで手の出せなかった症状にも、ある程度効果が出ている。
教会の後継者問題も解決し、やっと落ち着いた生活が戻ってきた。
そう思っていたのに――。
「お邪魔するよ?」
「っ、ブルク神父様」
教会の入り口に姿を現したのは、ラシアと相続でもめていた神父だった。
脂ぎった顔から流れる汗をハンカチで拭きながら、見ているだけで不快になる笑みを向けてくる。
「ご婦人。申し訳ないがこれから教会関係者同士の話があるのです。席を外していただけませんかな?」
見た目こそ丁寧な口調と態度だったが、その実は老婆への命令だった。
教会の司祭と市井の老人では立場が違う。
老婆が教会を出て扉が閉まると、ラシアは早速切り出した。
「どのようなご用件でしょうか」
「どのような、とはご挨拶だねぇ。ここの引き継ぎについて話をしに来たに決まってるじゃないか」
ブルクは何を言っているのかという顔で返す。人を小馬鹿にしたような表情に、ラシアは不快感を強めた。
「ここは私が引き継ぐということで、話が付いているはずですが」
「おやおや、これはまた気が早い。教会本部からの正式な認証もなしに、この施設を任されたとでも思っているのかい? その認識は改めた方がいいだろうねぇ」
「っ……すでに他の司祭様からも問題ないだろうとお墨付きをもらっています。本部とは距離がありますから、もうしばらくすれば書状がこちらに着くはずです」
「しばらくとはどのくらいかね? 明日かね? それとも明後日? 明確に定まっていないことを根拠にするのはどうかと思うがねぇ」
声が耳に絡みつき、ラシアの全身に鳥肌が立つ。
今さらやってきて何だというのか。言いがかりでもつけるつもりかと思ったが、それにしては余裕がありすぎる。
「司祭様。まさかとは思いますが、そんなことを言いにわざわざお越しくださったので?」
「まさか、いずれ私のものになる教会だ。これは視察だよ、視察」
「……おっしゃる意味が、よくわかりませんね。なぜそんな発言が出てくるのでしょうか?」
ブルクの言い分は、まるでここが自分のものになると決まっているかのようだ。
「まったく。このようにつけあがる者がいるから、世襲制などやめてしまえと言っているのだ。何もわかっていない」
ブルクの口調が変わった。
「質問に答えてください。私が【浄化】を会得した今、規則でここの担当は私となるはずです」
「いやはや、わめくしかとりえがないのか。少しはおしとやかにしたらどうかね。本部のシスターは従順だぞ」
「――っ」
まったく会話が成立しない。
ラシアがブルクを睨みつけていると、唐突に教会の扉が開かれた。
「おや、遅れましたか」
「遅いぞ、エイライン! 貴様がなかなか合流しないせいで、ここに来るまでにひどい目に遭ったのだぞ。ゴーレムに追われるなど……」
「遺跡に寄るとか言い出したのは、ブルクさんなのでしょう? 僕にだって用事があるんですから、文句を言わないでくださいよ。せっかくあれの試し切りができて、いい気分だったんですから」
そう言いながら入ってきたのは、鎧を着た若い男だった。
ベイルリヒトには比較的多い金髪碧眼で、肩まである髪を紐でくくり、にこやかな笑みを浮かべている。甘いマスクも相まって、女性の思い描く理想の騎士のようだ。
ただ、会話しているのがブルクの時点でラシアには不審人物にしか見えなかったが。
「まあいい、何をするかは聞いているな?」
「ええ、外にいた者たちに聞きました。それで、連れて行くというのは彼女ですか?」
「違う、ビーストの子供だ。確か名前はミリーといったか。孤児院にいるだろう。連れてこい」
「わかりました」
なんの感情もなくブルクが命じた。
エイラインと呼ばれた男も、当たり前のようにミリーの場所へ向かおうとする。
「待ってください! ミリーをどうするつもりですか!!」
ラシアが割って入ったが、それを見たエイラインは首をかしげるだけだ。
「ブルクさん。この人邪魔なんですけど」
「好きにして構わん。すでに周囲は固めさせてある」
「では」
それは一瞬の早業だった。
ラシアへと向き直ったエイラインの左手が霞み、投擲用の短剣が放たれる。
