<悪童・ネリに衝撃KOの井上尚弥>その本当の強さとは?歴代の敗者の声から見える姿 『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』 (森合正範著)

2024.05.08 Wedge ONLINE

 感動的なKO劇だった。大型連休最後の5月6日、東京ドームで行われたプロボクシング世界スーパーバンタム級4団体統一王者、井上尚弥の防衛戦。挑戦者の元世界王者、ルイス・ネリ(メキシコ)に1回、ダウンを奪われながらも2回にダウンを奪い返し、6回に逆転のTKO勝ちをおさめた。

井上尚弥はネリへの逆転KOで、またも強さを見せた(西村尚己/アフロスポーツ)

 東京ドームでのボクシング世界戦は、ヘビー級のマイク・タイソンの試合以来34年ぶり。日本人ボクサーがこれほどの大舞台のメインイベントに登場するのは初めてで、まさに「井上ならでは」の快挙でもあった。

 2014年、井上が世界初挑戦でWBCライトフライ級のチャンピオンになって以来、日本のプロボクシング界は「怪物」井上を中心に回ってきたと言っても過言でない。次々と階級を上げ、そこでも圧倒的な強さを発揮してきた。大リーグの大谷翔平を仰ぎ見るように、われわれは井上の快進撃に魅了され続けている。

 その井上の「強さ」を言葉で表現するとしたらどうなのか。スポーツライターとして力量が問われるテーマだが、筆者自身、かつてボクシング記者として悩み、苦心を重ねてきたテーマでもある。

 そこに真摯に取り組んだ記者がいる。今回紹介する『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(講談社)の著者で、東京新聞運動部の森合正範記者だ。

 井上の試合を何度も取材し、その強さを記事にしてきた森合記者だが、自分の原稿が井上の強さを読者に正しく伝えているのか。そんな時、知り合いの雑誌編集長からヒントをもらう。井上に敗れたボクサーに、井上の「強さ」を語らせてはどうか。

 スポーツ取材の手法としては決して新しいものではないが、敗者にきちんと語らせることができるか。それが生命線となる中、森合記者は見事に応えてみせた。

 ネリ戦の興奮が冷めやらない中、井上の強さはどこにあるのか――。再確認する意味でも、目を通しておきたい好著だ。

「化け物」の予感

 井上に敗れたボクサーがきちんと話してくれるだろうか。触れてほしくない傷口に塩を塗り込むような作業にならないだろうか。最初、著者は躊躇する気持ちが強かったようだ。それでも、実際に井上とグローブを交えたボクサーにしか語ることができない「井上の強さ」を聞き出したい、という思いが勝り、取材を始めた。

 最初に取材したのは、井上がプロ3戦目に対戦した日本ライトフライ級1位、佐野友樹だった。すでに現役引退から5年が経過し、松田ジムでトレーナーをしていた。

 佐野は名古屋市生まれ、小学5年からボクシングを始め、高校は沖縄尚学高校に?国内留学?した。東洋大学でボクシングを続けたが途中で断念。名古屋に戻って再びボクシングを始め、22歳でプロデビュー。

 8年後の11年8月、初めて日本タイトルに挑戦する機会を得たが、きわどい判定負けでベルトを逃した。網膜剥離の一歩手前まで眼の状態が悪化し、2度の手術を経験。現役続行か悩んでいるとき、井上と対戦する話がジムに持ち込まれた。

 一方の井上は高校1年でインターハイ、国体など高校3冠を達成、高校3年ではインドネシア大統領杯、シニアの全日本選手権を制するなどアマチュア7冠を勲章にプロへ転向。いきなり八回戦デビューし、フィリピンとタイの王者にあっさりKO勝ちして2連勝、期待通りの「大器ぶり」を発揮した。すでに31歳になっていた佐野が、売り出し中の井上の「咬ませ犬」として選ばれたのではとは誰もが思う。

 <しかし、咬まれるつもりはさらさらない。井上が生まれる前からボクシングを始め、チャンピオンを夢見て、汗水垂らしてきた><名のある井上を食えば、一気にジャンプできる。佐野にも野心がある。もしかしたら、手術明けで約1年ぶりの試合は、最後の試合になるかもしれない。この試合に人生を賭ける。熱い思いが心の中でほとばしる。>(同書54頁)