その速度は明らかに一般人の力で放たれたものはない。もしラシアに命中すれば、それがどこだろうと簡単に貫くだろう。
「きゃっ!」
「うん?」
ただ、ラシアの周囲に発生した透明な膜、障壁が短剣を弾く。バチリと火花のようなものが飛び、それに驚いたラシアが尻餅をつく。
弾かれた短剣は、硬質な音を響かせて床に転がった。
「へぇ、結界系のアイテムを持ってるのか。それも、僕の投げた短剣を弾くなんてね。自分で作ったのかな、それとも誰かにもらったのかな?」
「っ!!」
興味深そうに笑みを深めるエイラインを、ラシアは驚愕の表情を浮かべたまま見つめていた。
先ほどの投擲がほとんど見えなかったからだ。
ラシアの現在のレベルは151。一般人としてはかなり高いほうだ。動体視力も強化されている。
エイラインとの距離が近いので攻撃を見切ることはできないだろうが、攻撃それ自体を見逃すとは思わなかった。
シンやヴィルヘルムと一緒に亡霊平原で戦ったおかげで、殺気というものも多少はわかるようになっている。少なくとも、敵意なり殺意なりがあれば、完璧ではないにせよ反応できる。
しかし、今のは話が違った。殺気どころかわずかな敵意もない。呼吸をするような自然な動作での投擲。人を確実に殺す攻撃を、何の気負いもなく放てる。その事実が恐ろしかった。
「答えてくれないかな?」
「お、お断りします」
「それは残念。じゃあ、体に聞くしかない、ね!」
言い終わると同時に、ラシアに向かって剣閃が走った。これも瞬時に展開した障壁が防ぐ。
だが、今度は短剣のように弾かれることはなく、火花を出しながら鉛色の大剣が障壁と拮抗していた。
「思ったより硬いね。連続で攻撃されたらどうかな?」
障壁を突破できない自身の大剣を見て、エイラインが感心した声を漏らす。そして次の瞬間には、再び大剣が複数の閃光となって障壁に叩きつけられた。
大剣と障壁がぶつかるたびに、ラシアの周囲を覆う障壁が少しずつ軋んでいく。
「エイライン、何を遊んでいる」
「いやいや、なかなか硬いんですよ?」
「あれがあるだろう。早くしろ」
「仕方ありませんね。モンスターでの試し切りはすんでますし、今度はこっちで試しますか」
エイラインは大剣をカード化してしまうと、代わりに別のカードを取り出して具現化させた。
刀身2メルほどの片刃の大剣だ。
刀身の幅は15セメルほどで、その刃は水晶のような透き通った赤色。鍔元には翼を模した装飾が施され、拳大の宝玉がはまっている。
ただ、その宝玉は刀身と違って黒く濁っていた。
「なかなかの美しさでしょう? 銘が『イクスヴェイン』ということしかわからないのが、残念でなりません」
エイラインが自慢するように『イクスヴェイン』を掲げて見せた。
「見た目だけでなく、性能も折り紙付きなんですよ。こんな風に!」
エイラインは、ラシアの視線が刀身に引き付けられているのを見て満足げにうなずくと、にこやかな笑みを崩さぬまま突きを放った。
空中に赤い残像を残して刃が唸りを上げる。刃はガラスを割るような音を残して障壁を貫通、その先にあったラシアの頬を掠めて停止した。
「……っ」
自身の横にある刃を見て、ラシアはごくりと喉を鳴らす。
もしエイラインがもう少し剣筋を横にずらしていれば、自分の首が飛んでいたのは間違いない。傷口から流れた血が頬を伝っていくのを感じながら、ラシアは体が震えるのを必死に抑えた。
「先ほどの質問、答えてくれません?」
「…………」
ラシアは悲鳴を上げないようにするのに必死で、とても答えられる状態ではなかった。
エイラインは表情こそ笑顔だが、それは好意的なものとは言えない。蝶の翅を毟って笑う子供のような、残酷な笑顔だった。
「……言え、ません。帰って、ください」
死ぬかもしれない。そんな思いがラシアの胸中を満たす。
エイラインの目を見て、ラシアは正直に言ったところで見逃してはもらえないと悟っていた。ゆえに、情報などくれてやるものかと歯を食いしばる。
「それは残念です。まあいいでしょう。目的は別ですし」
ミリーたちは孤児院にいる。死ぬ前に何としても危険を伝えなければならない。
緊急事態を知らせるためのアイテムまで、ラシアの脚で10歩ほど。決死の覚悟で走り出そうとしたラシアだったが、運はブルクたちに味方していた。
「シアねぇ、おそうじ終わった」
最悪のタイミングで、ミリーが教会にやってきたのだ。おそらく1人だけ早く終わったのだろう。他に子供はいなかった。
「おやおや、どうやら彼女がミリーさんのようですね。標的が自分から出てきてくれるとは。日ごろの行いが良いからですかね」
「これも神の思し召しだろう。エイライン、わかっているな」
「ええ、確認しました。彼女で間違いありませんね」
エイラインたちの意識はミリーに移行していた。その隙をついて、ラシアはオルガンの鍵盤に仕掛けてあったアイテムを発動しようとする。
しかし、その動きにエイラインが反応した。
「何かする気ですか? いけませんね、そういうのは」
一瞬で距離を詰めたエイラインが、ラシアとオルガンの間に立つ。
「エイライン、早くしろ」
「そう急かさないでください。すぐにやりまっ!?」
ラシアを威圧しながらミリーに近づいていくエイライン。しかしそれを阻むように、ミリーとエイラインの間にまたも障壁が展開する。
ラシアのときよりも強い力を感じたエイラインは、障壁を破壊するために、躊躇いなく『イクスヴェイン』を振り下ろした。
ガギリ、と音を立てて、障壁と『イクスヴェイン』が激突する。
「なにっ!?」
ラシアのときと違うのは、『イクスヴェイン』が障壁を突破できずにいることだ。
目を細めてエイラインが連撃を繰り出す。だが、それすら障壁は軋みながらも耐えてみせた。
「しっ!」
「あぅっ!」
連撃の最後に一際力を込めた一撃が叩き込まれる。
迫る『イクスヴェイン』の迫力にミリーが尻餅をつくが、障壁にはわずかなひびが入っただけ。
「……これは驚きました。まさかハイヒューマン製の武器を使った私の攻撃に耐えるとは」
「っ!?」
「エイライン!」
「おっと、失言でした」
エイラインが漏らした一言に、ラシアは驚きを隠せない。ハイヒューマンの作った武器といえば、まさに神剣だ。
さらに驚くべきは、ミリーを囲む障壁の耐久度の高さだろう。シンから首飾りを受け取ったときは貴重なアイテムくらいに思っていたが、ここまで強力だとは思っていなかった。
「仕方ありません。壊すのは時間がかかりそうですし、別の方法でいきましょうか」
「えっ、あぐっ!?」
言うが早いか、エイラインは『イクスヴェイン』でラシアを守る障壁を完全に消滅させ、その体を地面に叩きつける。そして、刃をラシアの首にぴたりと当てた。
「シアねぇ!!」
「さて、では交渉です。ミリーお嬢さん。彼女を殺されたくなかったら、障壁を張っているアイテムを捨ててください」
「だ、だめよミリー!! それ、ぐっ!」
やめさせようとするラシアを、エイラインが押さえつける。あまりの力に、ラシアは言葉を途切れさせた。
「シ、シアねぇ……」
ミリーはどうすればいいのかわからず、小さくラシアの名前を呼ぶことしかできない。
「ふむ、ポーズだと思われましたかね。ではこれならどうです?」
おろおろするだけのミリーに追い討ちをかけるべく、エイラインは、ラシアの首に当てていた『イクスヴェイン』を躊躇なく、その右わき腹に滑り込ませた。
「ぁ…………かふっ……」
ラシアは一瞬何をされたのかもわからず、わずかな間を置いて吐血した。
「シアねぇ!!」
思わず駆け寄ろうとするミリー。
しかし、エイラインを敵と認識している障壁が自動で発動し、ラシアとエイラインに近づけない。
「ほら、早くしないと、本当に死んでしまいますよ?」
「ぃ…………だ…ぇ…」
襲ってくる激痛に耐えながらも、ラシアはミリーを逃がそうとした。だが、その口から出るのは、わずかな呼気と言葉にならない音だけだ。
「やだ、やだ! シアねぇを助けて!!」
「なら早くその障壁を出しているアイテムを捨ててください。あなたが躊躇すればするほど、彼女は苦しむのですよ……このように」
「あ、ああ。なあシュニー、今のは一体」
「『真月』に私の魔力を込めました。こうした方がいいような気がして。少しはシンの助けになればいいのですが」
「いや、むしろ礼を言わなくちゃならない。これで足りなかったものが埋まったのは間違いない」
『真月』を見ながらシンは言う。
今のシュニーの行動に間違いはないと、シンは直感していた。
そして同時に理解する。あと3つだと。
「まだ完全じゃないが、どうすればいいのかわかった。ありがとな」
「そう言っていただけると、嬉しいです」
優しく微笑むシュニーは、本当に綺麗だった。
その微笑にシンは息を呑む。人を惹きつけてやまないのに、触れることを躊躇わせるような、言葉にできない美しさがあった。
「――っ、えっと、シュニー、はこの後どうするんだ?」
「できるなら、一緒に月を見ていたいです」
「……まあ、そのくらいお安い御用だが」
「では」
「っ!」
シュニーはそう言って、シンに体を寄せてきた。
肩に重さを感じるのは、シュニーが密着した状態で頭を乗せているからだろう。
「……あー、シュニーさん? これは」
「少しだけ、こうさせてください」
「……了解だ」
シンが肯定すると、肩にかかる重さが増した。
シュニーがその身のすべてを、シンに預けてきたからだろう。最初からそうしなかったのは、断られるかもしれないと思ったからか、それとも照れか。
「…………」
ほんの一時、2人は無言で月を見上げていた。
降り注ぐ月明かりが、縁側に影を形作る。
2人が部屋に戻るまで、寄り添い合う影が離れることはなかった。
†
翌朝、シンたちはキルモントへ向けて出発した。
バルメルで共に戦ったひびねこたちにも挨拶をして回ったので、一般の商人や冒険者よりも若干遅い出発だ。おかげで馬車の周りにはほとんど人がいない。
ティエラが窓の外を見ながらつぶやく。
「なんて言うか、すごくゆっくりに感じるわ」
「さすがに街の近くでかっ飛ばすわけにはいかないからな」
カゲロウの引く馬車は、一般的な馬車と大差ない速度で走っている。
かつてファルニッドへ行った際、馬車による高速移動を体験したティエラにはかなり遅く感じられたようだ。
「本来はこのくらいが普通なんですけどね」
「シンと会ってから、ほんとに感覚が変わってきてるわ……」
シュニーの一言に、ティエラの肩が若干下がる。
「ええと、そこは落ち込むとこなのか?」
「あれが普通と思うのはだめでしょ」
広く普及している馬車では不可能な速度を、当然と考えるのはおかしいと、ティエラはシンに呆れの混ざった視線を送る。
シンは「ですよねー」と応じながら、飾りでしかない手綱を握り直した。
目指す先は竜皇国『キルモント』。
シュバイドと合流するため、シンたちの旅が始まろうとしていた。
「人通りもないし、少しだけスピードアップを……ってメッセージ? ヴィルヘルムから!」
しかし、そんな一同の思惑とは関係なく、1通のメッセージがシンに届く。
ヴィルヘルムが些細なことでメッセージを飛ばしてくるとは思えなかったシンは、すぐに内容を確かめる。
「マジか!?」
「シン? どうかしたのですか?」
シュニーの声を無視して、シンは素早くアイテムカードを取り出しメッセージカードに添付する。
そして「使え」と、ただそれだけを書いて即座にヴィルヘルムに送り返した。
「シン?」
「どうしたのよ」
「くぅ?」
慌てた様子のシンに、シュニーだけでなくティエラやユズハも声をかけてくる。
シンは額にしわを寄せながら、ヴィルヘルムから届いたメッセージの内容を告げた。
――ラシアが刺されたと。
†
よく晴れた日のことだった。
シスターのラシアはいつもと同じ時間に起床し、祈り、子供たちを起こし、教会の仕事に精を出していた。
「では、行ってきます。後のことは頼みましたよ」
「はい、任せてください」
教会で冠婚葬祭が行われるのは珍しくない。今日はある人物の葬儀の打ち合わせに、トリアが出向くことになっていた。
こういうことはよくあるので、ラシアも気負うことはない。
「では治療しますからね。リラックスしてください」
「いつもすまないねぇ」
「気になさらないでください。これもシスターとしての職務ですから」
「あんなに小さかったラシアちゃんが、立派になったもんだよ。これなら、ここも安泰さね」
「トリアさんには苦労を掛けてしまいましたけど、これからは私も頑張りますよ」
教会の近くに住む老婆を相手に、ラシアは小さくガッツポーズを決める。
亡霊平原での一件を経てレベルも上がり、治癒能力も大きく上昇した。今まで手の出せなかった症状にも、ある程度効果が出ている。
教会の後継者問題も解決し、やっと落ち着いた生活が戻ってきた。
そう思っていたのに――。
「お邪魔するよ?」
「っ、ブルク神父様」
教会の入り口に姿を現したのは、ラシアと相続でもめていた神父だった。
脂ぎった顔から流れる汗をハンカチで拭きながら、見ているだけで不快になる笑みを向けてくる。
「ご婦人。申し訳ないがこれから教会関係者同士の話があるのです。席を外していただけませんかな?」
見た目こそ丁寧な口調と態度だったが、その実は老婆への命令だった。
教会の司祭と市井の老人では立場が違う。
老婆が教会を出て扉が閉まると、ラシアは早速切り出した。
「どのようなご用件でしょうか」
「どのような、とはご挨拶だねぇ。ここの引き継ぎについて話をしに来たに決まってるじゃないか」
ブルクは何を言っているのかという顔で返す。人を小馬鹿にしたような表情に、ラシアは不快感を強めた。
「ここは私が引き継ぐということで、話が付いているはずですが」
「おやおや、これはまた気が早い。教会本部からの正式な認証もなしに、この施設を任されたとでも思っているのかい? その認識は改めた方がいいだろうねぇ」
「っ……すでに他の司祭様からも問題ないだろうとお墨付きをもらっています。本部とは距離がありますから、もうしばらくすれば書状がこちらに着くはずです」
「しばらくとはどのくらいかね? 明日かね? それとも明後日? 明確に定まっていないことを根拠にするのはどうかと思うがねぇ」
声が耳に絡みつき、ラシアの全身に鳥肌が立つ。
今さらやってきて何だというのか。言いがかりでもつけるつもりかと思ったが、それにしては余裕がありすぎる。
「司祭様。まさかとは思いますが、そんなことを言いにわざわざお越しくださったので?」
「まさか、いずれ私のものになる教会だ。これは視察だよ、視察」
「……おっしゃる意味が、よくわかりませんね。なぜそんな発言が出てくるのでしょうか?」
ブルクの言い分は、まるでここが自分のものになると決まっているかのようだ。
「まったく。このようにつけあがる者がいるから、世襲制などやめてしまえと言っているのだ。何もわかっていない」
ブルクの口調が変わった。
「質問に答えてください。私が【浄化】を会得した今、規則でここの担当は私となるはずです」
「いやはや、わめくしかとりえがないのか。少しはおしとやかにしたらどうかね。本部のシスターは従順だぞ」
「――っ」
まったく会話が成立しない。
ラシアがブルクを睨みつけていると、唐突に教会の扉が開かれた。
「おや、遅れましたか」
「遅いぞ、エイライン! 貴様がなかなか合流しないせいで、ここに来るまでにひどい目に遭ったのだぞ。ゴーレムに追われるなど……」
「遺跡に寄るとか言い出したのは、ブルクさんなのでしょう? 僕にだって用事があるんですから、文句を言わないでくださいよ。せっかくあれの試し切りができて、いい気分だったんですから」
そう言いながら入ってきたのは、鎧を着た若い男だった。
ベイルリヒトには比較的多い金髪碧眼で、肩まである髪を紐でくくり、にこやかな笑みを浮かべている。甘いマスクも相まって、女性の思い描く理想の騎士のようだ。
ただ、会話しているのがブルクの時点でラシアには不審人物にしか見えなかったが。
「まあいい、何をするかは聞いているな?」
「ええ、外にいた者たちに聞きました。それで、連れて行くというのは彼女ですか?」
「違う、ビーストの子供だ。確か名前はミリーといったか。孤児院にいるだろう。連れてこい」
「わかりました」
なんの感情もなくブルクが命じた。
エイラインと呼ばれた男も、当たり前のようにミリーの場所へ向かおうとする。
「待ってください! ミリーをどうするつもりですか!!」
ラシアが割って入ったが、それを見たエイラインは首をかしげるだけだ。
「ブルクさん。この人邪魔なんですけど」
「好きにして構わん。すでに周囲は固めさせてある」
「では」
それは一瞬の早業だった。
ラシアへと向き直ったエイラインの左手が霞み、投擲用の短剣が放たれる。
その速度は明らかに一般人の力で放たれたものはない。もしラシアに命中すれば、それがどこだろうと簡単に貫くだろう。
「きゃっ!」
「うん?」
ただ、ラシアの周囲に発生した透明な膜、障壁が短剣を弾く。バチリと火花のようなものが飛び、それに驚いたラシアが尻餅をつく。
弾かれた短剣は、硬質な音を響かせて床に転がった。
「へぇ、結界系のアイテムを持ってるのか。それも、僕の投げた短剣を弾くなんてね。自分で作ったのかな、それとも誰かにもらったのかな?」
「っ!!」
興味深そうに笑みを深めるエイラインを、ラシアは驚愕の表情を浮かべたまま見つめていた。
先ほどの投擲がほとんど見えなかったからだ。
ラシアの現在のレベルは151。一般人としてはかなり高いほうだ。動体視力も強化されている。
エイラインとの距離が近いので攻撃を見切ることはできないだろうが、攻撃それ自体を見逃すとは思わなかった。
シンやヴィルヘルムと一緒に亡霊平原で戦ったおかげで、殺気というものも多少はわかるようになっている。少なくとも、敵意なり殺意なりがあれば、完璧ではないにせよ反応できる。
しかし、今のは話が違った。殺気どころかわずかな敵意もない。呼吸をするような自然な動作での投擲。人を確実に殺す攻撃を、何の気負いもなく放てる。その事実が恐ろしかった。
「答えてくれないかな?」
「お、お断りします」
「それは残念。じゃあ、体に聞くしかない、ね!」
言い終わると同時に、ラシアに向かって剣閃が走った。これも瞬時に展開した障壁が防ぐ。
だが、今度は短剣のように弾かれることはなく、火花を出しながら鉛色の大剣が障壁と拮抗していた。
「思ったより硬いね。連続で攻撃されたらどうかな?」
障壁を突破できない自身の大剣を見て、エイラインが感心した声を漏らす。そして次の瞬間には、再び大剣が複数の閃光となって障壁に叩きつけられた。
大剣と障壁がぶつかるたびに、ラシアの周囲を覆う障壁が少しずつ軋んでいく。
「エイライン、何を遊んでいる」
「いやいや、なかなか硬いんですよ?」
「あれがあるだろう。早くしろ」
「仕方ありませんね。モンスターでの試し切りはすんでますし、今度はこっちで試しますか」
エイラインは大剣をカード化してしまうと、代わりに別のカードを取り出して具現化させた。
刀身2メルほどの片刃の大剣だ。
刀身の幅は15セメルほどで、その刃は水晶のような透き通った赤色。鍔元には翼を模した装飾が施され、拳大の宝玉がはまっている。
ただ、その宝玉は刀身と違って黒く濁っていた。
「なかなかの美しさでしょう? 銘が『イクスヴェイン』ということしかわからないのが、残念でなりません」
エイラインが自慢するように『イクスヴェイン』を掲げて見せた。
「見た目だけでなく、性能も折り紙付きなんですよ。こんな風に!」
エイラインは、ラシアの視線が刀身に引き付けられているのを見て満足げにうなずくと、にこやかな笑みを崩さぬまま突きを放った。
空中に赤い残像を残して刃が唸りを上げる。刃はガラスを割るような音を残して障壁を貫通、その先にあったラシアの頬を掠めて停止した。
「……っ」
自身の横にある刃を見て、ラシアはごくりと喉を鳴らす。
もしエイラインがもう少し剣筋を横にずらしていれば、自分の首が飛んでいたのは間違いない。傷口から流れた血が頬を伝っていくのを感じながら、ラシアは体が震えるのを必死に抑えた。
「先ほどの質問、答えてくれません?」
「…………」
ラシアは悲鳴を上げないようにするのに必死で、とても答えられる状態ではなかった。
エイラインは表情こそ笑顔だが、それは好意的なものとは言えない。蝶の翅を毟って笑う子供のような、残酷な笑顔だった。
「……言え、ません。帰って、ください」
死ぬかもしれない。そんな思いがラシアの胸中を満たす。
エイラインの目を見て、ラシアは正直に言ったところで見逃してはもらえないと悟っていた。ゆえに、情報などくれてやるものかと歯を食いしばる。
「それは残念です。まあいいでしょう。目的は別ですし」
ミリーたちは孤児院にいる。死ぬ前に何としても危険を伝えなければならない。
緊急事態を知らせるためのアイテムまで、ラシアの脚で10歩ほど。決死の覚悟で走り出そうとしたラシアだったが、運はブルクたちに味方していた。
「シアねぇ、おそうじ終わった」
最悪のタイミングで、ミリーが教会にやってきたのだ。おそらく1人だけ早く終わったのだろう。他に子供はいなかった。
「おやおや、どうやら彼女がミリーさんのようですね。標的が自分から出てきてくれるとは。日ごろの行いが良いからですかね」
「これも神の思し召しだろう。エイライン、わかっているな」
「ええ、確認しました。彼女で間違いありませんね」
エイラインたちの意識はミリーに移行していた。その隙をついて、ラシアはオルガンの鍵盤に仕掛けてあったアイテムを発動しようとする。
しかし、その動きにエイラインが反応した。
「何かする気ですか? いけませんね、そういうのは」
一瞬で距離を詰めたエイラインが、ラシアとオルガンの間に立つ。
「エイライン、早くしろ」
「そう急かさないでください。すぐにやりまっ!?」
ラシアを威圧しながらミリーに近づいていくエイライン。しかしそれを阻むように、ミリーとエイラインの間にまたも障壁が展開する。
ラシアのときよりも強い力を感じたエイラインは、障壁を破壊するために、躊躇いなく『イクスヴェイン』を振り下ろした。
ガギリ、と音を立てて、障壁と『イクスヴェイン』が激突する。
「なにっ!?」
ラシアのときと違うのは、『イクスヴェイン』が障壁を突破できずにいることだ。
目を細めてエイラインが連撃を繰り出す。だが、それすら障壁は軋みながらも耐えてみせた。
「しっ!」
「あぅっ!」
連撃の最後に一際力を込めた一撃が叩き込まれる。
迫る『イクスヴェイン』の迫力にミリーが尻餅をつくが、障壁にはわずかなひびが入っただけ。
「……これは驚きました。まさかハイヒューマン製の武器を使った私の攻撃に耐えるとは」
「っ!?」
「エイライン!」
「おっと、失言でした」
エイラインが漏らした一言に、ラシアは驚きを隠せない。ハイヒューマンの作った武器といえば、まさに神剣だ。
さらに驚くべきは、ミリーを囲む障壁の耐久度の高さだろう。シンから首飾りを受け取ったときは貴重なアイテムくらいに思っていたが、ここまで強力だとは思っていなかった。
「仕方ありません。壊すのは時間がかかりそうですし、別の方法でいきましょうか」
「えっ、あぐっ!?」
言うが早いか、エイラインは『イクスヴェイン』でラシアを守る障壁を完全に消滅させ、その体を地面に叩きつける。そして、刃をラシアの首にぴたりと当てた。
「シアねぇ!!」
「さて、では交渉です。ミリーお嬢さん。彼女を殺されたくなかったら、障壁を張っているアイテムを捨ててください」
「だ、だめよミリー!! それ、ぐっ!」
やめさせようとするラシアを、エイラインが押さえつける。あまりの力に、ラシアは言葉を途切れさせた。
「シ、シアねぇ……」
ミリーはどうすればいいのかわからず、小さくラシアの名前を呼ぶことしかできない。
「ふむ、ポーズだと思われましたかね。ではこれならどうです?」
おろおろするだけのミリーに追い討ちをかけるべく、エイラインは、ラシアの首に当てていた『イクスヴェイン』を躊躇なく、その右わき腹に滑り込ませた。
「ぁ…………かふっ……」
ラシアは一瞬何をされたのかもわからず、わずかな間を置いて吐血した。
「シアねぇ!!」
思わず駆け寄ろうとするミリー。
しかし、エイラインを敵と認識している障壁が自動で発動し、ラシアとエイラインに近づけない。
「ほら、早くしないと、本当に死んでしまいますよ?」
「ぃ…………だ…ぇ…」
襲ってくる激痛に耐えながらも、ラシアはミリーを逃がそうとした。だが、その口から出るのは、わずかな呼気と言葉にならない音だけだ。
「やだ、やだ! シアねぇを助けて!!」
「なら早くその障壁を出しているアイテムを捨ててください。あなたが躊躇すればするほど、彼女は苦しむのですよ……このように」
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